15 王子は追憶の墓場に
お茶会を終えて、エルはまた仕事に戻った。掃除をこなし、最後にいつもの人けのない中庭に向かった。すると、噴水の縁で本を読むアランの姿があった。
マイクとあんな話をした後だったのでエルは咄嗟に歩みを止めた。しかし、あの時のまるでアランを見境のない人だというような言い方を思い出してなんとなくエルは腹が立った。そんな人のわけがないことを知っているエルは、マイクへの反抗心から、一度深呼吸をして、アランのところへ向かった。
「お加減はいかがですか?」
エルは、噴水の縁に座るアランの前に立ってそう話しかけた。アランは本から顔を上げると、ああ、と返した。あの日、アランの傷口が開いた時から会っていないけれど、またこうやって部屋から出られるほどには治ったのだと知ってエルは安心した。
「先日はありがとうございました。殿下に助けていただけなかったら、どうなっていたか」
エルの言葉を聞きながら、アランはエルの方を見て、いや、と短く返した。エルはそんなアランに小さく微笑むと、失礼いたします、と深々と頭を下げて、掃除を始めようと移動した。
すると、アランがゆっくり立ち上がった。部屋に戻ろうとしているのか歩き始めたけれど、まだ傷が痛むのか歩き方がどこかぎこちない。エルはそんなアランの背中を見送りながら、しかし放っておけずに、ついアランに駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?お部屋までお送りいたしましょうか?」
エルがおずおずと話しかけると、アランは、いい、と頭を振った。痛むのか、額には少し汗がにじんでいる。
「(…こ、こんな状況で部屋から出て大丈夫だったのだろうか…)」
エルはおろおろとしながらもアランの背中を見送った。まだ来客は途絶えないようなので、いい加減限界が来たのだろうか。そうだとしても、あんな傷で出歩くのはどうなのか。
「(…いや、出歩けるくらいには治っていたのに、私のせいでまた傷口を開いてしまったんだ…)」
エルはそんな罪悪感を思い出す。すると、少し遠くの方でアランが柱に一端肩をもたれさせて休憩する姿が見えた。エルはたまらずに、またアランに駆け寄った。アランは、エルの方を見た。
「あの、やっぱりお送りします。私のせいですし…」
「…違う、そんなに軟弱じゃない」
アランはまたそう不服そうに言い換えしたが、しかし、痛みからか顔色が悪かった。エルは、あの、とアランの方を見た。
「お願いしますから、お手伝いさせてください」
エルはそう言ってアランの隣に立った。アランはエルの方を見て少し黙った後、…頼む、と短く返した。
エルはアランを支えて部屋まで送った。アランをベッドに寝かせるのを手伝ったあと、エルはさすがに疲れて小さく息をついた。
「…紅茶をいれてきてくれ」
ベッドに寝たアランが、エルにそう頼んだ。エルは、かしこまりました、と返事をして、部屋から出て厨房に向かった。本当に久しぶりにアランのお茶を準備することになったエルは、なんだか不思議な気持ちになり、そして、嬉しい気持ちもあった。
エルはお茶と、それとお茶請けのお菓子をトレーに乗せてアランの部屋に戻った。普段からアランはお菓子を口にはしないけれど、マイクから一応用意するように言われてきたので、今回もエルは準備した。
今日はいい天気で、アランの部屋の窓から優しい日差しが差し込んでいた。エルは、窓から入り込むあたたかい日差しに微笑んだ。
アランの眠るベッドのそばのサイドテーブルでお茶を準備していると、寝ていたアランが、エルの横顔を見ていたことに気がついた。エルは、どうかいたしましたか、とアランに尋ねた。アランはそんなエルを見あげたまま黙り込む。エルは何かわからずに首を傾げる。
「…本棚から、本を一冊持ってきてくれ」
アランはそう言うとエルから視線をそらした。エルは、かしこまりました、と言うと、お茶の準備を一旦止めて、本棚の方へ向かった。
「なにがよろしいですか?」
エルが本棚を眺めながらそう尋ねると、なんでもいい、とアランから返ってきた。なんでもいいと言われると困るな、と思いながらエルは本棚に並ぶ本の背表紙に目を滑らせる。並んでいるのは帝王学や政治学、経済学など、エルが読んだことのないジャンルの本ばかりで、背表紙の表題を読むだけで熱が出そうだった。
「…あ…」
本棚の端に、見覚えのある表題が見えて、エルはついその本に手を伸ばした。それはエルが昔よく読んでいた本と同じものだった。
「(…殿下、こういうのも読むんだ…)」
意外と乱読家なのかな、と思いながら、エルはその本をぱらぱらと捲った。すると、栞が挟まっているページが現れた。エルは、その栞を見て一瞬息が止まる。
「(…これ、私が昔使っていたやつ…)」
その瞬間、この本がエル・ダニエルの遺品だということを理解した。彼がこの本を今も持っていることに、エルはなんとも言えない気持ちが胸の中で渦巻いた。
すると、エルの背後から一本の手が伸びてきて、エルの持っていた本が閉じられた。エルは体を震わせて振り向くと、自分のすぐ背後にアランが立っていた。エルは小さな悲鳴を上げた後、本を腕に抱えたまま口元を手で押さえて、も、申し訳ありません…、と言った。アランから距離を取ろうと後ずさろうとしたけれど、すぐ後ろが本棚で、これ以上動けなかった。目の前にいるアランは、エルを何も言わずに見下ろしている。
ーー殿下からのお手付きがあったら、エリィさん、あなたただじゃ済まされませんからね
エルは不意に、マイクから言われた言葉を思い出した。エルは、背中から汗が流れるのを感じる。
アランが未だにエル・ダニエルに未練があることはもう分かりきっている。顔が良く似た他人(という設定の)のエリィに特別優しいこともわかっている。
「(…もしも本当に…万が一があったとしたら…)」
あれほどそんなこと起こり得ないと憤慨していたのに、今エルは確かにアランに恐怖を感じていた。エルは、何も言わずにエルを見下ろすアランに身構える。
「(…いや、仮に何かあっても、鍛えているとは言え手負いの人だ…、私でも勝てるはず…。いや、もしも揉み合って怪我をさせたりしたら私の責任になるわけ?そもそも拒否して機嫌を損ねたらその時点で私に何かペナルティがあったりする…?)」
エルは、身分差による自分に不利すぎる状況に頭が真っ白になる。そんなことを考えている間に、アランがエルの方に腕を伸ばした。エルは呼吸を留め、ぐっと身構える。すると、アランはエルの後ろにある本棚から一冊本を取った。そして、エルからゆっくり離れた。
「これにする。それはしまっておいてくれ。読むためのものじゃないんだ」
アランはそう言うと、ゆっくり歩いてベッドに戻っていった。エルは安心から脱力したあと、自分の愚かさに情けなくなった。
「(…散々そんな人じゃないって怒っておいて、いざこうなったらマイクの言葉を思い出して疑ってしまうなんて…)」
エルは自分に対して許せない気持ちになりながら小さく息をついた。エルは本棚に、抱えていた本をそっと戻した。そしてまた自分を戒めるように深呼吸をした。
エルはアランの傍に戻ると、お茶の準備を再開した。ティーポットに茶葉を入れて、熱いお湯を注いだ。ポットに蓋をして、時間を置いた。そして、ポットからゆっくりカップへ紅茶を注いだ。紅茶の湯気が立ちこめて、茶葉のいい香りが広がる。エルは上半身だけ起こして読書をするアランの方を見た。
「お茶の準備ができました」
「ああ」
アランは本を読んだまま返事をした。エルは、やることは終わっただろうと思い、失礼いたします、と言って頭を下げた。そして、部屋から出ようと歩き出した。
「飲まないのか」
本から顔を上げたアランが、部屋から出ようとするエルに話しかけた。エルは、よく意味が分からずに、え、と声を漏らした。
「飲む…とは…」
「疲れただろ。休んでいくといい」
アランは、エルが用意したお茶の用意の方を見ながら言った。エルは、え…、と困惑して立ち尽くした。自分より大きな体躯のアランを支えるという重労働をした使用人への労いだというのだろうか。エルは戸惑いながらも、ここで飲まずに出るのも厚意を無下にするかと思い、一杯だけすぐ飲んで部屋から出よう、と決めて、ありがとうございます、と頭を下げた。
エルはまたアランの傍に戻り、サイドテーブルの横に立った。アランは、そこに座ればいい、とサイドテーブルのすぐ隣に置いてあった椅子を指さした。エルは、こんなにくつろいでいいものかと悩みながらも、立って飲むわけにもいかずに、礼を言うと腰掛けた。そして、すぐに飲んでしまおうとカップに口づけた。
「(…あっっつ……)」
エルはすぐに口を離して、カップをソーサーに置いた。口の周りを手であおぎながら、いれたてなんだから当然熱いよな…、と自分で自分に呆れた。前にエミリーが似たようなことをしていたのを思い出して、エルはなんとなく笑いそうになるが、なんとか堪えられる。
ふと、視線を感じて顔を上げると、アランが本から顔を上げてこちらを見ていた。エルは、あの…、と口を開いた。
「頂いたらすぐ出ていきますので…。せっかく来客のない、一人でいられるお時間ですから」
「…いや、慌てなくていい」
アランの言葉に、エルはありがとうございます、と口ではいいながらも、早く出よう、とカップの中身を減らすことに熱心になった。
「…体が自由に動けない時に一人で部屋にいると、昔を思い出して気が滅入るんだ」
アランはそう、静かに言った。エルは、はっとしてアランの方を見た。アランは窓の外をぼんやり眺めていた。エルはその横顔を見つめる。その顔が昔のアランのままで、エルはつい、では、と口を開いた。
「他に誰かがいらっしゃるまで私、ずっとここにおりますから」
エルはそう、アランの目を見て言った。アランはエルの目を少しだけ呆然と見つめ返してきた。エルは、彼の瞳を見つめながら、あれ、と心の中で思った。
「(…似たようなことが昔もあったような…)」
「……昔話を、聞いてもらえるか」
突然のアランの言葉にエルは少し驚きながらも、は、はい、と言って、手にあるカップをソーサーに戻した。アランはそんなエルを見てから、目を伏せた。
「俺は昔、直に死ぬと言われていた。俺は不良品で、この国には不要、どころか、荷物だった。使用人も俺の聞こえるところで、貴族間で言われていた俺の陰口を笑って話していた。周りは皆、どうせすぐ死ぬのなら早く死んでくれという態度だった。俺の世話自体が無駄だったからだ」
エルは絶句した。アランは、エルの表情が曇るのを見るとほんの少し苦笑いをした。
「君が俺を哀れに思えるのは、病気が治った今の俺を見ているからだ。あの頃の俺は本当に邪魔だった。すぐに熱を出しては倒れて、日がなベッドの上にいるしかなかった。たまに動けたと思ったらすぐに動けなくなって…」
アランは窓の外を見た。
「幼い頃の俺は、城から追い出されて、母や妹のミシェルと一緒に別荘にいた。母は俺を産んだことで、周りから相当なことを言われていたらしい。日に日に心を病んでいって、たまに俺と顔を合わせれば、お前なんか産まなければよかったと恨み言を言った。…ある日、珍しく母が俺の部屋に来たかと思ったら、間髪を入れずに俺の首を絞めてきた。俺はその時いつものように熱を出して伏せっていて、普段よりさらに衰弱していたから、このまま死んでしまうと思った。…それでいいと、その時は思った。その方がいいのかもしれない、と。でも助かった。突然、祖父が訪ねてきたからだ」
エルは、アランの話を聞きながら、ずっと彼の言う話が理解できないままでいた。アランは外の景色をずっと見ていた。
「祖父は見たことのない、俺と同い年くらいの少女を連れてきた。その少女は、俺のいた別荘の近くに住んでいるらしく、これからよく遊ぶといい、と祖父は言った。祖父と父は、病弱な俺を疎ましく思ってはいたけれど、ほとんど顔を合わせない分、血のつながりから多少は可哀想だと思う心を持てたようで、このまま一人で死んでいく俺を哀れに思ってその少女を俺の婚約者にと考えたようだった。その少女の家の当主、少女の祖父にあたる人と俺の祖父は古くからの友人だったらしく、その縁でこの話は決まったようだった。その少女のことを、俺はひどく不憫に思った。少女の祖父も本当は断りたかっただろうに、国王には逆らえなかったらしい。俺は、この人たちからも疎まれるんだと、うんざりした」
エルは、アランの横顔を見つめた。アランは窓の外を見つめたまま話を続けた。
「でもその少女は、大人の勝手で自分が、死んでいく王子への生贄にされたことに何も気がついていないようだった。毎日のように彼女は俺の部屋に会いに来てくれた。他愛のない話を繰り返したり、作ったお菓子を持ってきてたりしては、いつも楽しそうに笑っていた。何がそんなに楽しいのか尋ねたら、彼女は婚約者という言葉に憧れていたようだった。彼女は本が好きで、特に恋愛小説をよく読むらしく、その話みたいだとはしゃいでいた」
エルにはその話に覚えがあり、急に幼い頃の能天気な自分に恥ずかしい気持ちになった。アランは、窓の外を見つめながら、遠い過去を思い出し、少しだけ口元を緩めて悲しそうに微笑んだ
「そんな彼女を見ていて初めて…生きたいと思った。彼女と一緒にこれからの未来が見たいと、そう願った。何度も死にかけたけれど、それでも、そのことを望みに病に耐え続けた」
アランの願いに、エルは息を呑んだ。アランは、そうしたら、と続けた。
「俺の体は奇跡的に良くなった。同じ年ごろの人たちと同じように動けるようになって、学校にも通えるようになった。…それとほとんど同じタイミングで母が死んだ。すると周りは、王子の病を一緒に持って死んでいった賢母だと、そう母のことを褒めた。俺を産んだことであんなに責め立てられていた母が、三人もの丈夫な王子と一人の姫を産んだ素晴らしい王妃にいつのまにか変わっていた。俺のこともそうだ。周りは俺への陰口を一斉にやめて、同じ口で王子の俺に猫なで声で近寄ってきた。…吐き気がした。俺はこんな奴らに今まで苦しめられてきたのかと、愕然として、情けなくなった。こいつらのいる世界で生きていくことに辟易としたけれど、でも、ちゃんと迎合して、いい王子のふりをしていこうと決意していた。彼女と、エルと一緒に生きていきたかったからだ」
アランは静かに息を吐いた後、目を伏せた。
「そうしたら今度は、今までエルのことを何も言わなかったやつらが、彼女の家格がどうのと文句をつけ始めた。自分の家の娘を俺のもとに嫁がせたかったからだ。…丈夫な王子にならそうしてもいいと皆思ったんだろう。だから俺は必死に学問や戦技を磨くことに打ち込んだ。可愛がってもらうために兄とも仲良くした。俺が優秀になって、国王になる気のある兄に将来重宝してもらえれば、やつらに何も言われなくなると思ったからだ。…でも違った。やつらは今度は、俺の方が次の国王に相応しい言い始めた。国を愛する気なんかない俺には、そんなつもりは露ほどもなかったが、それからはさらにエルへの非難が強くなった。エルは、俺の前で笑ってはいたけれど、日に日にこの関係に疑問を持ち始めていた。でも、彼女の家は貴族ではあったけれど金銭的にもとても困っていたから、俺と結婚することが彼女にとっても家にとっても一番いいことだと信じて疑わなかったし、今更周りの奴らの言う事を聞いて他の相手に変える選択肢なんか俺には無かった。だから、とうとうエルから婚約破棄を申し出られた時に、このままでは彼女が俺の前からいなくなると焦って、式を挙げることを決めた。その後すぐだった、エルがあの火事に巻き込まれて死んだのは。…いや、殺されたのは」
アランはそこまで言うと一度歯を噛み締めた。そして、小さく息を吐いた。
「証拠はない。でも確信していた。俺を王に仕立て上げて、その横に自分の娘を添えて国政を牛耳るつもりの奴らがエルを焼き殺したんだと。現にエルが死んだ後、すぐに大勢の貴族たちが次の婚約者にと自分の娘を勧めてきた。元からこの世界に希望なんかなかったけれど、ここまでする奴らなのかと絶望した。それから俺は、飲み込むと決めていた奴らへの溜飲が爆発した。この世界を終わらせる算段を立てることだけのために生き永らえていた。そんな中で、俺は君に出会った」
エルは、アランの横顔を見つめて黙って話を聞いていた。アランは、自虐的に笑った。
「こんな世界、なくなればいいと絶望していたのに、俺はいつの間にか、君のことを目で追っていた。こんな結末になっても俺はまだエルを愛していて、…我ながら諦めが悪いと、そう思う。そんな中で、君とあの海を見たら、あの町で生きる人々の呼吸を聞いたら、…まだ世界も捨てたものじゃないと、そう思えたんだ。ただただ怒りに震えていた俺は少しずつ、冷静になれるのを感じた。静かに過去の自分を思い返して、俺は思った。俺は、この世界で生きていくと決めていたのに、そのルールを守らなかったんじゃないかって。それを破ってエルと一緒に生きようとしたから、だからこんなことになった。火をつけたのは犯人だけれど、あの火をつけさせたのは俺だったのではないか、と」
エルは、息が止まった。アランは外を見つめて、俺のせいだ、と呟いた。
「俺のせいでエルは、…あの日宿にいた人たちは殺されたんだ」
「ち…違います!それは絶対に違います!!」
エルは咄嗟に立ち上がり、そうアランに言い放った。肩で息をしながら、それは違う、と頭を振った。エルはそう言いながら、自分の軸が分からなくなった。あの火事の責を自分は感じているのに、アランには罪があるなんて思ってほしくなかった。エルは、自分がどうしたいのか、何を考えているのかわからずに混乱する。違います…、と繰返しながら、エルは、自分が抱える矛盾に頭が痛くなる。
アランは真っ直ぐにエルを見あげた後、ゆっくり微笑んだ。
「…初めて君を見たとき、本当にエルが生きていたんだと錯覚した」
アランの言葉に、エルは、え…、と声を漏らした。
「だけど君は、全然エルじゃなかった。彼女はいつもにこにこと笑っていて穏やかだった。でも君は、笑いもするけれど、悲しそうにもしたり、怒ったりもする。ヴェルドやハロルドに真正面から言い返したり、重い掃除道具を軽く持ち上げて、さっさと歩いていってしまう」
アランはエルの目を見つめてそう優しくエルに話しかけた。エルはただ黙ってアランの目を見つめ返した。
「でも最近、思い出したんだ。彼女も昔はもっと表情が豊かだったはずだと。泣いたり怒ったり、色んな顔をしていた。それなのに、いつの間にか笑うことしかしなくなった。出来なくなっていたんだ。俺のせいで周りから嫌われて、これ以上周りから嫌われないために、彼女は波風を立てないような笑顔しかできなくなっていた」
エルは震える唇をゆるく噛みしめた。アランは、エルから目をそらすと、また窓のほうを見た。
「この世界のなかで、君が楽しそうに友人と話したり人の輪に入って笑っているところを見ていると、自由に手を振って歩く姿を見ていると、考えるんだ。もしも俺がエルの手を離すことができていたら、彼女もあんなふうに生きることができていたのかもしれないって。結婚が彼女の家のためだとか、そんなものは彼女といたい俺が勝手に作った言い訳で、あれは愛なんかではなくて、ただのエゴだったんだって」
アランの声を聞きながら、エルは喉の奥が詰まるのを感じた。苦しくて、苦しくて、呼吸すら上手くできない。
「俺は残された余生で、この過去を省み続けるつもりだ」
アランの懺悔に、エルは何かを伝えたくてたまらなくなる。けれど、今の自分は彼にかけられる言葉を持たないことを分かっていた。ただ小さく肩を揺らし、呼吸をすることしかエルにはできない。
すると、アラン殿下!というマイクの声と共に扉が開いた。マイクはベッドにいるアランに安堵の表情を見せた後、そのそばにいるエルに、あからさまに嫌そうな顔をした。
「…エリィさん、なぜここに…」
あの話をした矢先に…という怒りが読み取れるマイクに、エルはどうしようかと慌てる。するとアランが、傷が痛んで歩けないでいたところを、助けてもらった、と淡々と返した。マイクは、そ、そうなんですか…、としかしまだ警戒心を持ってエルを睨んだ。エルは、それでは失礼いたします、と頭を下げると、アランの部屋から去っていった。
廊下を一人で歩きながら、エルはわけも分からずにこみ上げ続ける涙を必死に引っ込めた。感情がぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃで、ただただ呼吸をするだけでやっとだった。




