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墓参りの逆指名

作者: 妙原奇天

 名簿は、ポストではなく、玄関脇の牛乳受けに差し込まれていた。

 白い封筒。紙は古く、触れると粉っぽい香りが立つ。宛名はない。表には薄く、墨の滲みが指の腹を黒くするほど残っていた。


「返礼日だよ」


 台所から母の声。まな板に包丁が当たる軽い音が、湿気を含んだ空気に吸い込まれていく。山から降りる風がほとんどなく、昼の熱が廊下に取り残されている。


「回覧、班の分はあんたが。会長さんにはあたしから電話しとく」


 半年前に父が死んで、僕はUターンして実家に戻り、自治会の班長代理を引き受ける羽目になった。都会にいた頃には、自治会という言葉は遠いものだった。こっちは違う。ゴミ置き場の鍵、草刈り、行方の分からない猫の目撃情報、回覧板。全部が生活に手を突っ込んでくる。


 封を切ると、毛筆の文字が立ち上がる。名簿。姓だけの列。鵜飼、真柴、籾山、太刀川、木下。


 そこで、目が止まる。


 木下の下に、もう一行あった。


 木下 仁。


 父の名。半年前に、町の診療所から救急車で運ばれ、そのまま戻らなかった人間が、ここにいる。黒い墨は乾き切って、こすると粉は出ない。かわりに、僕の指先にざらざらが残った。


「今年は、拭いちゃだめだよ」


 母が背後で言った。


「何を」


「窓。去年、あんた帰ってきてなかったからね。忘れないうちに言っとく」


 母は台所のタオルを握ったまま、縁側のガラス戸を見ている。指先でなぞる癖がある。夏の湿気で指跡がすぐにつく。叱られた覚えがある。子どもの頃、僕はこの家のどこのガラスにも自分の指紋を残して歩き、母は雑巾をぶら下げて僕の後を追った。その習慣は、母のなかに残っているらしい。


「返礼日って、何を返すの」


「もらったものを」


 母の答えは、曖昧で、短い。「誰から」と訊ねようとしてやめる。祭りや盆の行事はまだわかる。しかし、返礼日という言葉は、ここに戻ってきて初めて聞いた。盆明けの最初の土曜。封筒は毎年、自治会長の家か、班長の家に来る。名簿は姓だけの列。そこに記された家は、その日のうちに裏山の墓地に参る。行かなかった家は、夜の間に窓の外側に手形がひとつ増える。


 そう教わったのは、引っ越し荷物を片付けている最中、鵜飼会長が立ち寄った時だ。冗談だろう、と笑ったら、老人は笑わなかった。去る間際、会長は玄関先のガラスに、じっと目を近づけ、指を折って数えるまねをしてみせた。数える仕草は、奇妙に丁寧だった。


 その日の夕方、僕は封筒を抱えたまま、向かいの真柴の家のチャイムを押した。彼は同じ学年で、小学校から一緒にサッカーをした仲だ。都会に出ず、ずっとここにいる。


「おう、班長代理」


 曇ったガラス越しに彼の輪郭が揺れて見える。網戸の裏でタバコの煙が曲がる。


「来たか、返礼。うち、今年は無理」


「行かないのか」


「その名簿、うちの姓、あるなら見せてくれ」


 封筒から紙を抜き、玄関の外灯に透かす。光で透けたりはしない。名簿の、真柴の行を指で示す。


「あるだろ。去年もあった。行ったよ。でも今年はさ、上の子、熱で」


「代理を出せばいいんだろ」


「苗字が同じじゃないとダメだって、会長に言われた」


「じゃあ、お前か、親父さん」


「親父、腰。俺、仕事」


 煙が細く横に流れ、ガラスの外側に薄く指の跡が浮かんで見えた。彼がドアを開ける前から、そこに白い掌が一つあるような気がする。汗が指紋にくっついて光る、夏のガラスの手触り。


「去年は、どうしてた」


「去年? 二日目に行った。窓に二つついて、上のが泣いて。面倒くさいけど、行ったら消えた」


「消えるのか」


「朝にはな。夜は見えなくなる。明るくなると、なぜか思い出す」


 奇妙な言い回しだ。僕は笑いそうになって、やめる。真柴は肩をすくめ、玄関の引き戸を小さく閉めた。鍵はかけない。ここのやり方だ。戸の隙間から、スリッパを引きずる音が遠ざかる。


 名簿を回覧に回し、集会所に寄って鵜飼会長の印をもらう。会長の手は墨のにおいがする。老人は封筒をつまみ上げ、今年は、という前置きなしで言った。


「木下は二つ」


「二つ?」


「お前の家の行を二つ、見なさい」


 紙を持つ手が汗ばむ。木下。木下の下に、仁。もう一行、薄く、木下が重ねられている。墨の滲みが重なって、僅かに黒の層が厚い。


「会長。父は死にました」


「知ってるよ」


「なのに、どうして載る」


「載るもんは載る。去年も載ってた」


「去年?」


「去年、木下は行かなかった」


 会長は、紙に指を接触させないよう、爪の先で空をなぞるようにして行を辿る。指の動きはぎこちなく、それでも迷いがない。


「写真を撮っとけ。写らんけどな」


「何が」


「明日の朝」


 老人は、もう話すことはないというように、扇子をぱたぱたと動かし、窓の隙間に風を誘い込んだ。窓の外の空気は、湿って、重く、こちらに寄り掛かってくる。


 夜。台所で母が炊飯器の蒸気に顔をしかめている。僕は縁側に座り、外を見ている。電灯と外灯がガラスに映り、暗い庭の奥は見えない。虫の音に混ざって川の音が細くする。空気はぬるく、顔の周りでくっつく。


「志摩さんに電話した」


 母が言う。志摩梢。地域包括支援センターの保健師。年上だが、同世代のように話しやすい。


「名簿の件、去年も相談して、統計みたいなことしてくれて。数が合うって」


「何の統計」


「窓の手形の数」


 母はまっすぐな言い方をする。嘘がないかわりに、不気味な言葉がそのままになる。


「手形が増えたら、数えるの?」


「比べるの」


 僕は笑う。笑って、すぐやめる。母は笑わない。


「拭かないでね」


「何を」


「窓。夜は、拭かない」


 母は指先を見下ろす。古い火傷の痕が、薬指の付け根に小さく残っている。幼い僕の手をはたいた時、熱いヤカンに触れたのだと、ずっと昔に聞かされた。窓拭きと、僕の指の癖と、火傷。母の手の履歴は、表面に残っている。


 翌朝、玄関を開けると、空気は少し乾いていた。夜の湿りが抜ける途上。向かいの真柴の窓に、白い掌がひとつ貼りついている。開いた指、まっすぐな手首。拭けば落ちるような薄さ。だが僕は拭けない。他人の窓だ。自分の家のガラスは、何もついていない。僕は目を凝らして、いくつかの小さな曇りを探す。見えない。かわりに、母が隣で指を折っている。


「一。昨日のぶん」


「見えるの」


「数えるの」


 母の声は、昨夜と同じ言い方で、昨日とは違う重みを帯びている。真柴の家の玄関が開き、彼が出てくる。目が合う。彼は苦笑して、窓に近づき、雑巾を取り出して拭き……かけて、やめた。迷ったのだ。夜は拭くな。朝は、どうだ。拭かないに越したことはない、と彼もまた思ったのだろう。彼は雑巾を握り、手を止めたまま、肩で笑った。


「写真、撮ってみる?」


 背後から声。志摩梢が立っていた。ジャージの上にカーディガン。髪は後ろでひとつに束ねてある。首から下げた名札が胸元で跳ねる。


「写らないのは知ってる。でも、試すと納得するから」


 志摩はスマホを構え、窓ガラスに向けて何枚か撮る。画面を僕に見せる。そこに手形はない。ただ、ガラスの反射に映る彼女の顔と、朝の空がある。志摩は頷いた。


「でも、数は合う。去年、町内でアンケートを取ったの。見えた人、見えない人、関係なく、数だけは合わせてもらう。変な話だけど、合った」


「何と何が合うの」


「名簿の件数と、手形の増分」


「増分?」


「昨日より今日いくつ増えた、っていう差。最初からの累計じゃない。増え方」


 志摩は数字に強い。説明がおかしいのではなく、現象がおかしいだけだと、彼女は言外に言っている。


「今日、うちは一。真柴さんも一。名簿の数も一ずつ。明日、真柴さんが行かなかったら、二」


「うちは」


「名簿に、木下は二行ある」


 志摩は名簿を覗き込む。木下と、仁。彼女は眉を寄せる。


「去年も載ってたのに、去年は行かなかった」


「父は……病院だった」


「代理は、同じ苗字の人」


「僕が行けた」


 言葉にして、自分で驚く。同姓なら代理可。母から聞き、会長も頷いていた。だが、誰も僕に言わなかった。僕も、聞かなかった。聞けなかったのではなく、耳がそこだけ塞がっていた感じがする。耳は、便利なところだけ開閉する。


「今年、行く?」


 志摩は軽く尋ねる。軽いけれど、選択を促す響きがある。


「今日、行く」


 口が先に動いた。僕は名簿を握りしめ、母に伝える前に外へ出た。墓地への道は、家の裏から山を回り込むように伸びている。石の階段。苔。蜘蛛の巣。石のにおい。空気はひんやりして、湿っている。下腹のあたりに、冷たい帯のようなものが絡みつく。


 山道を上がる途中、公民館の脇に寄る。金庫に去年の名簿や回覧板の控えが保管されている。古い建物の鍵は、会長の腰からぶら下がっている木の札の束のひとつだ。会長に頼み、金庫を開けてもらう。中には、古い紙が整然と並んでいる。紙は紙で、どれも同じ厚さに見える。けれど、羽をめくるように指を入れると、質感が少しずつ違う。去年の名簿を見つけ、開く。木下。仁。そこにいる。行った記録は、ない。誰も押印していない。押印欄には、空白が白く残っている。


「印を押すのか」


 僕は言った。


「押すよ」


 会長が短く答える。印は、公民館の古い三文判。木下。個人名ではない。家の名。


「去年は、押してない」


「押せなかった」


 会長は目を伏せた。言い訳ではない。事実だけ。去年の夏、父は呼吸が苦しく、僕は東京にいて、母は病院に付き添い、名簿は回っていた。押印欄は空白のまま、金庫にしまわれた。返礼日の夜、窓に手形が一つ増え、翌朝も増え、二日目に母は自治会長に電話して、会長が代わりに山に上がった。だが、押印欄は空白のまま戻った。会長は言った。「苗字が違うから、押せない」。そういうことらしい。


 山を上がると、石段の間に空気の流れが変わる。蝉の鳴き声が遠ざかり、代わりに、草の擦れる音が近づく。墓地は段々状に広がっている。石の表面は均質ではなく、触ると温度が違う。日の当たる石は熱く、日陰の石は冷たい。木下家の墓は、真ん中より少し上の段。石塔の前に、薄い紙が束になって置かれていた。領収書のような薄さ。黄ばんだ紙を指で摘むと、角がやわらかい。


 紙には、墨で数字が書かれている。何行か。おそらく、彼岸の年単位の整理か、参った回数の記録か。…違う。数字ではない。よく見ると、苗字だけが繰り返されている。木下。木下。木下。心許ない筆圧の行も、鋭い筆圧の行も、どれも、均質な癖を持っている。不自然な均質。人間の筆跡は、同じ人でも日によって変わる。これは、変わらない。変わらないのに、人の字に見える。


 束の下に、小さな朱肉と、古い三文判があった。木下、と彫られている。僕は息を呑み、指に汗がにじむのを感じる。押せと言われている。押せば、終わる。押さなければ、終わらない。そんな感じだ。


「代理で、押せますか」


 背後から、声。志摩だった。いつの間にか、山を上がってきている。息は上がっていない。


「押すだけなら、誰でも押せる。でも、帳尻は、合わない」


「帳尻」


「ここにあるのは、渡したものの受け取り。誰が渡したか、ここはあまり気にしない。あっち側の都合で、家の名が並ぶ。押すのは、受け取り側の代表」


「何を、受け取る」


 志摩は答えない。答えにくい、のではない。彼女のルールは、言わないことにしているのだろう。保健師としての彼女は、説明し過ぎない。説明し過ぎると、住民が自分で決めなくなるからだ。


 僕は印を持ち上げる。掌に収まる木の冷たさ。朱肉の表面は乾いていない。押す。朱が紙に、じゅ、と吸い込まれる音がする。自分のものではないはずの家の印を、自分の手で押す。罪悪感と、奇妙な快楽。代わりに決めることの甘さ。


 押印を終えた紙束は、軽くなったように見えた。僕が本当に押したのは、一枚だけだ。なのに、束全体が薄くなった気がする。帳尻が合ったのだろう。


 墓地を降りると、空気は少しだけ動いていた。山の匂いが背中にまとわりつく。夕方が近づき、影が長い。家に戻ると、母が縁側の前で立ち尽くすようにしていた。


「行ったの」


「押した」


「ありがとう」


 母は微笑む。笑い方は、昔と同じだ。


 夜。風鈴が鳴る。電灯の反射がガラスに重なる。僕はわざと窓に近づかない。窓際でスマホを構え、写真を撮る。何も写らない。反射の中に、自分の目だけが妙に暗く見える。


 朝。真柴の窓は、きれいだった。昨日までの手形がなく、透明だ。彼の顔がガラスの向こうに現れる。目が合う。彼は親指を立てる。子どもの泣き声がしない。志摩が小さく頷く。帳尻は合ったのだ。


 僕の家の窓は、曇っていた。縁側のガラス戸の、内側。白い手形が、ひとつ。外側ではない。内側。開いた指が、こちらに向かって、貼りついている。母が息を呑む。僕は無意識に雑巾を探し、すぐに手を止める。拭かない。拭けない。


「内側に、ついた」


 志摩の声が、背中から滑り込む。


「内側?」


「受け取ったから。外側の請求は終わり。今度は内側からの、領収」


 志摩の言い方は冷静だ。納税の説明に近い。僕は笑いたくなる。笑って、やめる。


「何を受け取った」


「木下の、未処理」


 彼女はそれしか言わない。未処理。父が死ぬ前、二人で交わした短い口論。病院に行く朝、母が弁当を作り、僕は東京に戻る予定のメールを書き、父は何か言いかけてやめた。口の形だけで、言葉は出なかった。未処理は、そこら中に散らばっている。散らばったまま、人は死ぬ。人は生きる。帳尻は、いつも後回しだ。


 午後、自治会の臨時会議が開かれた。班長、民生委員、会長、数軒の住民。畳の匂いと、扇風機の震える音。会長が古いファイルを広げ、返礼日の過去十年の記録を読む。名簿と、押印と、窓の手形の報告。志摩が簡単なグラフを示す。年によって件数は前後するが、増分は名簿とほぼ一致している。どれも人の話として集められ、写真や動画の証拠はない。なのに、誰も疑わない。疑うと、数が合わなくなる。数が合わないと、不安が倍になる。数の一致は、共同体の鎮静剤だ。


「拭いたら、どうなる」


 真柴が訊く。彼は今年、拭かなかったが、去年は拭いたらしい。


「夜は、拭かないで」


 志摩が答える。「夜、境界が緩むから」


「昼は」


「昼は、拭いてもいい。でも、数は覚えておく」


「数が減るわけじゃないんだな」


「増分は、増分。消費税みたいなもの」


 場が少し笑う。笑いが場の湿気を薄くする。志摩は、わざとユーモアを交えたのだ。場の呼吸を整えるために。彼女は保健師で、呼吸の整え方を知っている。


 会議の終わりがけ、会長がつぶやいた。


「返礼は、もらったものへの礼だからな」


「何を、もらったんです」


 僕は訊いてしまう。会長は少し考えて、短く答えた。


「手間」


 手間。手に間。間に手。僕は窓の手形を思い出す。ガラスに開いた指。家と外の間に、手がある。手は、間にある。手間。僕は変なところで納得して、少し笑う。


 その夜、母は夕飯の味噌汁を少し濃く作った。父が好きだった濃さだ。母はそれを自分で飲み、少し顔をしかめた。僕は食卓の上に、印鑑を置いてみる。公民館から返し忘れていた古い三文判。木下。木の冷たさ。印面に残った朱肉が光る。


「それ、返しておいで」


 母が言う。口調は柔らかいが、目は真っ直ぐだ。


 翌朝、公民館で印鑑を返す。会長は受け取り、金庫にしまい、鍵をかける。鍵の音が、畳の上に短く落ちる。音の後に、静けさが残る。僕は帰り道、裏山の裾で立ち止まり、墓地の方向を見上げる。葉の間から、空の白が覗く。風が少し吹く。風は、何も運んでこない。何も持っていかない。


 昼過ぎ、志摩からメッセージ。夕方、少し話せる、と短い文。保健センターの相談室で会う。エアコンの効いた空気。壁のポスター。高齢者の熱中症予防。彼女は紙コップの水を僕に渡し、切り出す。


「去年、木下さんのお父さん、返礼の日、山に向かってた」


「誰が見た」


「鵜飼さん。会長」


「会長は、『押せなかった』と言った」


「押せなかったのは、押せる人じゃなかったから。…苗字が同じでも、体は、違う。行く途中で、呼吸が止まって、倒れた。救急車の音は、皆が聞いた。救急車は山に入れないから、担架で下ろした。だから、押印は空白」


 僕は黙る。志摩は続けない。続けないのが、彼女のやり方だ。僕が言葉を選び始めるのを待つ。


「父は、代理のつもりだったのか」


「たぶん、そう。去年の名簿は、木下と、仁。…二つ目に『仁』がある年は、珍しい」


「珍しい」


「珍しい」


 志摩の声は、変わらない。変わらない声に、揺れが含まれている。僕は、紙コップの水を一口飲む。冷たさが舌の上で広がり、すぐに喉の奥で温度を失う。


「数は、合ったのか」


「去年は、合ってない。去年の増分は、二までいった。三日目に、誰かが、山に上がった。会長じゃない。名前は出ない。押印は、空白のまま」


「誰が上がった」


「誰かが」


 彼女は言わない。言わない、ということは、言えない、ということだ。僕はそこで、窓の手形の数を思い出す。二まで増え、三日目に消えた。誰かが、上がった。誰かが、受け取りに行った。誰かは、家の代表ではない。印が押せないから。代わりに、何か別の仕方で、帳尻を合わせた。何を渡したのか。誰かの時間か、誰かの約束か。言葉に出来ないものを、言葉に出来ないやり方で差し出したのか。


 僕が家に戻ると、縁側のガラス戸の内側にある手形は、薄くなっていた。消えたわけではない。薄くなった。見える時も、見えない時もある。母は、薄くなった手形の前で、指を折っている。


「一」


「何を数えてるの」


「一は、一」


 母のやり方は、変わらない。数えることで、落ち着く。数は、鎮静剤だ。鎮静剤は、依存を生む。依存は、共同体の形を整える。整った形は、時々、首を絞める。


 翌日。真柴の家の窓は、何もない。子どもは庭で虫取り網を振り回し、笑っている。彼の笑い声は、空気の表面を滑っていく。僕の家の窓の手形は、今日も薄い。薄いかわりに、位置が少しだけずれている。昨日より、室内の奥に寄っている気がする。錯覚かもしれない。錯覚だったらいい。錯覚ではない気もする。


 夕方、僕は裏山に上がる。印は持たない。紙束もない。墓前に立ち、手を合わせる。何も願わない。願うのは、やめる。願いは、帳尻を狂わせる。帳尻は、どこかで合う。合う場所が、自分の内側か外側か、その違いだけだ。風が吹き、葉が重なる音がする。石の表面が冷たい。掌に冷たさが移り、指の節にひびが入るような感じがする。


「何か、置いていく?」


 背後から声。志摩がそこにいる。いつの間にか、来る。彼女の足音は、草の上で無音だ。


「置いていく」


「何を」


「父の声」


 僕はそう言った。言って、笑った。言葉にすると、内容が薄くなる。父の声は、耳の奥に残っている。返礼の日の朝、僕が電話に出なかった時の留守電の音声。短く、呼吸の間が多い。「悠真、帰って来なくていい。…今年は、俺が行く」あの呼吸、あの空白。空白が、今も、窓の内側に貼りついている。


「声は、置ける」


 志摩は言う。彼女の言い方は、奇妙に具体的だ。僕は首を傾げる。


「どうやって」


「数える」


 彼女の答えは、思ったよりも簡単だった。数える。声を数える。声を、数に変える。変換。変換すれば、扱える。扱えるようになったものは、置いていける。置いていったものは、記録される。記録は、帳尻を合わせる側の養分になる。…そんな理屈が、一瞬で骨まで滑り込んでくる。


「一」


 僕は口にする。父の声を、思い出す。ドアを開けて帰ってきた時の、ただいま。机に投げた鍵の音。新聞紙をめくる音と重なる鼻歌。病院の駐車場で、ハンドルに額を押し付けていた時の呼吸。ひとつひとつを、数にする。指で数え、口で数え、息で数える。数は、静かに増える。増えるたびに、窓の内側の手形が薄くなる。薄くなり、やがて、形が残り香のようになる。


 墓前の紙束に、薄い風が当たる。紙がかすかにめくれ、裏の白が見える。僕はその白さを見て、思う。何も書かれていない白は、最初からの白ではない。何かを書こうとしてやめた白だ。ためらいの白だ。白は、ためらいでできている。


 家に帰ると、母は窓の前に座っていた。手形は、薄い。母は指を折っていた。数は、僕の数と同じだった。合っている。合っているのに、全然、安心しない。合うことが、不安を減らすのではなく、次の不安の土台になる。


「行ってくれて、ありがとう」


 母が言う。僕は頷く。頷いた頭の内側で、何かが静かに、別の場所に移動する感覚がする。何か。言葉にならない何か。未処理の残骸。残骸のかけら。かけらは軽く、軽いから、窓の内側に貼りつけることができる。僕はそれを、そっと剥がす。剥がし方は、もう知っている。数える。数えて、剥がす。剥がしたものは、墓の方角に送る。風に乗せる。風は、今日は少しだけ、こちらに優しい。


 夜。縁側に座り、外を見る。電灯の反射に、僕の顔が二重に映る。その向こうに、庭。さらに向こうに、暗い道路。さらに向こうに、真柴の家。彼の窓は、透明だ。透明な窓は、何も映さないわけではない。透明だから、反射が強い。透明だから、内側が鏡になる。内側が鏡になると、人は自分の顔を見る。自分の顔を見ると、手の跡が見えない。見えないと、数える。数えると、合う。合うと、眠れる。眠ると、返礼日は終わる。


 翌朝。手形は、消えていた。完全に、消えたわけではない。僕の目にはもう見えないが、母は指を折らなかった。数える必要がなくなった。僕は窓を開け、空気を入れ替える。山から風が降りてくる。風は、何も持っていかない。何も運んでこない。風はただ、風だ。


 その後、町では、返礼日の名簿が例年より少しだけ短くなったという話が出回った。誰も確かめない。確かめられない。公民館の金庫は、鍵が増え、鍵の管理簿ができ、鍵の鍵ができた。志摩は、簡単なアンケートをもう一度配り、集計した。結果は、去年とほぼ同じ。増分は、名簿と合う。写真は、写らない。数は、合う。


 真柴は、「うち、今年は行けたから」と笑い、子どもに新しい虫かごを買った。会長は、扇子を強くあおいで、「山の風が変わった」と言った。母は、窓を拭いた。昼間に。夜は拭かない。ルールは守る。ルールは、誰かのために作られて、誰かのために守られる。


 僕は、といえば、書き置きを残す習慣がついた。留守にする日の朝、机の上に短いメモ。帰る時間。夕飯はいらない。返礼日はいつ。印は返した。窓は拭かない。数は合っている。母はそれを読み、特に返事はしない。必要ない返事は、書かない。必要な返事は、たぶん、別の場所に届いている。


 秋になると、裏山の木の葉は色を持ち始めた。赤と黄の混じった葉が、石の上に落ちる。落ち葉は、誰かの足に踏まれて、粉になり、土になる。手形は、出ない。名簿は、また来る。来年も、再来年も。紙は古くなり、でも、字の癖は変わらない。均質で、不自然な筆致。人が書くには、あまりに変わらない。変わらないものは、ありがたい。ありがたいものは、時々、怖い。


 冬が来る前に、志摩が転勤するという噂が流れた。隣町の保健センター。彼女は笑って、「どこでも一緒」と言った。どこでも、数は、合うのだろう。数が合う世界で、僕たちは暮らす。暮らし方は、変えられる。数え方は、変えない。変えないほうが、いいこともある。僕は、彼女に礼を言った。礼は、返礼とは違う。礼は、ここで、済ませる。


 最後の返礼日から半年。春。縁側のガラス戸に、子どもが手をついた跡があった。真柴の子が遊びに来て、はしゃいで、掌をぺたりと貼りつけた。母は笑い、雑巾で拭いた。昼間だった。拭いたら、すぐに消えた。消えた跡は、何も残らなかった。僕はそれを見て、少しだけ、ほっとした。昼の手形は、ただの手の跡だ。夜の手形は、数だ。数は、礼だ。礼は、返す。返す相手は、いつも、ここにはいない。


 夏がまた来る。蝉が鳴く。湿気が廊下に座り込む。牛乳受けに、白い封筒。紙の粉。墨の匂い。宛名はない。表には薄く、滲んだ跡。僕は封を切る。毛筆の列。姓だけの列。鵜飼、真柴、籾山、太刀川、木下。


 木下は、一行だけになっていた。


 僕は、息を吸い、吐く。吸って、吐く。呼吸の間に、夏が入ってきて、出ていく。縁側のガラス戸は、透明だ。外の光が、内側にまで差し込む。窓は、内と外の境界で、境界は、手のひらの幅だ。手のひらは、数えるためにある。数えた数は、帳尻の端。端は、いつも、少しほつれている。ほつれは、怖くない。怖いのは、均質だ。均質は、安心の形をしてやってくる。安心の形で、こちらの首を撫でる。撫でられるのは、たまに、悪くない。


 封筒を畳み、母に渡す。母は頷き、回覧に挟む。僕は靴を履く。裏山へ行く。紙は持たない。印も持たない。手ぶらで、石段を上がる。墓前で立ち、手を合わせる。数えない。数えるのは、下りてからでいい。上では、数えない。上では、ただ、立つ。立つこと自体が、返礼になることがある。そういう種類の礼もある。誰も教えてくれなかったが、そういう気がする。


 帰り道、風が顔に当たる。風は、何も持っていかない。何も運んでこない。風はただ、間を通り抜ける。通り抜けた後に残るものは、軽い。軽いものなら、僕は、持てる。指で、数えられる。数えた指は、ガラスに触れない。触れなくても、そこにある。そこにあるものを、あるままにしておく。あるままにしておくのも、礼だ。


 家に戻ると、母が縁側の前で、座っていた。窓は透明だ。母は、指を折らない。折らない指は、膝の上で静かに重なる。重なった指の上に、薄い光が落ちる。光は、数えられない。数えられないものも、この町には、ちゃんとある。いいことだ、と僕は思う。いいことは、だいたい、数えにくい。数えにくいものを、残しておくために、数えやすいものに数をつけておく。返礼日は、そんなふうにできている。


 遠くで、救急車のサイレンが鳴った。母が顔を上げ、音の方向を探る。音は、町の端を曲がり、やがて遠ざかる。遠ざかった音は、記憶のなかで、数になる。数は、合う。合ったからといって、何かが終わるわけではない。終わらないのが、生活だ。生活のなかで、僕たちは、礼を返す。返し方は、それぞれ。名簿は、今年も、淡々と回る。紙は古いが、紙の裏は白い。白は、ためらいでできている。ためらいが、ここには、ちゃんとある。ためらいがある町は、まだ、やさしい。僕はそう思って、縁側に座り、風が通るのを待った。風は、来る。来ない時も、ある。来ない時は、数える。来た時は、数えない。そうやって、今年も夏が終わる。

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