第三十五話 最低な父親
「にゃあ」
一樹がコンビニから出るとそこには美月の代わりに猫がいた。
茶色の毛と翠色の目を持つ大人の猫だった。
一樹が猫と目があうと、猫は一声鳴く。
「……猫?」
リードはつけていないが、野良猫だろうか、飼い猫だろうか。
そんなことを考えながら一樹は屈んで猫に目線を合わせると、一樹は猫に手を伸ばす。
猫はそれを避けたかと思うと、「シャー」と音を立てて威嚇したので一樹は触ることを諦める。
どうやら人慣れはしていないらしい、それとも一樹にだけ?
小さなことに凹みつつ、一樹は切り替えて美月を探そうと立ち上がる。
そして辺りを見渡してみるのだが、美月らしき姿を見つけることはできなかった。
すぐ近くにいるとは思うが、どこにいるのだろうか。
コンビニで少し悩みすぎていた気もする。
それで暇にしていた美月がどこかへふらっと行ったのだろう。
ひとまず連絡を取ってみるべきだと思った一樹はスマホをポケットから取り出そうとする。
すると、猫がまた鳴いた。
一樹は鳴き声がした方に反射的に向く。
そうして一樹と目があった猫はもう一度鳴くと、道を歩き始めた。
猫はまるでついてこいとでも言わんばかりである。
この先に美月がいたりしてな。
そんな馬鹿げた夢を見て、一樹は猫について行くことに決める。
馬鹿げていると理解しつつも、意外にも一樹のそんな夢物語は本当かもしれないと自分で思った。
美月は動物の中だと猫が一番好きだと自分で言っていた。
それゆえ、何となくだが猫の先に美月がいそうなのである。
先に連絡を取ったほうがいいと頭の中でわかっているのだが、好奇心が抑えられない。
これでもしも美月がいたら話のネタになる。
一緒の話題を作って、一緒に盛り上がりたい。
そんなことを考えながら猫のあとについて行っていると、猫は急に左に曲がった。
一瞬消えたかと思ったが、猫の消えた場所まで行くと、そこにはやっと人一人通れるくらいの横幅の狭い路地裏があった。
猫は一樹のことを待っているのかこちらを見ている。
……流石に美月がこんなところ行くはずないよな。
どれだけ猫の行き先が素敵なところだったとしても、そこに美月がいなければ猫の行き先に興味はない。
一樹は猫の追跡をやめようと決めると、もう一度スマホを取り出して美月に連絡を取った。
『買い物終わった』
『どこにいるんだ?』
一樹がそれらのメールを送ったあと、すぐにメッセージに既読がつく。
そして、間髪入れずに返信が返ってきた。
『助けて、一樹』
美月から送られてきたそんなショートメールは一樹を不安にいっぱいにさせるには十分だった。
何かのトラブルに巻き込まれでもしているのだろうか。
助けを一樹に素直に求めてくれたことなど今まであっただろうか。
今はそのことに対する喜び、よりも、そうしなければならないほどの緊急事態が起こっているのはではないか、と、生まれた不安と心配で軽いパニックを呼んでいる。
とはいえ、一樹はどこに助けに行けばいいのか。
焦る気持ちから美月に電話を手にかけようとした時、美月からメールが送られてくる。
それはメッセージなどではなく、美月の位置情報だった。
一樹はそれを見て、唖然とした。
美月のいる場所がまさに猫が今いる狭い路地裏を通らないと行けないような場所だったのだ。
「この先に、美月が……」
一樹は迷うことなく走り出した。
路地裏の入り口に立って一樹を見ていた猫はというと、いきなり追いかけてくる一樹を見て逃げ出す。
一樹が猫を追っている構図になっていたが、そんなことには構わずに一樹は走り続ける。
猫は途中でどこかのラーメン屋の裏口から店に入って行った。
一樹は位置情報を頼りに美月の場所まで走っていく。
やがて連絡から一分もかからずに着いた先には三人の人がいた。
女児と中年男性、そして……美月。
暗がりの中、建物と建物の間から差し込む光が美月の怯えた顔を照らしていた。
状況はわからないが、美月は前の男に対して怯えているらしかった。
男は何か言葉を発しながら美月に詰め寄って、その腕を掴む。
一樹は急いで三人の元へ向かう。
そして男を殴りたくなる気持ちを抑えながら、一樹は男の腕を掴んだ。
「手、離してもらえますか」
「……だれだ、お前?」
「誰でもいいんじゃないですか。暴力を見過ごせなかったただの通行人です」
一樹は男の腕を全力で握る。
男が美月から手を離してそれを振り払おうとしたので、一樹もその手を離した。
「……一樹っ」
美月は一樹の名前を震えた声で呼ぶ。
内心では怖がりながらも、一樹はそんな美月の方を見て笑って見せた。
美月の後ろにいた女児にも目を向ける。
幼稚園児か小学生低学年くらいの子だろうか。
体がほっそりとしていてわからないが、その顔にはあざがあった。
男に殴られでもしたのだろうか。
「お前、美月の彼氏か?」
「……なぜ美月の名前を?」
「美月の父親だしな、俺」
男が放った言葉に一樹は理解が追いつかない。
両親という美月に対して疑問に思っていたことの一つだったが、今この場でその答えを出すことなど当然できなかった。
ともかく男が誰であれ、美月を傷つけたことには変わりない。
一樹は男を警戒して睨みつける。
「そんな怖い顔すんなよ。そうか、美月に彼氏ができたのか」
「いい子そうだな。美月のために駆けつけてくれて。で、美月、もうヤッたのか?」
美月の反応を見るに本当に父親であることには間違いなさそうだった。
けれど男が美月の父親だと一樹は思いたくなかった。
言葉も行動も笑顔も、全てが不快だった。
それだけじゃない。
美月の男へ向ける怯えた顔は父親へ向けるそれではなかった。
「でも残念だなあ。美月はお前が初めてじゃないんだわ」
「……いきなり何の話だ」
「美月の処女は俺が奪ったって話……期待の星のグラビアアイドル月乃は初めてを俺で捨てたってわけ」
男はニヤニヤと鳥肌が立つような笑みで笑っている。
不快であることはまず間違いないし、美月に対する侮辱発言も許せない。
しかし行動原理がわからない。
優越感を感じて浸りたいだけなのだろうか。
ともかく、一樹は手で美月に合図すると、少しずつこの場所から移動させる。
「……仮にそれが本当だとして、自分で自分はクズですって言ってるようなもんだけど大丈夫か?」
「あ? 違う。俺はこいつらのためにやってるだけ。こいつらも喜んでやってるだけ。中学生で美月が初めてを卒業した時も、俺が教えてやったんだよ」
どうやら人を支配することで優越感と愛を感じたい卑しい人間らしい。
ああ、そうか、こいつは……。
点と点が繋がった気がした。
『私さ、キャバクラやってんたんだ、昔……グラビアする前、中三の初めの方』
『実は……高校も卒業してないんだよね』
この男が美月の人生を狂わせた元凶だったのだ。
父親がこれだったから、美月は……美月はずっと苦しんで……。
一樹は目の前の男を許すことなどできなかった。
何十発も殴ってやりたかった。
『放っておいてって言ってるじゃん……私と関わったらロクなことにならないから』
『でも、なんで? なんで、私に優しくするの?』
『不思議だよね。嫌われても、当然の人間なのに』
美月のことが好きだったから一樹も一緒に抱えたかった。
美月のことが好きだったから一樹は美月を支えたかった。
美月のことが好きだったから、美月のことをたくさん知りたいと思った。
好きだから、美月の頑張りを知っているから、一樹は目の前の男が憎くて憎くて仕方がなかった。
「……それ以上、美月を侮辱するなよ」
一樹は内からいくらでも湧き出てくる怒りに感情が流されそうになる。
しかし男のニヤけ顔で一樹は我に帰る。
ここで一樹が怒りのまま殴っても、先に手を出したのは一樹側だと言ってきて喧嘩に発展しそうである。
そうであれば男の支配欲と優越感は満たされたままだ。
だから一樹は一度止まった。
性と酒に流されて感情のまま行動していたあの時の一樹とはもう違う。
いいことを思いついた一樹は男のような笑みを浮かべた。
そして、男を軽蔑することにした。
「……っていうか、卑しい人間だな。そんなのでしか愛を感じれないとか。しかもロリコンか。引くな」
声のトーンを低くして、冷たく、淡々と。
睨んでいた目を軽蔑の対象に向けるような目に変えて。
言い終わりには鼻で笑って。
すると案の定、男はそれに乗ってくる。
「そんな目で……俺を見るなよ……!」
都合のいいことに男は一樹めがけて殴りかかってきた。
「か、一樹っ……!」
一樹はそれを上手い具合に腹筋で一発喰らおうとするが、その拳は軌道を変えて一樹の顔に直撃する。
感情に流されるような男の拳など痛さも何も感じなかったが気づけば一樹の鼻からはポタポタと血が垂れていた。
肌を指すような外気の中で一際暖かい血がポタポタと唇を伝って、顎を伝って、地面へと落ちていく。
後からじわじわと痛みがやってくるが、鼻血も出ているのでどちらが暴力をしたかは一目瞭然だろう。
ちょうどいい。
一樹は離れの物陰から来ようとする美月のことを静止する。
美月の話し声を聞いていた限り、警察は呼んだらしいのであとは時間の問題なのだ。
「……誰だってそういう目でお前を見てるだろ。性でしか、自分より弱い人間を支配して優越感を感じることでしか、満たされない、愛も作れない。けど、その愛も偽物。人間の劣等種だな」
「クソ……が」
一樹は男への怒りを悪口に変換して罵り続ける。
美月をいじめていたこの男も結局は自分より弱い人間を支配して愛を感じたかっただけの小物だったのだ。
その愛を満たす道具として父親にも関わらず美月を使ったことを決して一樹は許さない。
今まで美月が苦しんだ分、一樹が男のプライドをズタズタにする、今、そう決めた。
静かに心で燃えた怒りは行動に反映される。
一樹は怒りに任せて放った男の拳を今度は避けると、男の金的を思いっきり蹴る。
すると男はその場でうずくまる。
「……そんな目で、俺を見るな」
「当然だろ。犯罪者」
「っ……!」
男は再び立ち上がると一樹に殴りにかかろうとする。
その時、男の後ろから警官が走って駆けつけてきているのが見えた。
一樹は暗がりを利用して警官にばれないように、男の足を踏む。
転けそうになったところで、男の急所を思いっきり潰す気で握ると、男はその場に倒れ込んだ。
自分でもなぜそんな繊細な動きができたのかはわからない。
ただ、美月のためにという気持ちは思ったよりも大きいものだったらしい。
「ストップ! 喧嘩やめて! 落ち着いて!」
ちょうどよく警察の人が来た。
悶絶している男に心配の声をかけながら一樹は軽蔑の眼差しを送る。
男は唇を噛むばかりで何も言わなかった。
美月の方を見た。
すると、美月はその場で泣いていた。
一樹が美月の元へ向かおうとすると一人の警官にそれを止められる。
「事情を聞く前に……君、ちょっと酷い怪我だね。大丈夫?」
「大丈夫です。この人に殴られただけです……それより、女性の警官の方は今いますか?」
「い、いるけど……」
「なら、あの二人の元に行ってあげるように言ってください」
一樹はやっと美月を守れるようになったのだろうか。
もう、彼女の隣に立てるようになっただろうか。
深く息を吐くと、白い煙が上へ上へと登っていく。
そんな煙に合わせて、一樹も顔を上げる。
すると、路地裏から見えるわずかな夜空に二つの星が特別輝いて見えた気がした。




