第二十九話 頼れる後輩
夜の居酒屋というのは大層賑わっている。
店内は騒がしく、店員は忙しく。
当然大変なわけで、そんな状況になれば考え事をする暇がない。
とはいえ、没頭できる何かが欲しかった今日にその状況はうってつけだった。
一樹が美月のことについて聞いてから二人は一度も顔を合わせなかった。
美月は部屋から出てこなくて、すぐに一樹もバイトの時間になったからだ。
けれど一樹の心の中では数時間前の出来事がずっと残っていた。
そんな心残りを消そうと一樹は必死にバイトに打ち込んだ。
そうしてバイト終わり、精神的にも肉体的にも疲労しきった一樹は机を拭きながら大きなため息をつく。
ただ、一樹の疲労が考え事をさせないようにしていて、不思議と楽だった。
「先輩、お疲れ様です。ホールは楽しいですけど大変ですね」
そう言いながら水を一樹に差し出す優しい後輩の正体は小鈴だった。
珍しく気が利くなと思いながら一樹は差し出された水を受け取る。
「ありがとう。気が利くな」
「先輩、お疲れのようでしたから。私は気遣える後輩なので」
「自分で言うのか」
「気が利いて優しくて頼れる先輩の大切な後輩です」
「なんか増えたな……頼れる以外は間違ってないけど」
一樹がそう言うと、小鈴は露骨にがっかりとした表情を見せる。
そんないつも通りのやり取りに一樹は思わず笑ってしまう。
一樹は机を拭くのをやめて、小鈴がくれた水を一口飲む。
飲み込まれた水は疲れを溶かして、いつの間にか一樹のため息をまた誘発させていた。
「……先輩、本当にお疲れですね」
「二週間ぶりのバイトだしな」
「帰省してたんですっけ」
「ああ、実家に」
「まさか私を振ったから気まずくてバイトに行けなかったとかそんなのじゃないですよね?」
「それも……ちょっとある」
「……おかげで先輩が空いた穴を私が埋めてたんですけど」
小鈴がジト目で一樹を見てきたので、一樹は視線をわざとらしく逸らす。
今日は一樹と小鈴がホールだった。
それで今日の小鈴の手間がよくて、なぜホールの仕事に慣れているのかと疑問だったがそういうことらしい。
「にしても人手不足ですよねー。バイトの人が多くて入れ替わり激しいですし」
「小鈴は辞める予定ないのか?」
「……なんですか。振って気まずいから私に早く出ていってほしいんですか」
「そんなこと言ってない。むしろ逆だよ。小鈴にやめられたら寂しい」
一樹の心には言った後で羞恥が込み上げてきたが、事実なので訂正もしなかった。
しかしなぜか小鈴が黙り込んでしまったので小鈴の方を見てみる。
するとニヤニヤとした顔をしていた。
「先輩……でも私のこと振ったんですね」
「そんな笑顔で嫌味言われると怖いからやめてくれ」
「あはは、これ使えますね」
「……って言うか、振られたのに小鈴はあっさりしてるな。もっと引きずってるのかと」
バイト前にやっと小鈴とは振った後に初めて会うので気まずいことに気づいた。
けれど会って、結局、二人の関係性は変わっていなかった。
小鈴のメンタルには驚かされる。
それとも一樹への気持ちが単に軽かっただけなのだろうか。
そんなことを思ったが、これ以上考え事を増やしても仕方ないと頭の中から消す。
「流石に私はそんなにねちっこい女の子じゃないです。失敗したら次です次」
「振った俺が言うのもなんだけど、引きずってないならよかった」
「先輩こそ、気まずいからってバイトやめないでくださいね。卒業したら正社員にでもなってくださいよ。そしたらまだ先輩をいっぱいいじれ……慕えます」
小鈴の魂胆はともかく、正社員になるのはアリだなと一樹は思う。
ここはすごく好きだ。
よく話してくれる常連さんも慕ってくれる後輩も、優しくしてくれる先輩もいる。
仕事内容も一樹はやりがいを感じている。
あと一年ちょっとでそれらが終わると考えると少し怖い。
まだ続けたいようなそんな気持ちがある。
大変であると同時に簡単に終わりたくないと思うほど一樹にとって居場所になっていた。
辛い時も、今日のように何か思い詰めたりしている時も、後輩と話して、常連さんと話して、業務をこなして。
時に一樹にとっての支えにもなってくれる。
「正社員な……考えとく」
一樹はそうしてまた机を拭き始めた。
将来のことを考えながら。
就職のことを考えながら。
……家に帰った後を考えながら。
一樹が知っている美月のことを考えながら。
まだ知らない美月のことを考えながら。
未来へ向けていた思考は段々と今に近づいていって、今のことは考えないようにしようという思考が一樹の思考を今に縛り付ける。
ここにいるおかげで心は不思議と楽だった。
しかし静かになると思考は止まらなかった。
「……先輩?」
一樹は気づけば同じところばかりを拭いていたらしい。
後輩に声をかけられてハッとする。
「あはは、こんなに疲れている先輩を見るのは初めてです。先輩の何も考えない癖に磨きがかかっています。って言うよりかは、先輩、半分寝てたでしょ」
「……逆だ。考えすぎてた」
「考えすぎ……ですか。今日の先輩らしくないですね。何かあったんですか?」
小鈴は心配の眼差しを一樹の方に向ける。
果たして小鈴に相談してもいいものなのだろうか。
傷ついていないと口では言っていても好きな女性のことで悩んでいると恋愛相談するのはどうなのか。
一樹が黙り込んでいると、そんな心の葛藤を小鈴は見抜いていたらしい。
「あ、恋愛相談でもいいですよ。クリスマスに一緒に過ごした女の人の話でも。むしろ聞きたいですし」
「……ちょうどその人のことで悩んでいるんだが、いいか?」
「本当に恋愛の悩みなんですね……いいですけど、先にクリスマスの日のこと教えてくださいよ。何したんですか? セ◯クス?」
「違う。普通に過ごしただけだ。平然と下ネタを言うな」
「本当かなー」
一樹が軽く小鈴を睨むのだが、小鈴はニヤニヤとした表情を崩さない。
若干の苛立ちを感じつつも、下ネタを言えるテンションなら相談できるだろうと切り替える。
「それで、悩みはなんですか?」
「……端的に言うと、俺はその子のことが好きなんだがその子のことを何も知らなくて悩んでる」
「……というと?」
「何ていうか……その子が何か悩んでて、その悩みを俺は知らないんだ。好きだから、辛いものも一緒に抱えたい。けど……俺はその子のことが何も知らないから何もできない」
好きだから美月のことを知りたい。
好きだから美月のことを支えたい。
けれど一樹はまだ美月のことをなにも知らない。
そうしてなにも知らないまま、またいなくなってしまうのではないか、そんな恐怖がある。
「小鈴、俺さ、どうするべきだと思う」
「……先輩」
そして小鈴は一拍置いてから言い放った。
一樹にとっては真剣な悩みで、重い悩みで、だからこそ今、一樹はよく現実が見えなくなっていた。
そんな一樹を目覚めさせる一言だった。
「なんか束縛してくるヤンデレみたいで先輩に結構ドン引きしそうです。しかも付き合ってないのに」
「なっ……」
「だって好きだから全部知りたいとか、私だったらちょっと彼氏として無理なんですけど」
小鈴が言った一樹に対する罵りは一樹の心を抉った。
ハッとさせられた一樹が考えてみればたしかに自分でもドン引きしてしまうような思考だったからだ。
「……た、た、たしかにな」
一樹は魂が体から抜け落ちたような感覚を覚える。
それと同時に悩みも抜けていき、代わりに疲労が一樹の中を埋めていった。
「別に恋人同士でも、夫婦でも、親子でも、お互いにその人のこと全部知れるわけじゃないんですから。たしかに知らないことも多いかもしれませんけど、逆に先輩しか知らない彼女のこととかもその分だけ存在するわけで。だから先輩が思うやり方で支えてあげようとする方がいいんですよ。一緒に悩みを抱えようとしてくれることが女性としては嬉しいんです」
小鈴はそう言い終えると一樹から視線を逸らして、何かを思い出したのか笑みを浮かべた。
一樹は今までずっと美月のことを全く知らないと思い込んでいた。
好きだからもっと知りたい、そんな欲望に忠実になっていた。
けれど一樹にしか見れない美月のことはもう多分、十分に知っている。
美月は覚えていないであろう美月との思い出も一樹は覚えている。
だから無理に知ろうとして、支えようとするのは間違っていた。
もし支えたいと思うなら、支えたいと思う言葉と態度を一樹もまっすぐに伝えることが大切だった。
それが美月を支えることになるのだから。
「あー……はは、やらかしたな、俺」
一樹が自分の誤りに気づいた途端、過去の自分の行動が恥ずかしくなる。
羞恥と後悔と、自分に対しての苛立ちと。
そんな感情が渦巻いている中、一樹はいきなり小鈴にデコピンをされる。
そこで思考はまたリセットされる。
「いてっ……」
「だから考えすぎですって。バカですね、本当。支えようとしてくれたことは本人も嬉しいと思いますよ……私が嬉しかったわけですし」
「お前は俺の心を見透かしているのか……?」
「先輩がわかりやすすぎなだけです……まったく、先輩は私がいないとダメですねー」
小鈴はそんな定型文のようなセリフを言い放つと、わざとらしくため息をついた。
いつもはドジだけれど頼れる時は頼れる。
いい後輩を持ったなと改めて思う。
「……なんかありがとうな。元気出たし、吹っ切れたわ」
「ならよかったです。明日からは元気にバイトできそうですね」
「そうだな」
一樹は礼代わりに笑顔を小鈴に見せる。
帰ったらするべきことはもう決まった。
そしてそれよりも先のことも少し決められたような気がした。




