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1 孤立する令嬢と諦めない王子様5

屋敷の裏口から逃げ出したエルだけれど、どこに行けばいいのかわからず、1人で遠くに行くわけにもいかず、家の近くの川辺にふらふらとたどり着いた。

夏の暑い太陽を木陰が遮り、川の涼しげな音が聞こえる。エルは川に少しだけ近づくと、しゃがみ込んだ。そして、片手だけ水の中に手を入れた。冷たい水に少しだけ驚いて、すぐに手を引っ込めた。腰を下ろし、両足を抱え、エルは川の流れを見つめる。エルが不在なのを見て、アランは諦めて帰ってくれているだろうかと、そんな希望をエルは抱く。


「(…いえ、あのアラン様のことだから、何かを察して私を探しているに違いない…)」


エルは、そう考えてまた頭を抱えたくなる。はあ、とため息をついて、ゆっくり空を見上げた。青々とした木の葉で遮られて、澄んだ青い空は途切れ途切れにしか見えない。

幼い頃、この川辺にたまにアランと遊びに来たことをエルはふと思い出した。


「(…あの頃は良かった。家とか身分とか、そんなものからは全部切り離された世界にいられた。ただ私がいて、アラン様という人がいた。それだけだった)」


もう戻れるはずなどないけれど、戻れるのなら戻りたいとエルは思う。あの頃、無知で、そして世間から離れて生きることを許された自分が恋しくて憎い。


「こんなところにいた」


上からそんな声が聞こえたのと同時に、顔を上げていたエルの目の前にアランの顔が現れた。いつのまにかエルの背後に立っていたらしいアランが、エルの顔をのぞき込んでいた。エルは驚いて目を見開いたあと、すぐに上に向けていた顔をもとに戻した。そして、なんとも気まずい気持ちで黙り込み、静かに流れる川を見つめた。

嫌な脈を打つ心臓にエルは身体ごと握りつぶされそうになるけれど、あんな手紙を送ってしまった以上、なにも取り繕う必要などないと悟ると、深呼吸をした。


「…会いたくないと、そうお伝えしたはずです」


エルはそう意を決して、しかし背後にいるアランではなく川の方だけを見てそう言った。アランは少し黙ったあと、エルの右隣に腰を下ろした。


「前に城に来てくれた時、いつもと雰囲気が違ったから気にしてたんだ。そしたらあんな手紙を送ってくるんだもの。放っておけないよ」


アランはそう口を開いた。エルは少し目を見開いたあと、目を伏せた。エルの唇が小刻みに震える。ずっと言いたくて仕方がなかったことのはずなのに、なぜか口が思うように動かない。エルはアランに気づかれないように小さく深呼吸をしたあと、その勢いに任せて口を開いた。


「アラン様の婚約者という立場を、辞退させてください」


言えた、とエルは思った。しかし、胸に残るのは爽快感ではなく、後味の悪い濁った感情だった。

アランの方を見られるわけもなく、固まったまま川を見つめるエル。そんな彼女の頭を、アランの大きな左手がゆっくりと撫でる。幼い頃から長く、そして綺麗に伸ばしてきた彼女の黒髪。貴族の女性は、女性らしさをより見せるために、髪を長く伸ばして綺麗に結うのが普通だった。エルの母は生前エルによく言い聞かせた。髪を綺麗にしなさい。そうしていれば必ず素敵な人が迎えに来てくれるから、と。そんな数少ない母との思い出とともに、エルは忠実にその位置づけを守ってきた。

エルの長い黒髪を伝って、アランの手は彼女の右手を包んだ。

彼女の置かれた立場を、抱える苦悩を、彼が知らないはずがない。それなのに彼は、離しまいとでも言うようにエルの右手を指と指を絡めるように包む。アランはエルの肩に自身の頭を軽く預ける。エルの視界に、綺麗な金髪が映る。アランはひどくか弱い、かすれた声で話し始めた。


「…小さい頃、王家の役に立ちそうになかった俺はみんなから見捨てられていた。…エル、君まで俺を捨てないで」

「…今はもう、あなたの周りにたくさんの人がいるじゃないですか。あなたは王子として素晴らしい。そんなあなたの周りには、たくさんの素晴らしい人たちがいる」

「今更、俺を見捨てた奴らのことなんか信じられないよ」


アランの言葉に、エルは固まる。普段の温厚な彼からは想像もつかない、吐き捨てるような台詞だったからだ。エルは驚きのあまりアランの方を見た。

アランはエルと目が合うと先程の台詞などなかったかのような笑顔を見せた。エルはアランの本心が分からずに戸惑う。

アランは少しだけ視線を動かしてエルの服装を見た。今日は家の外に出る予定も、誰かと会う約束もなかったので、貴族の令嬢と言うには恥ずかしいような、古く粗末な服装をしていたことを、アランに見られたことでエルは思い出し、気まずい気持ちになる。エルが目を泳がせた時、アランがエルを抱きしめた。


「俺、頑張るから。誰にも何も言わせないほど賢くなる、強くなるから」


アランの肩ごしに静かな清流を見つめながら、エルは、あなたがそうやって輝けば輝くほど私は苦しくなるというのに、と心の底で叫ぶ。

アランはゆっくりエルから体を離すと、両手でエルの頬を覆った。エルの視線は優しい力を持ってして強制的に、アランを見るようにさせられる。アレンの綺麗な青い瞳がエルを映す。エルから見える、アランの瞳の中の自分はぐにゃぐにゃに歪んでいて、輪郭のない自分に、果たしてあなたは存在していると言えるのだろうかと問いたくなる。

アランはエルを見つめて、そしてゆっくり口元を緩めた。


「…そうだ、エルがそんなことを言い出した理由に心当たりがあるんだ」

「…え?」

「結婚前に、漠然とした未来への不安が心を襲うことがあるって、誰かから聞いたことがあるんだ」

「…え?」

 

エルは、思いもしなかったアランの言葉に目を丸くする。ちがう、そうじゃない。エルはそう心のなかで叫ぶ。アランは、エルの考えていることに気がついていないのか、それとも気がついていないふりをしているのか、どちらかわからない子どものような無邪気な笑顔で言葉を続ける。


「いつか来る未来に不安になるくらいなら、もう結婚してしまおう。俺も来月には16歳になるから問題ないし」

「えっ、いえ、あの…」

「幸せにするよ、エル。誓うよ」


アランは困惑するエルを置いて、絶対に離さないと言いたげに、彼女の両手を自分の両手で包んだ。エルはただただ、まばたきを繰り返して固まることしかできなかった。


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