1 孤立する令嬢と諦めない王子様4
来週、アランがダニエル男爵家の屋敷へ、エルに会いにくることが決まっていた。
また貴族たちから、あんな令嬢に会いに行く時間が無駄だと思われているだろうかと思えば、エルは気が重くなった。
エルはため息をつきながら、台所で使用済みの皿を洗っていた。この家には見栄のために雇っているメイドが一人だけいるけれど、彼女は叔父の恋人で、家事などは一切しないし、そのことを家の主である叔父から咎められることなどない。だから、貴族のご令嬢といえど、この家の家事のすべてをエルが行っていた。
爵位持ちの貴族とは名ばかりで、この家には本当にお金がない。エルの部屋の窓など、古くなり外れかけており、今は夏だから良いけれど、真冬は耐えきれないような隙間風が入り込む。けれどそれを直す余裕などこの家にはない。修理する必要があるけれどできない場所は、この家には山ほどある。
すると、叔父が突然台所で家事をしていたエルのもとへやってきた。エルは驚きながら、洗い途中の皿を持ったまま振り向いた。酷く顔色の悪い叔父が、エルの前に来ると、おい、と彼女に凄んだ。普段から理不尽な叔父の短気に見舞われているエルは、反射的に体を縮こませた。
「アラン王子との婚約を解消しろ」
「え?」
叔父の言葉にエルは目を丸くした。これまで彼が言ってきた話と全く違うからだ。エルは、えっと、と彼の発した言葉を理解しようとゆっくり口を動かした。
「婚約を解消しろ…とは?」
「そのままの意味だ」
「な、なぜですか?今まで散々私に、」
「うるさい!」
叔父は怒鳴るようにそう言った。普段から気の短い叔父だったが、今日は様子がおかしかった。エルは彼に怯えて黙り込んだ。
「こっちから解消を申し出ようにも、どうせあの王子は承知しない。陛下も王子の意思を尊重するに決まっている。お前が上手いこと言って王子に嫌われるか諦めさせるしか解消する道はない。わかったか」
そうエルに言い放つと、叔父は彼女の前から去った。エルはわけがわからないまま、しばらくの間呆然と立ち尽くした。
「(…また突然……)」
屋敷の中庭のガーデンテーブルに腰を掛けて、木陰の下でエルは頬杖をつく。急展開についていけず、熱が出そうだとエルは思う。エルはたまらずにテーブルに顔を伏せた。
「…アラン様から嫌われる……」
エルはどうしたらいいのか考えを巡らせる。他に好きな人ができたことにしようか。それでは、その相手は誰にしようか。そう考えてすぐ、もし相手の名前を出してしまったら、その相手に大変な迷惑をかける予感がエルにはして、その案はすぐになくなった。
では架空の相手にしたらどうだろうか。エルはそう思いつくけれど、聡いアランにはすぐに悟られてしまいそうで頭を抱える。
では、嫌いになったと伝えようか。エルはそんな事を考えて、はたと固まる。
「(…私は、アラン様のことをどう思っているのだろうか)」
そんなことを考えながら、エルはぼんやりと中庭を眺めた。
幼い頃、アランがまだ病弱で、彼がお城から離れて別荘にいた頃は、しょっちゅう彼の元へエルは足を運んだ。思うように外で遊べない彼にたくさんの話をした。いつも顔色が悪くて、笑顔だけれど悲しそうで、儚くて消えてなくなってしまいそうな彼のことを、エルは、失いたくなくて毎日会いに行っていた。あの頃は確かに、エルはアランのことが好きだったように思う。
それなら今は?
そうエルは自分に尋ねるけれど、それはもうわからなかった。とにかく、アランの婚約者として生きる今が辛くて苦しくて、今すぐにでも逃げ出したくて仕方がない。でもそれは、彼のことが嫌いだからだろうか。
「(…とりあえず、今週の約束は断ろう…)」
考えることを放棄したエルは、はあと重いため息をついてからゆっくりと立ち上がり、アランに出す手紙を書くために部屋へ向かった。
体調が優れないため、今週の約束は延期にしてほしいというエルの手紙に対して、翌日即アランから返事があった。それならば見舞いに行く、と書いてあるアランの手紙に、エルは頭を抱える。
病気を移したくないと書こうか、いや、それでも構わないとアランならば言ってきそうである。エルは嘘の理由を考えに考えるが、余計にわからなくなるばかりだ。
「(…こんなとき、私に友人がいたら…そうしたら話を聞いてもらえたかしら)」
エルは部屋で一人、そんなことをぽつりと思う。周りから嫌われに嫌われたエルは、元からそれほど多くない友人たちとどんどん疎遠になっていき、ついには誰からも相手にされなくなった。
「(…お父様とお母様が生きていらしたら、そうしたら悩みを打ち明けられたかしら、相談できたかしら)」
そもそも、無理にアランと結婚しなくていいと、家の再興に執心する叔父と違って、エルにそんな逃げ道を作ってくれたかもしれない。頼れる人たちがいない自分の脆さと危うさに、エルは寒気がする。
情けない自分の立場と、輝かしいアランとの対比にまた、エルは胃が痛くなる。
「(…会いたくない)」
とうとうそんな、シンプルな本音をエルは思いついた。エルはそんな思いをアランへの手紙につづった。婚約者へ送るものとは思えない手紙だったが、嫌われるためならば十分なものにエルには思えた。半ばやけくそな気持ちで、エルはその手紙を城へ送った。
エルは手紙を送ったあと、自室のベッドに勢いよく寝転んだ。そして、顔を横に向けた。そのときに、本棚に並ぶ物語の本が見えた。エルは昔から物語が大好きで、両親から買ってもらった本を何度も何度も繰り返し読んでいた。家計は苦しかったろうに、しかし両親はそんな素振りは見せずにエルのためにたくさんの本を買い与えてくれた。
そんな大好きな本すら、エルは読む気力がもう随分長いこと起きない。何をするにも思考が灰色になって、文字が頭の中にはいらないのだ。
エルは重いため息をつくと、枕に顔を埋めた。
その翌日の午後、エルは洗濯物を取り込んでいた。前の調子ならば、そろそろアランからの返事が来そうなものだけれど、さすがにあの手紙への返事をアランはしなかったようだった。エルは安心したような、どこか胸に穴が空くような気持ちで洗濯物を取り込む手を動かした。
すると、門の外から馬車の音が聞こえた。客の予定などあっただろうかと考えたそのとき、その馬車に王国の紋があるのが見えて、エルははっと息を呑んだ。
「(…ま、まさか…)」
エルの背中に冷や汗が伝う。エルからの手紙を見たアランが、どうやら城から飛んできたようである。今日は平日で、本来なら学校があるはずである。王子の勉学の時間を奪ってあの令嬢はと、また後ろ指をさされる。そんないつもの不安がエルの頭によぎるが、そんな場合ではない。逃げなくては。エルは、集めた洗濯物を、その場に置くと、彼女ができる限りの猛ダッシュでその場から逃げ出した。




