13 戦の後4
2週間に一度の半日休みの日、エルはルーナとの約束通り教会へ向かった。すると、彼女と無事会うことができた。
エルは自分が持ってきた紙とペンを使って、ルーナに文字を教え始めた。ルーナはとても熱心にエルの話を聞いていた。
文字を教える中で、エルはルーナが、月に数回、叔父がお城で仕事がある時についてきて、叔父を待つ間教会にいる、ということを聞き出せた。
文字を教えながら、エルとルーナはお互いの身分を気にせずに他愛のない話を繰り広げてくすくすと笑い合った。好きな食べ物の話や、好きな季節の話、花の話など、もっとエルが叔父の妻である彼女から聞くべきことはあったのかもしれなかったが、その時はただただルーナと話すのが楽しくて、ついそんなことに気がつけなかった。
叔父が迎えに来たルーナに別れを告げると、もう外は薄暗くなっていた。時間を忘れてしまっていた、とぼやきながら、エルはお城への道を急いだ。急がなければまた夕飯を食べ損ねると思ったからだ。
エルは一生懸命走っては歩いてを繰り返し、なんとかお城へと続く橋までたどり着いた。ようやく着いた、と安心したとき、エルはふと足を躓かせてしまった。そのまま体はお城の周りを囲むお掘りの方へ倒れていってしまった。あっ、と思ったときは、水路に続く斜面に仰向けに倒れ込んでいた。お掘りの水にはぎりぎりつかないところで身体が止まったので、起き上がって早くここから抜け出そうと思ったけれど、足が痛くて上手く立ち上がれなかった。
体中が擦りむいた痛みと、左足首をひねったような痛みを感じながら、エルは夜空を見上げた。
「(…身体が痛くて立ち上がれない。…もしかして私、誰かに見つけてもらえるまでこのまま…?)」
エルはそんな現実を薄っすらと頭に思い浮かべると、ああどうしよう、と両手で両目を覆った。
どんどん暗くなる辺りを感じながら、エルは呆然と夜空を見上げていた。明日の朝になれば誰か気づいてもらえるだろうか、なんて呑気なことを考えながら、エルは星を数えた。季節は春とは言え、夜は肌寒い。
静かな夜空の下で、エルは自分の頭がクリアになっていくのを感じる。
「(…アラン殿下が、そんなふうに思っていたなんて…)」
エルは、あの日アランとフィリップスが話していたことを思い出した。エルは、星を数える指を止めて、小さく息を吐いた。
「(…アラン殿下はずっと、この世界に絶望していた。そんな中で、エル・ダニエルだけを拠り所にしていた)」
捨てないでと弱々しくエルに縋ったアランの気持ちを、今ようやくエルは知る。エルは少しずつ唇が震える。
「(…私は、…そんな気持ちも知らずに私は、手放してくれればいいのになんてなぜ思っていたのか)」
じんと目の奥が熱くなるのを感じた。エルは小さく鼻をすする。喉の奥がきゅっと締まって苦しくなる。
「(…あの時の私は本当に迷惑に感じていた。でもなんで、迷惑に思ってしまったのか。私は確かに、アラン殿下のことが好きだったのに、それなのに…)」
エルは震える息を吐いた。あの頃のエルは、そう思うしかなかった。周りに散々嫌われて、避けられて、後ろ指をさされて、どんどん孤立していく自分を救うためには、アランの手から逃げるしかなかった。
「(周りに揺らされて、私は本心を変えるしかなかった。いや、私が空っぽだったから、自分の意思を持たなかったから、だからあんなふうに揺らされたんだ)」
アランから離れたいと思っていたあの頃のエルを、聡い彼が気づいていないとは思い難い。離れようとするただ一つの拠り所だった彼女に捨てないでというアランの声が、今になってエルに悲痛な叫びになって届く。
かといって、ならあの時にどうしていたらよかったのかなんて、エルにはわからなかった。昔のまま幸せな2人でいたところで、あの火事からは逃れられなかったに違いない。ならどうしたらよかったのか。どうすれば、よかったのか。
「(…それでも、結果論だとしても、…どうせこんなふうに別れてしまうのなら、まっすぐにアラン様を見つめていられたらよかった。好きだと、そう伝えられたらよかった)」
エルは、伝えるタイミングなんていくらでもあった事を、伝えられなくなった今になって悔やむ。視界が涙でゆがんで、鼻の奥がツンと痛む。
エルが、溜まった熱い息を吐いたとき、橋の方から馬車の音がした。
「(…こんな時間に外出?)」
エルは不思議に思いながらも、誰でもいいからどうか気づいてくれないだろうか、とよろよろと体を起こそうとしたけれど、痛くてうまく起き上がれなかった。エルが、ああ…、と絶望しながら両手で顔を覆ったとき、頭の上で足音がした。
「…何をしている」
声の方に視線をやると、アランがこちらを覗き込んでいるのが見えた。エルは、あっ!と声を上げたあと、安堵から、はあ…、と深いため息をついた。
「アラン殿下!」
そんなマイクの声のあと、あーっ!という大きな声がした。
「ああもう、エリィさんそんなとこで何やってんですか!」
マイクはそう言うと、今そちらへいきますから、と言うと斜面をよろよろと降りてエルの傍にやってきた。
「立てますか?」
マイクはそうエルに尋ねた。いや、立てたらこんなとこで寝てない…、という言葉を飲み込み、足をひねってしまって…、とエルは答えた。するとマイクは、えええっ?!と大げさなほど驚いた。
「ええ…すっごい泥だらけじゃないですか…やだなあもう…」
マイクはそうブツブツ言いながらエルを起き上がらせると、肩を貸してくれた。エルは、自分とほとんど背丈の変わらないマイクを不安そうに見た。
「え、だ、大丈夫ですか?さ、支えられます…?」
「そんなこと言ったって、殿下にこんなことさせられないでしょう!」
マイクは嫌そうに言うと、よろよろとエルを支えて、なんとか平地に彼女を連れてきた。エルは、ありがとうございます、とマイクに言った。マイクは、自分の服を見ると、ああっ!と悲痛な声を上げた。
「ふっ、服に泥がっ…!」
マイクはそう言うと、自分の服の汚れ具合を見るためにエルから手を離した。エルはそのまま体勢を崩して地面の方に倒れた。エルは咄嗟に目を閉じた。
しかし、地面に倒れる前に、アランが腕を伸ばして、エルの体を自身の胸に抱きとめた。エルは突然のことに訳がわからずにまばたきを繰り返した。服の汚れを確認していたマイクが、さっと顔を青くするのがエルの横目で見えた。
エルは、硬直しながらアランの腕に収まった。昔よりもしっかりとした体に、エルは時の流れを感じた。
「(…いや、のんきにそんなことを考えている場合ではない)」
エルははっと正気に戻ると、アランの胸から顔を離した。そして、ごめんなさい!と謝ると、アランから離れようとした。その時に、アランの顔が少しずつ青くなっているのが見えた。エルが呆然としていると、背後から、殿下血!血!!というマイクの叫び声が聞こえて、アランの脇腹を見ると、服に血がにじんでいた。
エルは、自分を支えようとした時に力んで、それで傷口が開いたということを察し、顔を青くしてアランから離れた。その時、ひねった足を踏み出してしまい、激痛が走るとエルはそのまましゃがみ込んでしまった。
「い、いった…いった…!!」
「ああもう、あなたもあなたで…」
マイクはアランを支えて彼を馬車に連れて行ったあと、エルの方へやってきた。そして、しゃがみ込むエルを見て、嫌そうに肩を貸した。エルは申し訳なさそうに彼の厚意に甘えた。
「ご、ごめんなさい…」
「はあ…もういいですよ。馬車に乗ってください」
「え?い、良いんですか?」
「殿下が仰るから嫌々ですよ。本当は乗せたくありませんよ、こんな汚い人…」
マイクはぶつくさと文句を言いながらエルを馬車に運んだ。エルは、そんなはっきりと…、とショックを受けながらも、しかし確かに、今の自分の姿を見れば仕方がないかと諦めた。
エルは、馬車に乗り込むと、先に座っていたアランに、申し訳ありませんでした…、と謝った。
「私が殿下を倒れ込んでしまってばかりに…」
エルの言葉に、アランは眉をひそめた。
「…そんな軟弱じゃない」
アランはそう、エルから目を逸らして言い返した。エルは、そんなアランに目を丸くする。
「(…そんなことも、言えるようになったんだ…)」
彼に一体何があったのかわからないけれど、間違いなく良い方に彼が進んでいるように見えて、エルはじわじわと微笑む。
「…殿下、お帰りなさい」
エルは、咄嗟にそうアランに言った。アランはエルを見ると、ゆっくりと優しく目を細めた。
「約束したから」
アランの言葉に、エルは少しだけ目を丸くする。あの早朝の出来事を思い出して、エルは微笑む。そして、はい、と嬉しさのにじむ声で返した。
「…ああもう、はやく座ってください」
不機嫌そうなマイクが、そうつっけんどんに言うと、エルを座らせた。服が汚れたことにだいぶご立腹らしいことに、エルは戦々恐々とする。
「あ、あの、こめんなさい…」
「もういいです。出してください」
マイクは運転手にそう言って馬車を走らせた。エルは、なんとも肩身の狭い気持ちでお城に戻りながら、そもそもなぜこの二人はここにいるのだろうという疑問が今更湧いたけれど、とても質問できる空気ではなかったので諦めた。




