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2 令嬢、新天地にて生まれ変わる1

窓から朝日が差し込む。日差しが目に優しくかかったとき、エルはゆっくりまばたきをした。暖かい太陽の日差しが心地良い。もうすぐ夏が来る。そう思うとエルは少しだけわくわくする。

エルはまだ眠たい気持ちで目をこすったあと、上半身だけ体を起こしてうんと伸びをした。そして、肩につくかつかないほどの髪を軽くかき上げて、小さなあくびをこぼした。エルが眠るのは古く硬いベッドに、つぎはぎだらけの布団。古びた窓から覗く空は晴天で、エルは頬をゆるめる。


「エリィ?エリィ!起きたのかい!!」


ばたばたという足音のあと、扉を強くノックする音と、急かすような声がした。扉の外にいる人物に向かって、エルは、はい!と慌てて返事をしてベッドから降りて立ち上がった。


「早くしな!朝食の準備だよ!!」


扉の外の人物はそう言うと、またばたばたという足音を立てながら、その人物は去っていった。

エルは一度深呼吸をした後、鏡に映る自分を見た。使い古した寝間着に、肩につかないほどの長さになった黒髪。


「(…ここに来て、もう3年か…)」


エルはそう心の中で呟く。あの日、見知らぬ人物に火事から助けられて、それから必死の思いで走って、走って、とにかく数日移動を続けたけれど、ある日エルはとうとう力尽きて倒れてしまった。そんなエルを拾ってくれたのが、先ほどエルを起こしに来た人物、この町で食堂を営むエメラルドという人だった。

エメラルドは、事情を深く話せないエルに対して、特に追及することなく、自身とその弟が切り盛りする食堂に住み込みで雇ってくれた、エルにとっては命の恩人である。こうして、(貧乏貴族とはいえ)貴族の令嬢だったエルの、庶民としての生活が始まったのだ。



国境付近に位置するこの港町の食堂は、漁師たちが主な客層で、男がほとんどだった。厨房はエメラルドの弟であるダンが任されていたため、エルは注文をとったり食事を配膳したりすることが主な仕事だった。ここに来る客に対しての接客は、エルにとっては、未知との遭遇に等しかった。声が大きく性格も荒々しい者や異様に無口な者、底なしに明るい者。没落していたとはいえ貴族の人間だったエルにとっては出会ったことのないタイプの人たちばかりで、どう彼らと接したらいいのかわからずにエルは日々困惑していた。


外で働いたことなどもちろんなかったエルだったので、働きたてのころは動きが遅く、注文を間違え、仕事の出来は散々だった。客からは怒鳴られ、エメラルドからも怒鳴られ、人から怒鳴られる経験などなかったエルは、心が折れる寸前だった。


更に、慣れない庶民の生活もエルの心をすり減らすのを加速させた。自分の家は周りの貴族とくらべてお金がないと思っていたけれど、庶民の家はその比ではなかった。服はつぎはぎだらけ。温かいお風呂などはいれない。食べ物もパンのみの日もある。硬いベッドは寝心地が悪く、満足に眠れない日が続いた。


それでもエルは、自分には帰る場所などない、という事実と、エメラルドに訳ありの自分を受け入れてもらえた恩義と、そしてなけなしの根性でなんとか食らいつくことができた。客たちへの接客や、怒鳴られることにも少しずつ慣れ、いつの日かエルの顔を覚えて話しかけてくれる客も出てきた。

少しずつだけれど確かに、エルはここでの生活に慣れることができた。それはひとえに、自分の家が没落貴族だったために裁縫や料理など、基本的な家事の能力がエルにあったからである。そのためエルは初めて自分の家が貧乏貴族でよかったと思えたくらいである。



エルは寝癖だけ直すと、2階にある自分の部屋から出て、1階の台所へ向かった。そこには、身支度をバッチリ終えたエメラルドがいた。綺麗な緑色の髪に、大柄な体躯、そして、花柄のワンピース。エメラルドは、生まれた性別は男性のようだけれど、今は女性として振る舞っている。エメラルドは、寝間着のままのエルを見ると分かりやすく顔をしかめた。


「エリィ!いつまでそんな格好なんだい!あんたはほんとにいつまでたってもグズグズして…」


エメラルドは朝から雷を一発エルに落とすと、早く顔を洗って着替えてきな!!とエルの背中を押した。エルは、はい!と返事をして急いで外の井戸に向かった。


最初はすぐに怒鳴るエメラルドが怖くてたまらなかったけれど、本当は彼女がとても愛情深い人だということがわかると、エルはすぐにエメラルドを好きになった。

そして、エルは彼女から叱られることに、もちろん恐ろしいし、できればそうはされたくなかったけれど、それでも、どこか喜びを感じていた。

かつては直接関わったことのない相手にすらエルは嫌われていた。彼女自身の性格や行いではなく、厚かましくも王子の婚約者として身を置くことにとにかく嫌悪されていた。自分自身ではないところでどんどん他者から嫌われていたエルは、きちんと自分自身の至らない部分で叱られることには、本当に不思議だけれど嬉しさも感じていた。もちろん、他人から怒られるほど愚図な自分をひどく嫌にもなった。けれど、きちんと自分自身を見て叱ってくれるエメラルドに、エルは感謝していた。



ちなみに、彼女がエルをエリィと呼ぶのは、初対面のときに名前を聞かれて、エルと答えたつもりが彼女の覇気に怖気づき語尾が震えたことで、エメラルドがエリィと聞き間違えたからである。それから、この町でエルはエリィという女性になった。


エルは最初、偽名で暮らすことに嘘をついているような気持ちで落ち着かなかった。けれどだんだん、エル・ダニエルという人間は死んで、代わりにエリィという人間がこの町で生きているんだ、と思うようになった。そう思えたら、とても心が軽くなった。自分はもう、あの世界で味わってきた思いはしなくていい。この町でエリィとして生き直したいとすら思うようになった。


「(はあ、気持ちいい……)」


冷たい井戸水で顔を洗い、さっぱりとした頭で青空を見上げる。真っ青な空、大きくて白い雲。爽やかな風が少し濡れたエルの前髪を揺らす。

ここでは何の縛りもない。さんざんエルの後ろについて回った悪口も、嫌味な目も何もない。マナーに縛られた淑女である必要もない。今彼女は、紛れもなく自由だった。


この田舎の町には、貴族の噂話も王家の話も届いてこない。あるのは日々の暮らし。魚がよく釣れた、たくさん作物が取れた。あの家に赤ちゃんが生まれた、あの家の息子が隣の家の娘と結婚する。そんな、慎ましい日々の暮らしの連続が、エルにはとても新鮮で、そして尊いほどに温かかった。

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