グレーテルと、脱落したヘンゼル
## 鋼の合理主義者:グレーテルと、脱落したヘンゼル
深い深い森の入り口で、二人の兄妹が立ち尽くしていました。兄のヘンゼルは、どこか頼りなげに周囲をキョロキョロと見回し、妹のグレーテルは、まるですべての事象を計算しているかのように冷徹な瞳で森の奥を見つめていました。
そこへ、上空から風を切る音が響きました。見上げれば、古ぼけた箒に跨った魔女が急降下してくるではありませんか。
「おやおや、可愛い坊やに嬢ちゃん。迷子かい? この箒に乗せてあげよう。空を飛べば、家なんてすぐに見つかるよ」
魔女はしわがれた声で、魅惑的な提案をしました。ヘンゼルは一瞬、その不思議な乗り物に心を奪われかけましたが、すぐに妹の視線に気づいて襟を正しました。
「知らない人について行ってはいけない。それが現代社会の鉄則だ」とヘンゼルは、自分に言い聞かせるように断りました。
「容姿、接触のタイミング、および動機の不透明さから推測される犯罪確率は99.8%以上。関与の継続は生存戦略において致命的です」
グレーテルの無機質な声が響くと、魔女は鼻を鳴らして去っていきました。二人は魔女を完全にスルーし、鬱蒼とした森の奥へと足を進めました。
数時間後、二人は森の開けた場所で、奇妙な建造物に遭遇しました。それは、屋根がチョコレートで、壁がビスケット、窓枠は透き通ったキャンディーでできた「お菓子の家」でした。
漂ってくるバターと砂糖の芳醇な香りに、ヘンゼルの空腹感は限界に達しました。
「……グレーテル、少しだけなら、壁の一部を齧ってもいいんじゃないかな?」
ヘンゼルが手を伸ばそうとしたその時、グレーテルの鋭い指摘が突き刺さりました。
「待て、ヘンゼル。お菓子を食べることは、短期的には快楽をもたらすが、長期的には健康に著しい害を及ぼす」
「ええ、分かっている。でも……」
「糖質過多による血糖値のスパイク、それに伴う集中力の欠如およびパフォーマンス低下のリスク。この未知の領域において、我々にそんな贅沢は許されません。栄養学的な合理性が皆無です」
ヘンゼルは渋々手を引っ込めました。二人がその家を立ち去ろうとした瞬間、ドアが勢いよく開き、中から顔を真っ赤にした魔女が飛び出してきました。
「食べないのかい!? せっかく最高級のバターを使ったのに! 失礼な子供たちだよ!」
激昂する魔女を尻目に、二人は脇目も振らずに歩き続けました。プライドを傷つけられた魔女は、怒りに震えながら彼らの背中を追い始めました。
森のさらに深部。二人の体力は限界に近づいていました。食料は底を突き、ヘンゼルの足取りは幽霊のように覚束なくなっています。そこへ、再び魔女が箒に乗って現れました。今度はその手に、瑞々しいレタスと厚切りのハムが挟まった、見るからに美味しそうなサンドイッチを抱えています。
「さっきは意地悪を言って悪かったねえ。これは栄養たっぷりのサンドイッチさ。これさえ食べれば、街までの体力が戻るよ。さあ、お食べ」
ヘンゼルの瞳に、希望の光が宿りました。
「……グレーテル、これならどうだろう。野菜も肉も入っている。栄養バランスは悪くないはずだ」
しかし、グレーテルの表情はピクリとも動きません。
「ヘンゼル、その甘さは命取りよ。無償の提供には必ず隠れたコストが存在する。この状況下での『善意』を信じることは、**人生丸ごと失うリスク**に等しい。拒絶します」
魔女の堪忍袋の緒が、音を立てて切れました。
「可愛げのないガキどもめ! ならば、望み通り飢えて死にさらけ! きええええええええ!」
魔女が杖を振ると、周囲の木々が爆発するように燃え上がりました。凄まじい炎の嵐が巻き起こり、森は一瞬にして巨大な火炉と化しました。
絶体絶命の危機。しかし、グレーテルは冷静でした。
「ヘンゼル、慌てるな。熱力学を考慮しろ。風上へ向かい、湿った土を掘り、気道を確保する。生存率を1%でも上げる行動を」
彼女は適切な対処法を指示し、パニックに陥るヘンゼルを引きずるようにして、炎の包囲網の僅かな隙間を突き進みました。
長い長い、地獄のような夜が明けました。
朝の光が照らし出したのは、緑豊かな森ではなく、見渡す限りの焼け野原でした。
灰の降り積もる荒野を、二人の影が動いていました。
「死ぬ、死ぬ……もう一歩も動けない。死んでしまうよ」
ヘンゼルは地面に膝をつき、弱音を吐き続けました。
「統計的観測。**ヘンゼルの生存確率、0%**。エネルギーの枯渇により、思考回路が修復不可能なレベルまで損壊しています」
グレーテルは、立ち止まって兄を見下ろしました。彼女自身の頬もこけ、体は震えていましたが、その瞳だけは異様なほどに冴え渡っていました。
ヘンゼルは座り込んだまま、過去の後悔を口にし始めました。
「……あのお菓子を食べていれば。あのサンドイッチを受け入れていれば。たとえ毒が入っていたとしても、今よりはマシだったはずだ……」
無意味な仮定、無価値な後悔。ヘンゼルが言い訳を重ねるたびに、周囲の空気は冷え切っていきました。やがて、ヘンゼルの声は途切れ、動かなくなりました。
「……」
グレーテルは無言で周囲を見渡しました。すると、焼け跡の中から、先ほどの魔女が使っていたと思われる「大きな大釜」が転がっているのを見つけました。
「ヘンゼルがこの焼け野原を抜ける確率、0%。しかし、私が生存する確率は、新たな栄養源を確保することで飛躍的に向上する」
彼女は躊躇しませんでした。
どこからともなく持ってきた大釜を据え付け、僅かに残っていた火種で熱しました。そして、物言わぬ肉塊となったヘンゼルをそこへ放り込み、グツグツと調理し始めました。
それは、実の兄を「兄」としてではなく、単なる「タンパク質と脂質の集合体」として認識した瞬間でした。
その後、グレーテルは残酷なまでに効率的な移動を開始しました。
彼女は焼け残った僅かな水分を啜り、瀕死の動物を見つけては容赦なく捕食し、地図を頭の中で構築しながら最短ルートで荒野を突き進みました。感情というノイズを完全に排した彼女の行動に、もはや迷いはありませんでした。
数日後、グレーテルは森の向こう側にある、ある街へと辿り着きました。
彼女はそこで、持ち前の高い知能と冷静な判断力を活かし、瞬く間に社会に適応していきました。「森で兄を亡くした悲劇の少女」という仮面を完璧に使い分け、適当な支援を受け、適当な仕事を得て、そして自分と同じように「感情よりも論理を優先する」賢い人々との人脈を築き上げました。
彼女の住む清潔なマンションの窓からは、遠くに青々と再生し始めた森が見えます。しかし、彼女がかつての兄を思い出して涙を流すことはありません。
グレーテルにとって、あの森での出来事は単なる「リソースの最適化」に過ぎなかったのですから。
彼女は今日も、栄養バランスの完璧に整った食事を摂り、高いパフォーマンスを維持しながら、合理的で幸福な人生を謳歌しています。
めでたし めでたし




