美月視点③ 依存と恋と雨の音
私の一日のルーティンはある程度決まっている。
朝は私が先に起きていたら二人分朝ごはんを作って、たまに起きるのが遅い一樹を起こす。
「いってきます」
「いってらっしゃい、大学頑張ってね」
「ああ、終わる時にまた連絡する」
朝ごはんを食べて少ししたら、一樹は大学に行くから家で一人家事をしている。
着替えた後は洗濯を回して、掃除して、昼になれば昼食を食べる。
昼食を食べるときは大体一人だけれども、一樹の授業が早く終わった時はたまに一緒に食べたりしている。
そんな時は少し嬉しかったりする。
一樹が大学から帰ってくるまではクリスマスの日のためにも料理の練習をして、帰ってきたら一樹を出迎える。
「おかえり。大学お疲れ様。なんか顔が疲れてるよ」
「……今日は疲れた。あー、テスト勉強しないとな」
「とりあえず何か飲む? お湯も沸いてるよ」
「じゃあ温かい緑茶もらってもいいか?」
大学が終わったら一樹と一緒にだらだらと過ごす。
喋る日もあるし、喋らない日もある。
喋れない日でもなんとなく一樹といるだけで安心してしまう自分がいる。
いつからだろうか。
私は居候の身にも関わらず、一樹の家を本当の家のように感じてしまっていた。
もっと言えば一樹のいる場所が家のように感じてしまっている。
だからなのだろうか。
一樹がいないとすごく不安になる。
やることがあればいいのだけれど、ない時はいつも気持ちが落ち着かない。
昼はまだやることがある。
けれど一樹がバイトだったり、飲みに行ったりで夜いない時はただただ考え事にふけっている。
そして今日はどうやらそんな日らしい。
「久々に友達と飲みに行ってくる。結構遅くなるかも」
「わかった。楽しんできてね……行ってらっしゃい」
十八時ごろ、一樹が家を出ていって、家の中に一人。
何もしなくていいから一人にさせないでほしい。
そんなわがままが言えるはずもなく、私はただ一人、一樹が去った後の玄関に突っ立っていた。
しばらくして私はリビングに戻ると、ソファに座ってテレビをつける。
普段は気にならない時計の針の音がなんとなく邪魔だったから。
それでも一人になるといつも隣にいた人がいない違和感が大きい。
夜だからか、それは顕著だった。
考え事をしないようにしようと、私は夕飯の準備をすることにした。
クリスマスの日までに料理がある程度できるようにならなければならないから、こういう機会はうってつけなのだ。
当然、昼にも練習したが夜も練習である。
一樹の役に少しでも立ちたい。
冷蔵庫の食材を見ながら私は今日作る夕飯を決める。
「……野菜炒めでも作ってみよっかな」
料理の練習をし始めたのは割と最近だ。
十二月に入ってからくらいである。
もともと一樹の役に少しでも立てるようになりたいと思って、こっそり練習を始めた。
そうしたらクリスマスに一緒に過ごすことになったからサプライズをしようと計画しているのだ。
一樹が喜んでくれるかはわからないけれど、一樹の舌が溶けるくらいに美味しいものを作りたい。
そんな思いを抱えながら冷蔵庫から取り出した野菜を切っていた時だった。
集中が途切れていたからなのか、野菜を抑えていた左の指を包丁で切ってしまう。
切ったのは人差し指で、第二関節あたりから赤い血が流れて出ている。
「いたっ……」
私はすぐに左手を切っていた野菜から離すと、流水で自分の傷を洗い流す。
水から引きあげても、まだ指から血が流れている。
包丁の方にも血がついていたのでそれを軽く洗うと、ティッシュで自分の血を吸い取る。
そして私はエプロンのポケットから絆創膏を取り出した。
これでまた絆創膏だらけの指に一つ、絆創膏が増える。
それを見るたびに私は自己嫌悪に陥ってしまう。
何もできないな、本当……。
そう思っていると、過去の記憶が突然蘇る。
『あんたなんて産まなきゃよかったよ! 本当!』
雨の日に狭い室内に響いた母の怒号を今でも覚えている。
あの日、私は家という逃げ場を失った。
母は私を愛してくれているとその日までは信じていた。
けれど最初から家なんてなかった。
今が本当に信じられなくなる。
一樹はなんでこんな私に優しくしてくれるんだろう。
……優しさになんて触れていた機会が少ないから、余計に自分が嫌になる。
私はため息をつくと、料理の練習を再開した。
結局、野菜炒めの味は微妙だった。
野菜は水っぽいし、味は薄い。
指も切ったので今日はどうにも調子が悪い日らしかった。
嫌になった私は風呂に入ったのだが、早々にお風呂に入ったことを今は後悔している。
二十時ごろ、私は本格的にやることがなくなってしまったのだ。
ソファに横になると、テレビを意味もなくぼーっと見ながら、一樹が帰ってくるのをただ待っている。
……早く帰ってこないかな。
一樹がいることが当たり前になっていて、一樹がいないと不安になる。
要するに私は一樹に依存しているのだと思う。
けれど結局どうするべきかどうかもわからない。
バイトを始めたりして、少しずつここを離れる準備をしなければいけないのはわかっている。
今なら住所もあるからバイトもできるし、頑張れば真っ当な仕事だって見つかるかもしれない。
ただ、過去に囚われた自分がそれを許してくれるはずがなかった。
そうしてぼーっとしていた時、雨の音がした。
外の雨かと耳を塞いだが、テレビから発せられていた音らしく、すぐにテレビを消す。
雨の音は一瞬で止まった。
しかし私にとって嫌な引き金を引いてしまう。
私は再度ソファに横になると、今度はうずくまって目と耳を塞いだ。
そうしたところで、頭の中の音がうるさい。
音が小さくなっていったら、それは嫌な夢の始まりの合図。
そのまま私は眠っていたらしい。
そして夢を見ていた。
いつもいつも過去の記憶が夢になって出てきて、また私を苦しめる。
裸になって、聞きたくもない吐息と外で降っている雨音を聞きながら、涙を堪える。
そんな思い出したくもない記憶の夢。
けれど今日は違った。
優しくて、暖かい何かに包まれながら、その顔を見て、吐息を聞いて、安心して泣いていた。
『好きだ、美月』
そしてそんな声を聞いた。
所詮は夢の中の出来事。
それでもいつか私の大好きな人に言われたら私はなんて答えるだろう。
……考えるだけ無駄か、私は釣り合うような人じゃないんだし。
***
少し長い間、私は眠っていたらしい。
目を覚ますといつの間にかリビングの電気は橙色になっていて、常夜灯に変わっている。
スマホで時間を見てみれば深夜の一時。
一樹は帰ってきているのだろうかと寝ぼけた頭で考えながら、体を起こす。
すると、私の体には毛布がかけられていた。
冷静に考えれば電気も消えている。
一樹がすべてやってくれたのだろう。
相変わらず優しくて、そういうところが……。
なんて一樹のことについて考えながら、寝室に向かおうとした時だった。
ソファから降りると、私の足元付近に一樹の頭があった。
一瞬驚くが、心の中はすぐに一樹に対する可愛いという感情に埋め尽くされる。
酔っ払っているのか、いびきをかきながら眠っている。
ほっぺを何回か突いてみるが、やはりそれくらいでは起きない。
「一樹、そんなところで寝てると風邪引くよ」
よく見てみれば一樹は自身には毛布も何もかけずに、ただ床に横になっているだけだった。
私に毛布をかけるだけかけてすぐに眠ってしまったのだろうか。
私はそんな一樹を想像してクスッと笑うと、一樹の体を少し強く揺らしてみる。
しかしやはり起きない。
今度は持ち上げようとしてみるが、私一人の力では男性の体を持ち上げることはできなかった。
どうしたものかと思っていると、突然一樹は目を開く。
「……みつ、き?」
「おかえり、一樹」
一樹は声にならないうめき声を上げながら、ゆっくりと立ち上がる。
立ち上がったはいいものの、真っ直ぐに立てないようでふらふらとしている。
目を離した隙に倒れてしまいそうなほどだ。
私が支えようとすると、その前に一樹は私に向かって倒れ込んでくる。
重たいその体に押し潰されないようになんとか耐えながら、私は一樹を支える。
一樹の体はかなりお酒臭かった。
相当飲んだのだろう。
けれどその様子が可愛くて、愛おしくて、私はまたクスッと笑ってしまう。
「一樹、寝室行って寝よ。風邪引いちゃったら大変だし」
「……美月」
「どうしたの?」
「……もう、はなれないで、くれ」
一樹は酔っ払っている状態でそんなことを言う。
そして美月を一瞬だけ抱きしめた。
しかしすぐにその体の力は抜けて、一樹の方を見れば目を瞑っている。
明日になれば一樹は忘れているだろう。
でも、良かった。
今すごくドキドキしているからそれがバレたら大変だった。
「……私、ちゃんと、一樹に釣り合えるような人になるから」
どうせバレないと思って私から一樹を抱きしめる。
温もりがただ欲しかった。
私は一樹に依存している。
それはわかっている。
でも、同時に恋している。
離れたくない、そうじゃなくて、ずっとそばにいたい。
そう思われるように、そう思えるように、私は少しずつ頑張りたい。
そうしたら、一樹の隣に立てるのかな。




