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12 いつかがくるその前に、あなたに伝えたいことがある5

翌朝、エルは夜明け前に目が覚めた。着替えをして、はねた髪を直したら、エルは外の空気を吸いたいと思い立ち、外に出た。



まだ薄暗い海岸線を、エルはゆっくりと歩いた。外は凍えるほど寒く、もっと厚着をしてきたらよかったと後悔した。


ふと、防波堤のうえに誰かが立っているのが見えた。恐る恐る近付くと、そこには海の方を眺めるアランがいた。

エルは声をかけようか迷ったけれど、ここに来てしまった以上無視をするわけにもいかないと思うと、深呼吸をして、意を決してから口を開いた。


「あ、アラン殿下、お、おはようございます…」


エルはそう、アランを見上げて挨拶をした。アランはエルの方を見ると、ああ、とだけ言うとまた海の方を見た。エルはこのまま去ろうかと思ったけれど、なんとなくアランを一人にしておけなくて、迷った結果、防波堤の上によじ登った。エルがここに来たことにアランは少し驚いていたようだったが、すぐにまた海の方を眺めた。エルはなんとか話題を探すと、おずおずと口を開いた。


「…ず、随分早いんですね…」

「…」


気まずい沈黙が流れる。生まれ育った町に久しぶりに来たから気が大きくなって、つい話しかけてしまったことを後悔した。エルは、へこみながらアランと同じように海を見た。海を渡ってやってきた冬の風が吹き抜けていき、縮み上がるほどに冷たい。もうすぐ昇りそうな太陽が水平線からほんの少しだけ覗いている。


「(…この人は、次の戦いで死ぬ気でいる)」


エルは、ヴェルドの根拠のない話を思い出す。確かに、これまで見てきたアランに生への執着はないように見えるけれど、本当にヴェルドの言うとおりになるかはそれはエルにはわからない。それでも、このままアランを戦場に見送って、そのまま帰ってこなかったとしたら。そもそも、生きたいと思っていたとしても、戦場に身を投じて無事帰ってこられるかどうかなんてわからない。いや、戦争がなくたって、明日生きていられる保証なんかない。自分がそうだったように。

昔とは別人になってしまったようなアランの横顔をエルは見つめる。昔のように戻すどころか、このまま彼を失ってしまったとしたら。


波が、寄せては返していく。エルはそれをぼんやりとみつめながら、小さく深呼吸をした。


「海、綺麗ですよね」


エルは髪を潮風になびかせながら水平線を見つめる。海が朝焼けに染まっていく。


「私、この町が好きです」


エルは、静かな波音に耳を澄ませてそう言った。アランは何も言わずに海を見つめている。髪を風に揺らすアランの横顔を、エルは見あげる。だんだん明るくなる周りだけれど、町の人が目を覚ますにはまだ早いこの時間は、まるで世界で二人きりしかいないような錯覚に陥るほど静かだ。


エルはこの町が好きだ。

毎日毎日、朝目を覚まして、朝食をとって、働いて、少し休んで、また働いて、そして眠りにつく。そんな同じことの連続の延長線上に、かけがえのない幸せがある。朝、おはようと言い合える人がいる。食事を美味しいねと言える人がいる。仕事で怒ってくる人がいる、楽しそうに笑う人がいる。そして、今日も大変だったねと言い合える人がいる。そんな何気ないような日々の連続が何よりも愛おしいのだと、かつてあの日々を生きてきたエルはよくわかっていた。だから、


「(…だから私は、そんな何気ない日々を、あなたとずっと過ごしていたかった)」


エルはアランの横顔を見つめて、もう叶わない願いを呟く。王家との結婚とか、家の再興のためとか、そんなことはきっとほんとうはどうでもよくて。ただただ2人で、日の当たるあの場所で、屈託なく笑っていたかった。他愛のない話をしていたかった。明日には覚えていないようなことでもいい、ずっと目を見てお互いの話をしていたかった。でもそれは叶わなかった。世界が二人を許さなかったから。


「(…お互いのいるべき場所はもう別々になってしまった。それでも、あなたが生きてさえいてくれたら、そうしたら。私には見ることのできない場所ででも、あなたがまた昔みたいに、笑っていてくれるのなら)」


彼が手を離してくれていたならば、エルはきっと貴族のまま裕福な暮らしをして、気のおけない友達とお茶をして、そして、身の丈にあった結婚をできていたことだろう。それでも、エルは彼を恨む気はちっとも起きなかった。この町でエメラルドやダンと出会えたこともあるけれど、なにより、エルはあの頃アランのことを確かに愛していたからだ。あの時の二人の記憶をかけがえのないものとして抱き続けたいと、そう願うほどに。

世界が、無謀な結婚をしようとした2人を悪だと指をさしても、それでもエルは、自分だけはあの頃の2人の記憶は汚さないと誓った。

エルは深呼吸をした。震える唇をかみしめて、もう一度息を吸った後、エルはまたアランを見上げた。


「…昨日殿下は、同一視されて迷惑だろうって、そうおっしゃってましたけれど、…全然迷惑じゃないんです」


アランは少しだけ目を開いた後、エルの方を見た。エルは真っ直ぐにアランの瞳を見つめた。


「ただ、心配なんです。殿下がこのまま、1人ぼっちになってしまわないか」


太陽がまた少しずつ昇り、さらに辺りは明るくなる。新しい朝の光を反射して、海がきらきらと輝く。アランの青い瞳も、光が当たって海のような綺麗な光を放つ。エルはその瞳を見つめる。昔何度も思った、綺麗な人だという感情が数年ぶりに蘇る。


「きっと世界には他にもたくさん、綺麗なものがあるから。涙が出るくらい、美しいものがあるから」


だからどうか、死んでしまったエル・ダニエルのことはどうか忘れてほしい、新しい人と一緒に新しい日々の中で笑っていてほしいと、エルはそう思う。


エルは、海の方を見た。まぶしい朝日がまた新しい日が来たと知らせるようにこの町を照らす。


「…それに私、マイクさんに担がれはしましたけど、でも王都へは自分の意思で来たんです」


エルは、その…お給料がいいし…、と誤魔化す理由をごにょごにょと伝えた。


「それに、今楽しいです。色んな人と出会って、話ができて。友だち…みたいなのもできて」


エルはふとアランの方を見た。アランはじっとエルの方を見ていた。明るくなった辺りに、急にエルは正気に戻って、自分がどれだけ殿下にするには恥ずかしい話をしていたか理解して、顔から汗が出てきた。


「(…でも、伝えないと後悔することがまだある)」


そうは思うものの、恥ずかしさと焦りでエルは慌てる。どうしたらいいかわからずに、ついエルは、また両頬を両手でつぶした。アランは目を丸くした。エルは、わ、私、と口を開く。


「私、この戦争が終わった後も、殿下にお茶を入れたりする生活が、したいです。だからどうか、どうかご無事で…」


エルは、もう一度頬をつぶす手に力を込める。そしてアランを見あげる。


「どうかご無事で、戻ってきてください」


言えた、と、思うと、じわじわとエルの胸が温かくなった。しかしすぐに、アランの反応を気にして背中から汗が流れ落ちた。

アランは少し目を見開いた後、しばらくの間黙った。エルは、どんな反応か恐ろしくても、それでもアランのほうを見つめた。

しばらくの間の後、アランはゆっくり両手をエルに伸ばした。エルは、よく分からずにその手の行方を見つめた。すると、アランはエルの手に自分の手を重ねた。アランの冷たい手がエルの手に触れた。エルは時が止まったような気持ちになった。

その瞬間、アランはエルの手を軽く押して、さらにエルの顔をつぶした。エルは突然のことに、頬にのこっていた空気がふっと口から抜けるのを防げなかった。アランはそんなエルを見て、優しく目を細めた。


「わかった」


アランはそう言うと、エルから手を離した。エルは、離れていくアランの手を見つめる。

アランは、海の方を見つめた。エルは、その横顔をぼんやりと見つめる。


「美しいところだな」


アランはそう言う。エルは一瞬反応できなかったが、少し遅れて、はい!…と返事をした。










朝食をとった後、アランとフィリップスが乗ってきた馬車が迎えに来た。

フィリップスは見送りに出てきたエメラルドとダンにお礼を言った。お体はもう大丈夫なんですか、とフィリップスはエメラルドに尋ねた。エメラルドは、大分ね、明日からは店も開けるかしらね、と笑った。フィリップスはエメラルドを少し見つめて何かを言いかけた後、何も言わずに微笑んで、それは良かったです、と返した。エメラルドもフィリップスを見つめて、何も言わずに微笑んだ。


「エリィ、行こうか」


アランが馬車に乗り込んだあと、フィリップスはそう声をかけた。エルは、はい、と頷いたあと、エメラルドとダンの方を見た。


「それでは、行ってまいります」


エルがそう言って頭を下げると、気をつけてね、とエメラルドは笑った。エルは2人を見上げてゆっくり微笑むと、馬車の方に向かった。フィリップスが階段をのぼるエルを支えようと手を差し出した。エルはお礼を言ってその手を取り、段差を上ろうと足を上げた。

その瞬間、エルはほとんど無意識に、エメラルドとダンのほうへ走って戻った。そして、ダンとエメラルドに抱きついた。エメラルドは驚いて半歩後ろに下がった。ダンは動揺して狼狽えている。エルはそれにも構わずに2人に頬を寄せた。

エメラルドは少しの間の後、ゆっくりエルの背中を撫でた。そして、ぽんぽんと優しく叩いた。


「アンタはアンタで、向こうで頑張っておいで」


エメラルドはそう言ってエルの目を見て微笑んだ。エルは目の奥から熱い涙がこみ上げるのを感じた。エメラルドはエルの頭を優しく撫でた。

エルの不安を察してか、エメラルドは、大丈夫!と少し大げさなほど言った。


「アタシたちがそんな簡単にいなくなるもんですか!」


あーあーもう、とエメラルドは優しく笑いながら、エルの頬を両手で包むと、指で彼女の涙をぬぐった。エルはエメラルドとダンを見上げて、一度震える唇噛みしめたあと、だいすきです、と震える声で言った。エメラルドは、アタシもだよ、と言って目を細めた。ダンはそんな2人のそばで、何かを言いたそうにしながら、しかし何も言えずに照れくさそうに頬を指でかいた。エメラルドはそんなダンを見て声を上げて笑った。エルはそんな2人を見てやっと笑った。











来た時よりもずっと短い時間をかけてお城へ戻ると、血相を変えたマイクが出迎えた。エルが一緒にいたことにわけがわかっていない顔をしていたが、とりあえずアランが無事だったことに安堵しているようだった。





そしてその数日後、隣国の軍が動き出し、この国との戦争が始まった。

戦いの間、お城の中はかつて感じたことのない異様な緊張感で張り詰めていた。

しばらくして、ようやくこの国の勝利と、戦場で指揮をとっていたアランの無事の知らせがお城に届いた。

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