★サクラとユキは危機をくぐり抜けた
兄が、一日中部屋に籠っていた日がある。執事の世蓮とサクラの二人で、具合でも悪いのかと尋ねに行った時のことだ。
決まりが悪そうに笑いながら、扉をほんの少し開けて兄はこう言ったのだ。
『悪いな。今ちょっと――――』
「コレ、が居るもので」
と、サクラは小指を立てて真顔で言い放った。
一瞬の静寂。その直後に訪れる、「あらぁ……」という侍女の声。後ろに控えていた二人の侍女も、気遣わしげにそっとサクラから視線をそらした。
流れる空気の気まずさの意味を、サクラはまだ知らない。
「ええっと……しかし、サクラコ様は先程到着したばかりで、お部屋にはあなた方二人しかいないと聞きましたが……」
「はい。二人しかいませんが、コレなんです」
ぐいぐいっと小指を突き出すサクラ。その顔はどこか自信に満ちている。
そのとき、侍女メリッサは見た。扉の向こうで、ドレス姿のユキがぐったりとベットに横たわっているのを。
「……サクラコ様が貴方の、コレ、なんですか?」
「はい! そんな事情なので、部屋に入るのは控えてほしいんです。
着替えも掃除の、食事の準備もやりますから!」
「……わかりました」
すべてを悟ったような表情を浮かべて、重々しく頷く侍女メリッサ。その直後、意味深長な笑みを浮かべて、声を潜めてサクラに囁いた。
「このことは、誰にも言わないよ。それから……」
「?」
「がんばりな! 応援してるから」
何故かぐっと握り拳を作り、力の入った目でサクラを励ますメリッサ。わけがわからないながらもメリッサの迫力に押され、とりあえずうんうんとうなずくサクラ。このおばさんは何をこんなにエキサイティングしているんだろうかと、不思議に思っていた。
侍女たちはお茶を運びに来たらしく、三人の中の一人は銀のカートを押して来ていた。サクラはカートを受け取り、お茶を入れる時の注意事項をいくつか伝えられる。どうせお茶を淹れるのはユキなので、話半分にうんうんとうなずくサクラ。適当な女である。
「それでは、またあとでお迎えに伺いますから」
「? はい、わかりました」
急に格式ばった『業務モード』に戻ったメリッサがそう宣言し、二人の侍女を引き連れて退場した。おずおずと手を振って見送るサクラ。いそいそと部屋の中に戻った。
「ユキ! オラの見事な手腕で、無事侍女たちを追い返したぞ!」
「…………え?」
人生終焉体勢に入っていたユキが、がばっと体を起して目を見開いた。そんなユキの目の前で、サクラは誇らしげに小指を立てた。
「秘密兵器、『コレ』の力によって追い返した!」
「……………………………………。
あの、ちなみにヒィさま。それ、どんな意味かご存知ですか」
「もちろん! 部屋に見られたくないものがある、という意味だべ!」
かつて、サクラの兄に目の前で小指を振られた執事の世蓮は、顔を真っ赤にしてサクラを抱えてその場から走り出した。その晩の食卓には、赤飯が並んだ。サクラは、小指を立てると人を追い返せる上にごちそうが出るということを覚えた。
「違いますよ! そもそも、どこでそんなこと覚えてきたんですか!」
「ええっと、熊五郎事件の時……桜貴が、こう、指を立ててオラ達を追い返してたことがあったんだべ」
「熊五郎って……桜貴さまが一週間も部屋にクマを飼ってた事件ですか!
どうやって隠してたのかずっと不思議だったんですが、そんな卑猥な方法だったなんて!」
「桜貴、困った時は小指を立てろよってオラに教えてくれたんだべが……」
「ああぁあああああああ、桜貴さまのばかあぁああああああ!
ヒィさまにろくでもない事ばっかり吹き込んでぇええええええええ!」
「え? え? なんかオラ、まずいこと言ったべか?」
ユキの絶望っぷりに、さすがに困惑し始めるサクラ。そんなサクラに向って、ずびしぃ! と指を突きつけるユキ。
「いいですか!?
小指を立てるというのはね……愛人って意味なんですよ! 王女サクラコは従者の愛人だって、ヒィさまはそんな意味のことを言ったんです!」
「な、なんだってー!」
一気に状況を把握するサクラ。侍女の熱い目も、あの気まずい雰囲気の意味を、世蓮の狼狽もお赤飯も、なるほどすべてそんなわけだったのかと理解した。
そしてもちろん、自分が侍女たちにどんなにまずいことを言ってしまったのかも。
「あー……ま、大丈夫だべよ。たぶん。誰にも言わないって言ってたし」
「甘いですヒィさま!
年配女性の『誰にも言わないよ』は、政治家ぐらいに信じられない言葉なんです!」
「それはかなり信用がないな」
思わず納得してしまうサクラ。でしょう! と激しく同意を求めるユキ。
「ま、いいじゃない。人の噂も七十五日って言うし、三か月もすればきれいさっぱり忘れられてるべ!」
「その三か月のうちに、うちの国の評判は右肩下がりですよぅ……悪評ってなかなか忘れてもらえないんですよぅ……絶対肩身狭いですよぅ……」
「まあ、そこらへんはユキの人徳で評判を少しずつ上げていってほしいところだべ!」
「無理無理、無理ですよおぉおおおお! もうサンリアに帰りたいぃいいい!」
泣き崩れるユキ。どっかで見たなこの光景、とサクラは数時間前のことを思い出す。
そうだ、ユキを上手に使うには!
サクラは素早くユキの背後に回り込み、ぼそぼそっと悪魔のささやき。
「ユキくんユキくん、帰ったらウメちゃんとの仲を取り持ってあげるよー」
「ヒィさま。僕、頑張ります!」
あっという間に立ち直るユキ。ぐずぐずの泣き顔から、凛々しささえ感じられる精悍な顔つきへ。ちょろいぜ! とサクラはこっそりほくそ笑んだ。
やはりウメ効果はすごい。ユキをここまで骨抜きにさせるとは……何をやったのだ、ウメよ。我が妹ながらに恐ろしい子だ。
外道がそんなことを考えているとは微塵も思わないユキは、アリシアでの生活に対する決意を固めていた。
「王女として、一片の隙も見せず、礼儀正しい姫を演じてみせます! 全力で王女しますね!
そして、ウメさまとラブラブ・ランデヴーになります! ヒィさまをお義姉さまと呼んで見せますから!」
「おー。がんばれ」
いい加減に囃すサクラ。その無責任さは姫としてどうかと思うのだが、それをツッコめる人物は今、想い人との愛の巣を夢見ていた。
立ち上がったユキがキッと目を釣り上げ、「ヒィさま!」と声を張り上げた。その瞳にも声にも、力が込められている。
「目指せしましょう! 国のバリュー・アップ!」
「おー!」
「目指せ、ラブラブ!」
「いえー!」
手を取り合い、謎の盛り上がりを見せるサクラとユキ。わけもわからないまま息を合わせられるのも、二人の長年の絆のなせる技。
「打ち首にならないよう、頑張ろうぜー!」
「ぜー!」
手を繋いだままクルクルと回っていると、再び部屋に響くノックの音。踊るのが少し楽しくなってきたところなので、興をそがれたサクラは不満気な表情を浮かべる。対してやる気に満ち溢れたユキは、よく通る声で元気よく返事をした。
「なんでしょうかー?」
扉の向こうから返ってきたのは、先程のメリッサの声。後で迎えに来るって言ってたなあ、とサクラは今更ながらに思い出す。
そんなサクラの思惑はよそに、告げられたのは予想外の言葉だった。
「サクラコ様、お茶会のお迎えにあがりました」
きょとん、として手を繋いだまま顔を合わせる二人。呆けた表情で、メリッサの言葉を復唱。
「お?」
「ちゃ?」
「はい。王女の方々とレイモンド王子の顔見せを兼ねて、お茶会が開かれると国王陛下が伝えられませんでしたか?」
謁見の時、ユキは緊張に気を取られ、サクラもまた爆笑に心とらわれていたので、そんなことは聞いているはずもなく。ユキの手が、じっとりと汗ばんだ。ぎこちない動きで、サクラを見つめる。そっぽを向くサクラ。
「……ひ、ヒィさま」
「…………」
「ヒィさまとあろうものが、僕を一人になんか、し、しないですよね……?」
「…………」
パッ、と。繋がれた手は、はなされる。
あっという間に置かれる距離。素早く窓際に駆け寄るサクラ。茫然とするユキに向って、しゅたっと敬礼のポーズをした。
「では、任せたぞゆきピー!」
「ちょっと待ってくださいよヒィさまぁああぁあああああ!」
ユキの叫びもむなしく、颯爽と窓から外へと飛び出すサクラ。慌てたユキが窓枠に手をつく頃には、時すでに遅し。そよそよと草木が風に揺れる庭には、彼の主人の姿はなかった。半泣きになったユキ、体を震わせる。
「……ひ、」
ヒィさまのばかぁあああああああああ! と王宮に、哀れな従者――ではなく、王女の声が響いたのは、言うまでもない。