第六話 心の穴とバイトの後輩
「いらっしゃいませー。何名様でしょうか?」
十一月の中ごろ、もう冬と言えるほど外が冷え込んだある日の夜。
一樹は相変わらず居酒屋で身を粉にしながらバイトしていた。
居酒屋の中というのは熱気で溢れている。
客がドアを開けるたびに入り込んでくる冷気との寒暖差に風邪をひきそうになるくらいだ。
酔った気分のまま大声で笑っている大学生たち、個室を貸し切って飲み会している会社員と思われる人たち。
一人で来ている人もいれば、大勢で来ている人もいる。
今日も居酒屋は大勢の人で賑わっていて、働く側としては忙しい。
半年以上前から生活は全くもって変わっていなかった。
日中は講義を受けるか、友達と遊んで、夜はバイトか、飲むかの生活。
それなのにも関わらず、一樹の心は前よりも心の穴が広がって、それが満たされることはなかった。
EDも治って、華は戻ってきているというのに、たまにやってくる喪失感に胸を苦しませている。
二週間前、美月と初めてを経験してからずっとである。
あれからもう半月も経った。
けれど美月と会うことは叶わなくて、あの日のことがずっとモヤモヤとして心に残り続けている。
時にそれは性に対する原動力になって、また同時に後悔にも変わる。
初体験のことがいつまでも忘れられない。
「一樹くん、ぼーっとしてないで料理できたから三番テーブルのところ持って行って!」
「あ、すみません! すぐ行きます」
一樹が考えごとをしていると先輩に注意される。
そこでやっと一樹は我に帰る。
繁盛期の今にぼーっとしてはいけない。
「どうしたの? 体調悪い?」
「い、いえ、大丈夫です。すぐ持ってきます」
「でも休憩は取れてないでしょ? 料理持ってたらちょっと休憩しなよ」
「……すみません、そうします」
一樹は自分でもらしくない行動が多いことは理解している。
そろそろ切り替えなければいけない。
この日常はそもそも前と変わっていないのだ。
今いない美月のことを考えたところで、どうしようもない。
元カノと別れた時も何も考えなかったじゃないか。
そう自分に言い聞かせると、休憩を取るために更衣室に向かった。
「あれれ、先輩じゃないですか。お疲れさまですっ!」
更衣室に入ると、バイトの後輩である小鈴がソファに座っていた。
それを見た一樹は一瞬だけ苦い顔をする。
「……お疲れ」
「むっ……なんでちょっと嫌そうな顔したんですか」
「せっかく休憩なのに休まらないと思った」
小鈴と喋るとダル絡みしてくるのが定番である。
別にそれが嫌というわけではないが、こうなるとまともに休憩できない。
小鈴にとっては喋ることが休憩らしいが一樹はその感覚がよくわからない。
そんなことを考えながら一樹はソファに座ろうとする。
しかし反対に小鈴はソファから立ち上がった。
「ちょ、ちょっとお手洗いに行ってきます」
そんなことを言う小鈴は自身の左手で右の指先を覆うようにしていた。
何やら様子がおかしい。
一樹はそこで小鈴が怪我をしていることに気づいた。
「どこか切ったのか? 絆創膏ならこっちにあるぞ」
「……あ、あれ、バレてました? 隠せたと思ったのに」
小鈴は指先を覆うことをやめる。
すると小鈴の人差し指の腹からは血が流れていた。
血は人差し指の関節まで垂れていて、そんな怪我を隠していたので手の中は血だらけである。
「とりあえず手洗ってこい。そしたら絆創膏貼ってやるから」
「……ありがとうございます」
小鈴が手を洗い終えると、一樹は小鈴の手当てを始めた。
更衣室のロッカーの一番奥にある救急箱を取り出すと、座っている小鈴に対して軽い処置をしていく。
「先輩」
「どうした?」
「……すみません、今日またお皿割っちゃって。それで指まで切っちゃって」
「そんなこといちいち気にするな。お前がドジなのは知ってる」
「でも……先輩とかお店の人に申し訳なくなるんです。みんな優しくしてくれるのに……私、何も成長できていない気がして」
いつも元気な小鈴が弱音を吐く機会はあまりない。
相当落ち込んでいるのが声色からもわかった。
小鈴は入ってきた時からドジだった。
よく皿を落としたり、ミスがとにかく多かった。
それをヘラヘラと流しているわけではないからこそ、店の人は優しいし、そのミスを庇っている。
しかしそれに対して小鈴は罪悪感を抱いていたようだった。
「皿を割る回数減ったし、成長はできてるだろ」
「ううん、何も変わってないですよ……私、昔から陰キャでアホでどうしようもない人間で、大学に入ったら変われるかなって思ったんです。けど、実際は変わったと思った自分に酔いしれて遊んでばっかで……私、アホだしドジだし、何も変わってないです」
ミスが相当心を傷つけたのか、発言がマイナスである。
小鈴は涙を溜めているのか目はいつもより潤っていて、治療していない左手の方は少し震えている。
そんな小鈴を見た一樹は小鈴の指に絆創膏を貼り終えると、小鈴の額にデコピンをお見舞いする。
「いたっ……な、何するんですか」
「あんまり気にすんな。そういうのは考えたらキリないし、優しくしてくれるならそれでいいだろ」
「流石、先輩……何も考えずに生きてきた人は違いますね。で、でも……」
「でもじゃない。少なくとも変わろうとしてるならそれでいいんだよ。そういうの気にしてまたミスするより、思い切ってバイトした方が成果出るだろ」
一樹がそう言うと小鈴は暗そうな表情から一点。
クスッと笑ったあと、またいつもの明るい笑顔を一樹に見せる。
「それもそうですねっ! じゃあ今から頑張りますっ!」




