17 その王子、偏屈につき1
エルは馬車から降りて、普段の服に着替えて、それから宿舎に戻った。いつもの生活に戻ってからようやく
安心して、もう夕飯の時間だとずいぶんくたびれた気持ちで思った。
食堂に向かうと、何やら異様な雰囲気だった。泣いている一人の使用人と、それを慰めるように何人もの使用人が囲み、そして、その周りの皆も心配そうに彼女を見ていた。エルは、近くにいた使用人に、どうしたの、と尋ねた。すると、ああエリィ、と眉をひそめた使用人が返事をした。
「今日、アラン殿下の婚約者候補のシェリー様がいらしたのよ」
「へえ…」
そうだったんだ…、と思いながら声を漏らすと、その使用人は深刻な顔でエルを見た。
「そのお方が、あの子の手にお湯をかけたらしいわ」
「えっ……」
エルはつい絶句した。泣いていた使用人をよく見ると、右手を真っ赤に腫らしている。
エルは、記憶にある可愛らしい笑顔をよく見せる、朗らかなシェリーを思い出して、それとの整合性がとれずに混乱する。エルは、泣いている使用人に近づく。
「ほ、ほんとう?本当にシェリー様にかけられたの?」
エルが半信半疑で尋ねると、使用人は泣きながら頷いた。隣にいた、その時一緒に給仕をしていたらしい使用人が青い顔で言った。
「この子がほんの少しだけ、紅茶をカップに淹れるときにこぼしてしまったの。そうしたら、淹れ方をお教えするわ、って言ってポットをお持ちになって、そうしてこの子の手に…」
使用人たちの中から小さな悲鳴が上がった。エルは、にわかに信じられずに固まる。火傷をした使用人は涙をぬぐって、ご機嫌が悪かったみたいなの、と言った。
「少し前にアラン殿下が応接室にいらして、もう今後誰とも結婚をする気はないって、それだけおっしゃると急な会議に呼ばれてお部屋を出ていかれたの。そうしたらシェリー様が私の粗相に腹を立ててしまって…」
「…」
エルは、今度はアランの発言に固まる。使用人たちは、可哀想にと口々に火傷した使用人を気遣う。エルは、彼女の患部を見て、その痛々しさに、大丈夫?と声をかける。使用人は鼻をすすりながら、数人の使用人に囲まれて部屋に戻っていった。エルは、その背中を心配そうに見送った。
他の使用人たちも食事を終えて、どんどん食堂から去っていく。エルは、片付けられる前に慌てて自分の分を確保すると席に座った。もう食堂に残っている使用人は他にいなかった。
「えらいことだね」
エルは、いきなり背後からネルに話しかけられた。ネルはエルの隣に腰掛けた。
「あんたのお見合い話も聞きたいけど、シェリーの話も濃ゆいしさ。何から話したらいいんだか」
「…おかしいわ。シェリー様はそんなお方じゃないはずなのに…」
エルはぽつりと呟く。ネルは、え、とエルの方を見た。
「あんた、パーク家のご令嬢とも知り合いだったわけ?」
「まあ…。とっても穏やかで、よく笑う方よ。周りの空気がこう…彼女がいるだけで明るくて華やかになるのよ。そんな、お湯をわざとかけるような方じゃ決してないわ」
「友達だったわけ?」
「そういうわけでは…。何度かはお会いしたことがあるわよ。彼女、アラン殿下のことをずっと好きでいらしたから、社交の場ではよく声をかけにいらしてたのよ。アラン殿下を交えてお話したり、…アラン殿下のいた別荘でも一度くらいはお会いしたことがあったかしら…」
「…」
ネルは、呆れたような顔をしてエルを見る。エルは、どうかしたの、と首を傾げた。ネルは、いや…、と頬杖をついた。
「シェリーは本当にあんたの前で良い人の顔をしてたわけ?陰で足踏まれたりとかなかった?」
「な、ないわよそんなこと…!なぜそんなことを言うの?」
「いや、あんたら所謂恋敵なわけだろ?…本当に卑怯なことはしない、正々堂々としている奴なのか、…世間知らずのあんたがご令嬢の腹黒さに気が付かなかっただけか…。前者ならお湯をかけたことの辻褄が合わないし、しかも、婚約者がいても堂々とアピールしてくるような図々しいご令嬢だ。まあ後者だろうなあ…」
「…私はできれば前者であってほしいわよ」
「でも、腹いせにお湯をかけた女だぞ?」
「…」
エルは、混乱して頭を抱えたくなる。記憶にあるシェリーは、エルお姉様、と人懐っこく自分に接してきていた。確かに、アランと一緒にいる時しか彼女とほとんと話したことはなかったけれど。
「(…もしかして、本当の本当に私が気が付かなかっただけ…?)」
「…まあ、シェリー・パークにはさすがにあんたの顔も知られてんだろ。十分に気をつけろよ」
「え、ええ、そうね、わかったわ」
「ほんとに大丈夫かあ?」
ネルが信用なさそうにエルを見つめる。エルは、だ、大丈夫よ…、と返す。ネルは、ふうん、と言った後、で、と言った。
「どうだったわけ、お見合いは?」
「ああ…、とりあえずもう一回会うことになったわ。できるだけ引き延ばすつもりよ」
「…それはそうだろうけどさ、相手の話だよ。どうだったわけさ」
「…あなた、こういう話は好きじゃないんでしょ?」
「あんたの話は別だって言っただろ。で、どうだった?」
「…どうもこうも、私のことなんて眼中になかったわよ。私を引き取れば、貴族から優遇が受けられるって、そのことしか考えてないみたい」
「貴族から?」
「マイクたち…このお見合いを企画した人たちが、そういう交換条件で嫁として私を引き取るように言ったみたい。そうでなくちゃ、私みたいな身分の女と結婚しないわ」
「ふーん。じゃあ、あんたの気に入る相手じゃなかったんだ」
「それは、そうよ。あんな扱いじゃあ…」
エルはそこまで言って、ふと考え込む。あの頃、アランの婚約者だったときも、大人の都合で、エルのことなど考えずに決まったものだったのに、なぜその時は今みたいな嫌悪感がなかったのだろうか。昔は無知な子供だっただからだろうか。
「(…違う、きっと私がアラン殿下のことを好きで、そしてアラン殿下も私のことをきちんと想ってくださっていたから、だからそんなふうに思わなかったんだ)」
エルが真剣な顔で考え込んでいたら、ネルがエルの眉間をつついた。エルは一度瞼を閉じたあと、目を丸くしてネルを見た。ネルはエルと目を合わせると、意地悪く目を細めた。
「ま、せいぜいがんばってね、無意味な引き伸ばしをさ」
「…ええ、もちろん」
ネルは椅子から立ち上がると、じゃあね、と手を振って去っていった。エルは一人残された食堂で、片付け担当が来るまでにはやく食べてしまわなければと慌てた。
本日開かれたお茶会には、エルとネル、そしてメリーベルにマリア、ロゼ、そして2回目の参加となるエミリーがいた。マリアとエミリーは、なぜか上機嫌だった。お茶請けのお菓子を並べながら、メリーベルが怪訝そうに2人を見た。
「…どうしたんだ2人とも」
「ああ、いえ、…アラン殿下とお会いするように言われてお城まで来たんですが、どうやら殿下、もう結婚される意思がないようでして…」
マリアは笑顔で頬に手を当てると、ああ困ったわ、と言った。エミリーも、本当よね、と綻びそうになる口元を押さえるのに必死な様子でいう。
「わざわざお城まで来たのに、とんだ無駄足だわ。まあでも、殿下にそういう意思がないんだもの、仕方がないわ」
エミリーはそう、態とらしく言う。マリアもエミリーも、どうやらお互いが内心ラッキーと思っていることを一応隠し合っているようだった。
ネルはメリーベルの焼いたクッキーをもぐもぐと食べながら、茶番はやめとけって、と言った。
「2人とも、内心辞退してたんだぞ。もうお互いよかったよかった言い合えばいいだろ」
ネルの言葉に、エミリーとマリアは同時に、えっ!と声を上げて、お互いの顔を見た。そした、2人しばらく見つめ合ったあと、どちらからともなく手を出して握手をした。エルは、そんな2人を内心複雑な気持ちで見つめる。
「まあ、…そう…あなたもそうでしたの?」
マリアがそう、微笑みながらエミリーに言う。エミリーは、あなたも?と半信半疑で尋ねた。マリアは、ええ、と頷いた。
「私はその、エル…アラン殿下の前の婚約者の方とお友達だったから気が引けて…。エミリーは?」
「えっ?!あ、えっと、わ、わたしは…きょっ、興味がなくて!結婚に!!」
エミリーは慌ててそう言った。マリアは、そうなんですか、と微笑んだ。
「でも、お父上がお許しになります?アラン殿下はああおっしゃっているけれど、最近は調子も戻っていらして、会議に出たり、ほかの方ともお話したりできるようになってきていらっしゃるから、周りの諦めがつかないのでは?」
マリアの言葉に、ネルは鋭い視線をエミリーに送った。エミリーは、ああ、と苦笑いを漏らした。
「それはもちろん、煩いわよ。お父様は王家の権威やら存続やら、そのことばっかりですもの。私とアラン殿下が結婚するのがお父様からしたら一番なんでしょうけれど、それが叶わなくてもとにかく誰でもいいから結婚してお世継ぎを…!って思っているはずよ。…でも最終的には、王家の方の決定には文句は言わないはずよ。…いえまあ、裏ではぶつくさ言い続けるでしょうけど。でも結局お父様にとって、王家の方々が絶対だから」
エミリーの言葉に、ネルは少し目を丸くする。そして、考えながらクッキーをかじった。エルは、ネルの考えていることがわからずに首を傾げる。
エミリーは、あなたのところはどうなの?とマリアに尋ねた。マリアは、こちらは大丈夫ですわ、と微笑んだ。
「お父様、もう私が殿下と結婚することは諦めていらっしゃるから。殿下から結婚する意思がないっていうお話があったから、むしろほっとしているはずですわ。派閥の方々への面目がまだ保たれるって」
ふふふ、と微笑むマリアに、メリーベルが苦笑いを漏らした。エミリーは、でも、とため息をついた。
「せっかく、以前からは見違えるように普通になってきたのに、どうしちゃったのかしらね、アラン殿下。もう結婚しない宣言だなんて」
一体なにがあったのかしら、とエミリーは首を傾げる。マリアは、ほんとうよね、と遠くを見つめる。
「…やっぱり、エルのことが忘れられないのかしら」
マリアはそうぽつりと呟く。エミリーは、それにしたって、と重ねる。
「かなりの決断よね。王家の人間が結婚しない宣言なんて。そんなの許されるのかしら。周りの貴族たちだけじゃない、国王からも他の王子たちからも」
「…まあ、王子の中にひとり、人のことが言えないのがいるし…」
ロゼの言葉に、ネル以外の皆が苦笑いを漏らした。
お茶会はそれから、本の話などでひとしきり盛り上がったあと、ロゼが咳払いをした。
「じつは私……結婚することになりました!」
ロゼは嬉しそうに、来月には式を挙げることになっているの、と報告した。ネル以外の全員が、えっ!と声を上げた。
「お、おめでとうございます…!」
エルは目をかがやかせてロゼを見た。彼女が前々から結婚したいと言っていたことを知っていたことと、彼女が嬉しそうな顔をしていたことで、素直におめでとうとエルは言えた。ロゼは頬を染めて、ありがとう、と笑った。
「どちらのおかたなの?」
エミリーが尋ねると、ブラウン子爵家の嫡男の方よ、とロゼが答えた。マリアは頬に手を当てて、ブラウン子爵家のお方なのね、と微笑んだ。
「とても大きな家のお方じゃない。それに、とっても素敵な方だって噂をよく聞きますわ」
「え、えへへ、そう、うん、一度お会いしたけれど、素敵な方よ」
ロゼは照れくさそうにそう答える。エルは、そんなロゼにつられて口元が緩む。
「(…ロゼ様を見ていると、結婚って素敵なものなんだなあって思えるな…)」
エルはそんなことをしみじみ思う。するとロゼが、エルはどうなのよ、と尋ねてきたので、私は…、と苦笑いをもらすと、察したロゼが、まあ、そういうことだってあるわよ、と慰めてくれた。エルが、でもおしゃれができてご飯はおいしくてお土産もいただけて、そこはとっても楽しかったです!と言うと、全員ぽかんとした中、メリーベルだけが微笑んでくれた。
エルとネルは、お茶会の場から離れて、仕事の持ち場へ向かった。エルはちらりとネルをみて、ねえ、と話しかけた。
「…エミリー様の話を聞いたとき、何を考えていたの?」
「…」
ネルは神妙な顔をして、なあ、とエルの方を見た。
「…主犯はパーク派が濃いと思うんだ」
「……」
エルは目を丸くした。ネルは、エミリーの話からして、あの父上が王子の決めた婚約者を消そうとまではしないんじゃないかと思うんだ、と言った。エルはネルを見て息を呑んだ。
「…じゃあ…あとは証拠が…」
「パークの周りを探るか…。っとエリィ、あんたは気をつけた方がいい。パーク侯爵とそのご令嬢には会ったら駄目だ。侯爵はわからんが、ご令嬢には完全に顔が知られてるだろ。あんたは絶対に顔を合わしたら駄目だ」
ネルに真剣に言われて、エルは、わかった、と重く頷いた。ネルはエルの目を見ると、じゃあ私はこっちだから、と言って歩き出した。エルは、胸の鼓動が嫌に早く打つのを感じて、深呼吸をした。




