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8 平民にはどうしたらいいのかわからない6

メリーベルに本を借りてから、エルは寝る間も惜しんで本を読み続けた。ヘレナの部屋のゴミを出すとき、捨てられた小さな小さな使い終わったろうそくを、ごめんなさいと内心謝りながら頂戴し、それを頼りに宿舎の外でこっそりと本を読んだ。秋になった夜はひどく寒くて凍えたけれど、エルはできる限りの厚着をして本を読むことを優先した。ろうそくがなくなれば月明かりを頼りにした。

エルは、眠気など感じないほど読書に没頭した。久しぶりに本を読んで、楽しくて楽しくて仕方がなかった。エルはどんどん進む夜の時間も気にせずに、本を読むことに夢中になった。





そうして2日間、エルは日中の疲労と眠気と引き換えに、メリーベルから借りた本を無事読み終えることができた。

エルはリズがヘレナの部屋にいないことを確かめると、家庭教師と別室で勉強をするヘレナを待っているメリーベルに、こっそりと話しかけた。


「あの、本を貸していただいてありがとうございました」


エルはそう言って借りた本をメリーベルに見せた。メリーベルは少し目を丸くした後、少し口をへの字に曲げた。


「…明日去ると決まったか?」

「ああいえ、…読み終わりました」

「は?」

「全部読み終わりました」


エルは目を輝かせてメリーベルを見た。そんなエルに、メリーベルは唖然とした。


「…使用人って、夜まで働かされてると聞いていたが?」

「はい。ですから、仕事が終わってから読んでいました」

「…貸してからまだ2日たったくらいだと思うが?」

「はい。でも、もうじきに暇を出されるだろうし、それに、続きが気になって気になって、ページをめくる手が止まらなくって…!」


エルは目をきらきらとさせてメリーベルを見つめる。そんなエルに、メリーベルは少しだけ嬉しそうに口元を緩める。


「…面白かったか?」

「はい、とっても!ジェーンがどうなるんだろうってずっと気になっていたんですけど、まさかあんな結末になるなんて…」

「…あれは自業自得だけどな」

「でも、なかなか悲惨でした!あんなふうになってしまうなんて、なかなかに…なかなかでした…!でも、ああでもなってもらわないと、これまでの溜飲がさがらないというか…でも、実際に罰が与えられたら与えられたで、いやそこまでしなくてもって思ってしまって…。なんだかんだあんなジェーンにも愛着が湧いてたのかなって、自分でもびっくりして…」


エルは興奮してどんどん早口になってしまった。そんな自分に気がつくと、エルははっとして固まり、そして、申し訳ありません、と言って少し顔を赤くして黙った。リズが見ていたら、どれだけ叱られるかわからない。エルは恥ずかしさと情けなさから体を縮こまらせる。


「謝らなくていい」


メリーベルはそう言った。エルは、え、と声を漏らした。


「…僕はずっと、この本の話が誰かとしたかった。皆奇妙だと言って、…この本を好きな僕が可笑しいのかと思わされてきたから。だから探してた。こうやって僕と話をしてくれる人を。探していたんだが…」


メリーベルはそこまで言って黙った。エルは、メリーベルを見つめて、しかし何も言えなくて黙った。


「…あの、今お時間あれば、メリーベル様のお部屋まで本をお運びします」


エルは、なんとか沈黙を破ろうと、そんな言葉を発した。メリーベルは視線を上げてエルを見た。


「…それは君への餞別にする」

「え?えっ、…え、いいんですか?」

「受け取ってくれ」


メリーベルはそう言った。エルは、そんなメリーベルをしばらくのあいだ見つめて、そして、小さく深呼吸をした。

あの頃エルは、ずっと一人だった。心を許せる友人がおらず、大好きな本を読むことが心の癒やしだったけれど、感想を言い合える相手はいなかった。いつしか読む気力すらなくなっていた過去の自分が、遠い遠い昔の、本当にそんな自分がいたのかすら怪しいほど、エルは今の自分が信じられないほど幸福だと、そう思った。


「…私も、…話したかったです。本の感想を、誰かと。私にはずっと、そんな相手がいなかったから、…だから、…嬉しかったです。……メリーベル様から頂いたこの本、大切にします。ほんとうに、ほんとうにありがとうございます。メリーベル様のこと、忘れません」


エルはそう言って深々と頭を下げた。メリーベルはそんなエルを見つめて、達者でな、と、これまで聞いた彼女の声の中で一番優しい声色でそう言った。








「……明日か……」


エルは、忙しそうに舞踏会の準備をしている使用人たちを横目に、掃除を続けていた。当然だが大きな規模のもののようで、たくさんの使用人がその準備にかり出されていた。

エルはヘレナのお部屋担当でもあったので、いつも通りの掃除をするだけでいいということになった。そのため、自分の持ち場でエルは掃除をしていた。

今朝の朝食の場では、本当にアラン殿下は参加するのだろうか、と、使用人全員が、するわけないのにね、どうするんだろう、という口調で口々に話をしていた。



エルは、人目の少ない中庭へ掃除にやってきた。秋の涼しい風と、暖かい日差しをまぶたに感じたとき、急に眠気が襲ってきた。最近ずっと睡眠時間を削って読書の時間にあてていた影響が、今になってやってきた。


「(…昼食後だからか…急に……)」 


エルは、眠気を抑えようと頬を強く叩いたりつねったりした。そのときふと、ここで前、アランと決別してしまったことを思い出す。

噴水から聞こえる水の音に、エルは重いため息をつく。


「(…町で再会した時に見たお顔を、なんとかしたくてここに来たのにな……)」


エルはそう心の中で呟いて、情けなさに蹲りたくなる。エルは後悔の念に耐えきれなくて、植木の陰でしゃがみ込み、自分の膝に顔を埋めた。


「(…ああ、情けない…無能、無能無能…)」


ほらな、お前は何もできないだろ、と頭の中のヴェルドがエルにとどめを刺す。エルは悔しさに奥歯をかみしめるけれど、彼の言うとおりだから何も言い返せない。エルは、はあ、とため息をつく。


「(…もう一度だけでいい、笑顔が見たかった…)」


もう会えないであろうアランを想って、エルはそんなことを考える。膝に蹲って瞼を閉じながら、そんな実現不可能な夢に自滅する。

目を閉じて悶々としていると、ここ数日の睡眠不足から少しずつうとうととしてきた。エルは、だめだだめだ…、と思いながらも、気がついたら意識を手放していた。





はっとして目を覚ますと、エルはまた噴水の縁にいた。


「(…まさか…)」


慌てて起き上がると、エルから少し離れたところに、噴水の縁に腰掛けたアランが本を読んでいた。


「(…え、夢…?)」


エルは、自身にかけられた上着を両手で持ちながら、そんなことを考える。


「(…あんな事があった後なのに、アラン殿下が私にまた同じ事をしてくれている…。つまりこれは夢……)」


エルはそんなことを考えながら自分の頬をつねった。


「…えっ嘘、ちゃんと痛い…」


エルはなぜか痛覚のある夢に驚いて、次は両手で両頬をつねった。変わらずに痛かった。


「え、なんで…」

「…何をしている」


怪訝そうなアランの顔が見えた。エルはようやくこれが夢じゃないことを察すると、顔をさっと青くした。そして、震える足で立ち上がりると、いえ、あの…、と口籠った。


「(…だめだ、もう何を言っても駄目だ…またあの顔をされる…怖い…)」


エルは前回のことがフラッシュバックすると何も言えなくなり、ただただ、申し訳ありませんでした、と頭を下げてアランに上着を差し出した。アランは黙ってそれを受け取ると、立ち上がってその場を去ろうとした。エルはその背中を呆然と見つめる。


この人と会うのはこれが最後かもしれない。


ふとエルは、フィリップスと交わした会話を思い出す。エルは間違いなくここから追い出される。そうしたらもう、彼と会えるのはこれが最後だ。


「(…最後に謝りたい)」


そうエルは咄嗟に思うと、反射的に、あのっ!と声を上げていた。アランは立ち止まり、色のつかない顔でエルの方を振り向いた。そんなアランに、エルは怯む。


「(…何も、言えることがない…この顔で、エルの顔で何も……)」


エルは、アランの冷たい目に頭が真っ白になる。エルの顔ではもう、何も言えない、そう思ったとき、咄嗟にエルは、自分の手で頬を覆って、両頬を潰した。

アランはエルの奇行にまた目を丸くする。エルは潰したまま頭を下げた。


「…殿下のお気持ちを考えずに、あんなことを言ってしまって、申し訳ありませんでした…」

「…」


エルは固まるアランに頭を下げ続けた。すると、しばらくの間の後、アランが口を開いた。


「…それは、何の真似だ…」

「え?」


エルは恐る恐る顔を上げてアランを見た。訝しげに眉を少し上げるアランに、エルは、目を伏せた。


「その…エル…さんの顔で言わないほうがいいかと思って…」

「……」


アランは、やはり不可解そうな顔をする。エルは、顔をつぶしたままアランの様子をうかがう。


「……ふっ……」


すると、アランが呆れたように笑った。エルはそんなアランの笑顔に、胸の奥が少しずつ安心で溶けていくのが分かった。


「(…馬鹿馬鹿しすぎて呆れているような笑顔だったけど、まあ、いいか…私にしては十分すぎるくらいだ…)」


エルは、アランにつられるようにゆっくり微笑む。アランは、わかったから、もうやめてくれ、とまだ笑いがとれないまま言った。エルは、はい、と言うと慌てて両手を離した。そして、アランを見つめた。笑ってはいるものの、以前の面影をほとんどなくした彼に、エルは途方に暮れる。あの頃、アランが優しい瞳で見つめ返してくれた時に、なぜ自分は彼のこの綺麗な瞳を見つめなかったんだろう、とエルは思う。名前も知らない周りからの言葉や視線に萎縮して、目の前のアランのことをまともに見ることができなくなっていた自分に、エルは息が詰まりそうなほど苦しくなる。

エルは、もう戻れない過去が哀しくて、だから無理やりに目を細めた。


「…最後に、殿下の笑顔が見られてよかったです」

「…最後?」

「はい。田舎に帰ることにしたので」


エルはそう言うと、お世話になりました、とアランに深々と頭を下げた。


「(…どうか、どうかお幸せに、…なんて、私に言う権利はないんだな…)」


エルはそんな気持ちをかみしめる。アランは、…ああ、とだけ言うと、エルに背中を向けて歩き始めた。エルはその背中を、見えなくなるまで見送った。


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