第十二話 不慣れの生活、性への苛立ち
「だいぶ片付いたね」
掃除が始まって約二時間半。
あれも汚いこれも汚いと、他の場所の掃除もしていく内に気づけばかなりの時間が経過していた。
やることをひとまず終えて部屋を見渡してみれば、部屋はかなり綺麗になっている。
「そうだな。掃除前がどれだけ汚かったかわかる」
「ゴミだらけだったもんね。にしても、ここまで綺麗になるとなんかスッキリするね」
一樹は床や机に上を指の腹で拭ってみる。
しかし今は埃の一つも付かない。
二時間半の掃除の成果である。
とはいえ、今回の掃除は七割ほどは美月のおかげである。
「ありがとうな、美月。多分、俺一人だったら五時間くらいはかかってた……っていうか、掃除してなかったと思う」
「ううん、大丈夫。住まわせてもらってるんだし、これからは私も掃除手伝うから」
美月はそう言って背伸びをすると、軽く息を吐いた。
その顔からは疲労が伺える。
一樹も達成感に包まれると、間を空けないで疲労がドッと押し寄せてくる。
時間も十二時過ぎ、お腹もかなり空いている。
美月もおそらくそうだろう。
「そろそろお昼にするか……昼はデリバリーでいいか?」
「うん、なんでもいいよ」
「じゃあ……ピザ頼むか」
一樹がそう言うと、美月は小さく笑って「いいね」と返した。
けれど美月のそんな笑顔はぎこちのないもので、まだ奢られることに慣れていない様子だった。
初めて二人で外食した時もそうだった。
遠慮しがちで、ずっと申し訳なさそうにしている。
一樹が食べたいから、そんな理由でも付けないと行こうとしなかった。
別に親の仕送りを使っているわけでもなく、一樹の貯金から、一樹が好きでしていることなのだ。
気にしないでもらえた方がむしろありがたいのだが、まだ抵抗があるらしい。
『私、半分払うよ』
『別に大丈夫だ。むしろ奢らせてくれ』
『……ごめんね、ありがと』
だからこそ、余計に美月の事情が余計に気になる。
お金がないのはわかるが、頼れる家族も帰る家もなさそうなのだ。
それに美月が持っていたのはスマホと小銭のみが入った財布だけ。
どうやって生活していたのかが気になる。
深い事情はありそうなのだが、美月の口からはまだ語られていない。
そんなことを考えながら、一樹はスマホでピザの注文を終えた。
ソファに座って一息つく。
「注文したぞ。大体、三十分くらいで着くらしい」
「そっか、ありがと」
一樹はついでに友人からのメールを返すと、スマホを閉じた。
ふと、一樹は離れた位置で座っている美月の方を見る。
美月はソファの背に体を預けて、何もせずにただ一点を見ていた。
疲れたのか、眠たいのか、それとも考え事をしているのか。
けれど、そんな姿も可愛い、そう思える。
部屋が綺麗になったおかげで余計に美月だけが一樹の視界に映っていた。
長いまつげ、引き込まれそうになるほどうるっとした綺麗な瞳、スッとした鼻筋。
唇を見れば、あの夜のことを思い出してしまう。
一樹はたしかに何度も、その唇を求めたのだ。
あまりにも美しくて、可愛らしくて、魅惑的な横顔に一樹は見惚れていた。
片付いた部屋の中、ただただ静かな空気が流れる。
一樹が美月に見惚れていると、美月はそんな一樹の視線に気づいて一樹の方を見る。
すると、ニコッと笑顔を見せた。
「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
「あ、いや、別に」
正面から見ても、さらに可愛らしくなるばかりで、耐えきれなかった一樹は視線を前に戻した。
高まった心臓の鼓動を収めるために、一樹は立ち上がる。
そしてお手洗いに行こうと足を動かした時だった。
一樹の身動きが取れなくなった。
それと同時に、背中に柔らかい感触を感じる。
一樹の腰回りは美月の華奢な腕と手によってホールドされていた。
その力は弱く、抜け出そうと思えば抜け出せる。
けれど突然のことに固まった一樹は魔法にかかったようにそこから動けなかった。
「……美月?」
一樹は美月の名前を呼ぶ。
しかし返事はない。
美月は一樹を抱きしめる力を強めた。
背中から伝わる感触もより鮮明になって、一樹の体は熱くなる。
しばらくそうした後、ようやく美月は口を開いた。
「ねえ、一樹」
「……どうした?」
「一樹は私に一切何も求めないんだね。私、何も返せてないんだよ?」
「別に返せる時に返してくれたらいいから」
「……お金も、体も、何も求めないの?」
一樹はもう側から美月が離れてほしくなかった。
ワンナイトの関係は嫌だった。
けれどそうなってしまったのは酒と性に体を支配されたから。
もうあの日の二の舞にはなりたくない。
美月を泣かせたくない。
体の関係じゃなくて、話がしたい。
美月の話が聞きたい。
たとえ聞けなくても、一緒にどうでもいい話をしたい。
「別に何も求めない。話し相手になってくれれば、それでいい」
「……もしかして、私がエロくない?」
「違う、そういう問題じゃない」
「なら必要だったら一樹の性処理の道具にされてもいい……私、それくらいしないといけないくらい一樹に酷いことしたんだよ? それなのに一樹にいっぱい与えられて、どうすればいいの……? 体以外で私、何も返せないよ?」
美月は声を振るわせながら嘆くように言った。
鼻水を啜る音が聞こえる。
おそらく泣いているのだろう。
しかし一樹は自分の体を安売りするような美月の言動に同情するでもなくただイラついた。
魔法がようやく解けた一樹は美月の拘束から離れて、後ろを振り向く。
そして目を潤ませていた美月の肩を掴むと、怒りのままにソファに押し倒す。
体だけの関係で終わりたくない。
それをわかっていない美月に腹が立ったし、それをうまく伝えられない自分にも腹が立っていた。
美月は驚いた様子で、一瞬だけ怯えた表情を見せた。
けれどそれを無理にでも受け入れるかのように目を逸らす。
「……ちょっとは抵抗しろよ」
今すぐ襲え。
そんな本能を一樹は理性で強引に押さえつける。
一樹は美月の首筋にだけキスをすると、美月から離れた。
「……しないの?」
「自分の表情を見てから言ってくれ。そんな苦しそうな表情はされたくない」
「……ごめん」
「謝るなって。謝るなら自分に謝れ。美月とは体の関係だけじゃ、俺は嫌なんだよ。だからこれ以上、もう自分の体を安売りしないでくれ」
一樹は美月に語気を強めて言い放った。
そこで冷静になった。
流石に少しやりすぎてしまったかもしれない。
しかし後悔した頃にはもう遅かった。
美月は一粒、二粒と涙を流し始めた。
一度溢れた涙はなかなか止まることはなく、美月は何度も袖で拭っているが止まらない。
一樹の頭の中では思考がパニック状態になっていた。
また泣かせてしまった。
「す、すまん、やり、すぎた」
一樹はすぐに謝罪する。
けれど美月から発せられたのは予想外の言葉だった。
「ううん、違うの……ありがとう、一樹」
美月は涙を流しながらどういう訳か笑っていた。
「心配されるの、嬉しくて……なん、で……なんでそんなに私に優しくできるの?」
「……優しいか?」
「うん、優しい……よ。でも、なんで? なんで、私に優しくするの?」
「そりゃあ、こ、困ってそうだから優しくするに決まってるだろ」
一樹はかっこつけるようにそう返す。
本当はそんなかっこいい理由ではない。
決して善意でやっているわけではなくて、もっと利己的で、ドロッとした感情の方が多い。
家に住まわせたりして優しくしているのも、美月でなければしていない。
不燃焼で終わった初恋の火はあの日に再燃していたのだ。
だから本当の理由は到底美月には言えなかった。
それこそ、美月が自分を大切にするようになるまでは言えなかった。
「……その、いくらでも泣いていいから」
一樹はなかなか涙が止まらない様子の美月にティッシュを箱ごと持ってきて渡す。
「……これ以上優しくしないでよ。なんか余計に泣けるじゃん」
「なんでだよ。いい加減、この優しさにも慣れてくれ」
一樹がそう言うと美月は泣きながらも自然な笑みを浮かべる。
そんな姿が愛おしくて、だから一樹は美月に優しくしようと思えるのだ。