第二十六話 知らない横顔
一月三日、十四時をちょうど過ぎた頃。
三日ぶりの自身の家を前にして、一樹は立ち止まっていた。
その手がドアノブに触れようとすることはなかなかしなくて、片方の手に家の鍵を持ったまま固まっている。
美月はこの中にいるのだろうか。
実家を出る連絡を美月にした後、一樹はそれ以上何の連絡もしていなかった。
忘れていたわけではなく、気づかないうちに避けていた。
早く美月に会いたい。
そう思うと同時にこの扉を開けるのが怖い。
『美月、グラビアアイドルやってるらしいぞ』
昨日、翔に教えられた噂がまだ一樹の頭の中に残っていた。
もし教えられていなかったら、ただ会いたいと思うだけで終わっていたかもしれない。
別に美月がグラビアアイドルをしていたところで一樹は何も思わない。
きっと事情があるのだろうし、最初こそ噂には驚いたけれど美月への思いも変わるわけではない。
一樹が胸の内に抱えていた悩みは美月のことを知らなさすぎるということだった。
それこそ本当か嘘かわからない噂を信じてしまって驚いてしまうくらいに。
美月のことを知っていたら、そんな噂を否定できたのだろう。
しかし美月のことをよく知らないから肯定も否定できない。
それを理解した今、また美月のことを何も知らないまま、彼女がいなくなってしまいそうで怖い。
だから扉を開けるのが怖い。
美月のことをよく知らないから、美月のことを考えるだけで最近は不安になる。
知りたい、聞きたい。
でも美月の内に踏み込んで傷つけるのも怖い。
……いや、そんなことは言っていられないのかもしれない。
美月が中にいれば、聞いてみよう。
グラビアのことだけではなくて、全て。
無理だったら少しずつ。
そんな迷いの狭間で選択を決めた一樹は扉をゆっくりと開けた。
鍵はかかっていなかった。
しかし、美月がいるのかと思ったが、玄関には美月の靴がなかった。
中からは物音一つしない。
「ただいまー」
一樹が少し大きな声で言ってみるが、一樹の声がこだまするだけ。
美月はどこに行ったのだろうか。
考えてみれば、中にいるにしろ、出かけるにしろ、いつも鍵をしているはずである。
かけるのを忘れていたのだろうか。
何だか嫌な予感がした。
また、美月はどこかへ消えてしまったのだろうか。
起きて目が覚めたら、美月がいなかったあの時のように。
さようならと手を振って、言い残したことを言えないままそれ以来会うことはなかったあの時と同じように。
きっと少しすれば戻ってくる。
冷静な思考になればわかりきっていることなのに、美月に対する少しの不安が大きくなっていた。
半開きの扉を後ろにして、一樹は玄関でそのまま立ち尽くしていた。
静寂が一樹を包む。
つい三ヶ月前までは二年半一人暮らしを続けていて、その日常に慣れていた。
けれど今ではドアを開けて誰もいなければ少しも落ち着いていられない、そんな状態。
早く美月に会いたい。
ああ、そうか、俺はすっかり美月に……。
そうして余計な思考が消えて、美月を求める欲が強くなった時だった。
「一樹」
後ろから聞き慣れた一樹の名前を呼ぶ声がする。
そして一樹が振り返ろうとした途端、身動きが取れなくなった。
代わりに背中から徐々に温もりが伝わってくる。
突然のことだけれど、一樹は驚くでもなく、ただ安心していた。
自身の腹の前では手袋をした美月の両手が一樹の服を掴んでいる。
手袋は一樹がクリスマスにあげたものだった。
一樹は手袋ごしに美月の両手にそれぞれ自身の手を重ねる。
抱きしめられなくても、一樹から美月に触れて安心したかった。
そうすること十数秒、美月は一樹を抱きしめたまま、言葉を発する。
「……おかえり、一樹」
「ただいま」
「……会いたかった」
美月はそう言うと、少しだけ抱きしめる力が強くなった気がした。
今までこんな風にストレートに感情を伝えられることがあっただろうか。
突然伝えられたそんな言葉は一樹の胸の鼓動をより一層早くした。
けれどなぜか、同時に安心している自分もいる。
不思議な感覚だった。
それゆえ、様子の違う美月に対する違和感は三日間求めていた膨大な安心感と胸の早鐘によってかき消される。
「……俺も、会いたかった」
一樹もストレートな感情を美月に返す。
そうすると、美月は「ふふ」と鼻で笑った。
「……突然、抱きついてどうしたんだ?」
「何となく……一樹で安心したかったから……って、変かな」
美月はそう言い終えると、羞恥からか自分に対して笑った。
それでも一樹は自分を求めてくれることが嬉しかった。
「いや、別に。俺も、安心するし」
「……ふふ、よかった」
扉はおそらく開いたまま、聞こうと思えば外からの音が聞こえるし、凍えるほどの外気が中に入っている。
「……一樹の背中、あったかい」
けれど感じるのは美月の体温と微かに感じる心臓の鼓動、美月の胸の伸縮。
聞こえるのは美月の呼吸音と美月が発する声のみ。
この空間、この時間自体が現実から乖離しているようだった。
気づけば一樹の呼吸のリズムは美月と一致していて、お互いに徐々に深くなっていく。
「なあ、美月」
「……どうしたの?」
まるで天国にいるかのような時間だった。
これが永遠に続いてほしいと思うほどの。
だから聞くなら今しかないとも思った。
美月が一番近くにいて、もう逃さまいとお互い掴んでいるこの状況で一樹は聞くべきだった。
しかし一樹は美月に聞き出そうにも聞き出せなかった。
聞けばこの時間が終わる、そんな惜しさが一樹の口をそれ以上動かさないでいた。
そんな時、電話が鳴った。
美月のスマホからだった。
「……電話、鳴ってるぞ」
「……そうだね」
けれども美月は一樹を抱きしめたまま離さない。
「……出ないのか?」
「ううん、出なきゃ」
そうして美月は一樹を離した。
結局、聞くことも叶わないまま、天国のような時間は一本の電話によって終わった。
動けるようになってしまった一樹は美月の方を見ると、スマホを持ったまま、その画面を見つめていた。
数コールの後、美月は一樹の方を見る。
「……ごめん、ちょっと外で電話してくるね」
「ああ、わかった」
美月はスマホを抱えたまま、外へと出ていった。
開いたままだった扉を閉めて、今度は一樹が家に一人。
気にならなかったはずの外の音が聞こえないことに今度は違和感を覚えた。
そこでやっと一樹は一つ疑問に思う。
美月と電話している相手は誰なのだろうか。
今思えば、三ヶ月暮らしてきて、美月が一樹以外の誰かと電話しているところなど一回も見たことがない。
やはり一樹は美月のことについて何も知らない。
扉をこっそりと開けて、盗み聞きをすれば……。
そんな魔が刺して、一樹はドアノブに手をかける。
けれど謎の力で重くなった扉を開けることはできなかった。
「お待たせ」
数分して、美月は中に戻ってくる。
その頃、一樹はソファに座って美月のことを待っていた。
戻ってきた、美月は少し暗い顔で、それでもどこかスッキリしたような顔をして、一樹に笑みを向ける。
「……何の電話だったんだ?」
「別に、何でもないよ。ちょっと知り合いから電話きてさ」
「……そっか」
また、重要なことははぐらかされる。
しかし先ほど閉ざされてしまった口をもう一度開くのは難しいことだった。
「ねえ、一樹……今から初詣一緒に行かない?」
「そうだな。行くか」
一樹がそう言うと、美月は嬉しそうに「ふふ」と笑った。
その日、一樹はお願い事をした。
『美月のことをもっと知れますように。美月の側にもっといれますように』
長い長い祈りだった。
そしてそれは美月も同じだった。
「一樹、何をお願いしてたの?」
「内緒」
「えー、気になるんだけど」
「美月は?」
「じゃあ私も内緒」
いつか内緒の願い事を二人で共有できますように。
いつか内緒の想いを伝えられますように。
一つ屋根の下での同居生活、それでも一樹はまだ美月の他人だった。
美月の他人でありたくない。
そんな思いが日に日に強くなっていくのを自覚しながら、一樹は隣を歩く美月の横顔を眺めることしかできなかった。




