第十六話 先輩のこと好きです
「先輩、お疲れ様です。さっきはありがとうございました」
シフト終わり、一樹が雑務を終えて更衣室に行くと小鈴がいた。
そして一樹を見るや否や小鈴はすぐに頭を下げる。
さっきというのは一樹が追い出した迷惑客から小鈴を守ったことだろう。
「掴まれたところは大丈夫か? まだ痛むか?」
「いえ、もう平気です。先輩がすぐに駆けつけてくれたおかげですね」
小鈴はそう言ってニコッと笑みを見せる。
いつもの笑みを見せられるくらいには治ったらしい。
守れてよかった。
ふと、一樹は心の底からそう思った。
身体的な面でも精神的な面でも傷がつく前に一樹が割り込めた。
「……ああいう客に会うの初めてだったので、私、何もできなくて。結構、怖いですね。トラウマになりそうです」
「俺がいる日は……安心してくれ。また駆けつけるから」
一樹は自分でもクサいと思うような言葉を言い放つ。
しかし言った後に羞恥が込み上げてきて、一樹は小鈴から目を逸らす。
そんな一樹を見て小鈴は安心したように笑った。
「ふふ、先輩はやっぱりかっこいいです。持つべきものは一樹先輩かもしれません」
「正直、俺も内心ビビってたけどな。けど、イライラが勝った」
「イライラって……何に対して?」
「小鈴の腕掴んでたあの男。あいつさ、元カノの浮気相手だったんだよな」
小鈴は目をパチパチとさせると、何とも言えない表情を浮かべる。
「……わお、すごい偶然。でも、相手は気づいてませんでしたよね」
「一回しか話したことないしな。その一回も浮気現場に遭遇したときだったし……あの時はキツかったな」
「なるほど、じゃあ先輩がED童貞になったのもあいつのせいってことですか」
「……まあ、そういうことになるな」
「感謝すればいいのかわからないのが複雑ですね」
「何で感謝を?」
「けど、何だか私もイライラしてきました。あー、しまった。あいつのイチモツ蹴っとけばよかった」
可愛い容姿を持った女子大生から発せられるとは到底思えない言葉である。
小鈴が悔しそうな表情をする中で、一樹は大事な息子が蹴られる想像をして体の力が一瞬抜ける。
「勝手に私の体に触りやがって……触っていいのは先輩だけなのに」
「なんで俺はいいんだよ」
「あ、触ります? 私、こう見えて結構……」
「遠慮しとく」
一樹が断ると、小鈴は「ちぇっ」と分かりやすく舌打ちをした。
立場が逆であれば小鈴の発言は訴えられてもいいレベルのセクハラである。
そんないつも通りのやり取りに一樹の口から思わず笑みが溢れる。
『ねえ、今、先輩にとって、私ってどういう存在なんですか?』
今なら小鈴の問いにも答えられる。
小鈴が誰かに傷つけられているのを見て、一樹は心の底からイラついたし、心配したし、守りたいと思った。
それは小鈴の先輩としても、一人の人間としてもそう思った。
大切な後輩以上に大切な存在。
小鈴に言えば曖昧だって言われるかもしれないけれど、優しくするには十分な理由のはずだ。
色恋とは訳が違う。
けれど妹のような存在ともかけ離れている。
歳が同じであれば、もしかしたら仲のいい親友にもなっていたかもしれない存在。
「……ねえ、先輩」
「どうした?」
「もう十二月ですね。リア充の季節です。クリスマスに年越し……好きな人とそういうことできるっていいなーって思います」
「……そうだな」
色恋とは訳が違う。
けれど、もし、小鈴のそんな羨望の先に一樹がいたとしたら?
「一樹さん」
小鈴はいつもの先輩呼びをやめて、一樹のことを下の名前で呼ぶ。
一瞬、胸が跳ね上がった。
正確に言えば、痛くなった。
「……クリスマスデート、一緒に行きませんか?」
大切な存在の好意を断ること。
それは自身の大切な存在を自身が傷つけることを意味する。
失恋の痛みは一樹がよくわかっているつもりだった。
相手もどうせ遊びで、一樹も狙っている男のうちの一人なのだろう。
そうであってくれた方が助かる。
けれど一樹のそんな心の自己防衛の考えを破るように小鈴の目は真っ直ぐだった。
「この前の返事、してなかったもんな」
「……正直、先輩のこと好きです。異性として」
「言うんだな」
「どうせ先輩もわかってたでしょ?」
「それは……そうなんだけどな」
そんな気まずい空気に場が支配されていたときだった。
一件のメッセージの受信音が一樹のスマホから鳴り響く。
『バイト終わったかな? お疲れ様』
美月からのメッセージだった。
そして可愛らしいクマのスタンプも送られてくる。
ただの美月からのメールに一樹は今、胸をおかしくさせている。
美月と再会したあの雨の日から、もっと言えばあの日の夜から、一樹の心はすでに染まっていた。
一樹にとって、美月の存在はまさしく黒色で、心の外からそれは日に日に中に浸透している。
そして一度染まれば、他の色には染められない。
「小鈴……あのさ」
「と、とりあえず、また考えておいてくださいよ。クリスマスデートの件」
「……小鈴」
「ほ、本当にいつでもいいのでっ! じゃ、じゃあ私、先に帰りますね。返事待ってますから。できれば直接聞かせてください……お疲れ様です」
一樹が返事を言う前に小鈴は更衣室から出て行った。
まるで答えをすでに知っていたかのような小鈴の態度は一樹の胸に割った皿の破片を落とした。
***
「おかえり、バイトお疲れ様」
一樹が家に帰ると、当然のことながら美月がいる。
ソファに座っていた美月だったが、一樹が扉を開けるとほぼ同時に立ち上がって、一樹の近くまで歩み寄る。
「久々のバイトどうだった?」
「見ての通りで」
「あはは、なんかだいぶ疲れてるね」
「しかも普段は起こらないようなことが色々あったから余計に疲れてる」
一樹は大きなため息をつく。
家に帰ってきた実感で一気に疲労の波が押し寄せてきたのだ。
それに考えすぎで頭も痛い。
そうしてさっさとシャワーを浴びて、寝ようと考えているときだった。
「……ここ使う?」
美月はそう言うと胸を張って、自身の胸をポンと叩く。
一瞬だけ体の力が緩んだ一樹だったが、理性が後からすぐに戻ってくる。
夢が詰まったメロンとメロンの狭間に飛び込んでしまっても別に咎められないかもしれない。
しかしニヤニヤとした表情から冗談とわかるものを真に受けるのは理性が許さなかった。
「遠慮しとく」
「ふふ、流石にね」
一樹が苦笑して断ると、美月も柔らかな笑みを浮かべる。
そんな何気ないやり取りが一樹の疲労を回復させていた。
そしてある言葉が頭に浮かぶ。
「とりあえずお風呂温めておいたから入ってきなよ」
「まじか、ありがとう」
新婚生活。
仕事から帰れば妻がいて、暖かく出迎えてくれて。
現実であるのかは知らないが、お風呂かご飯か妻かを選ばされて。
今の状況と似たようなことが毎日繰り返されているのだろう。
そう思って、途端に美月を抱きしめたい欲望にかられた。
付き合ってもいないのに美月との結婚生活を想像する自分に引きつつ、一樹は妄想をやめない。
「……どうしたの?」
ぼーっと美月のことを見ていたからか、美月は不思議そうに首を傾げる。
「いや、新婚生活みたいだなって思って」
「新婚? なんで?」
「帰ったら、妻が出迎えてくれて、仕事疲れを癒してくれて。今のこれってそんな感じだよなって」
「……普通の新婚生活ってそんな感じなの?」
「多分な……だから、今、何となく、その……美月がさ」
一樹が全ての言葉を言う前に察したのか、美月は顔を赤らめて目を逸らす。
そんな赤らめた顔も今の一樹には愛おしく思えた。
しかしすぐに美月はその赤らめた顔のまま、再び一樹に視線を戻す。
そして美月は少しだけ一樹に近づいて、上目遣いをしながら。
「……お風呂にする? それとも私にしとく? ……一樹くん」
触れようと思えば触れられる距離。
目を合わせ続けて心臓が破裂しそうなほど拍動しているのに一樹は美月から目を逸らせないでいた。
最初は下が熱くなって、徐々にその熱が上へと伝っていく。
一樹はいつの間にか美月の頬にゆっくりと手を伸ばしていた。
そして触れそうになったその時。
「……はっず。私、何やってんだろ。ごめん、今日テンションおかしいかも」
美月はそう言って一樹から離れる。
同時に視線も外れたので、一樹の心臓の鼓動は徐々に元に戻っていく。
「じゃ、じゃあ、風呂入ってくるな」
「うん、ゆっくり入ってきて」
時間に換算すれば五分にも満たない時間のやり取りだった。
けれどその時間は数時間のようにも感じられて、またじわじわと一樹の心が染められていく。
染められれば染められるほど美月との一分一秒が長くなると同時に、小鈴のことを考える時間が少なくなる。
そうして一人になったお風呂場、考え事が自然と湧いてくる。
当然、考えるのは今日あった出来事と小鈴のこと。
けれど、それを考えても、まるで連想ゲームのように思考が広がって、思考は美月に関することに帰結してしまっていた。
「……もうダメだな、俺」
一樹は二回目のため息をついた。
けれどそれは風呂場の蒸気にかき消され、吐いた分吸ったその蒸気は一樹の思考にモヤをかけた。




