8 平民にはどうしたらいいのかわからない5
アランのための舞踏会まで、後3日となった。
エルはヘレナの部屋を掃除しながら、どうにもならない現状に頭をがっくりと落とした。もちろん、あれから一度もアランには会っていない。
「(…意を決してここへ来たのに、志半ばで町に帰らないといけないのか…)」
エルは、はあ、ともう何度目かわからないため息をついた。
ふと、エルはヘレナの部屋にある本棚に視線が移った。本棚には、ヘレナが好んで読むらしい小説が並んでいた。さまざまなジャンルが並んでいたが、恋愛小説が多く占めていた。中には、エルが昔から好きだった作家のものもあった。
「(…恋愛小説をここ長らく読んでいなかったから…だからああ言ったらこうなるっていう推測ができなかったんだ…)」
エルはそんなめちゃくちゃな論理を唱えながら、虚ろな目で本棚を眺めた。その時、背表紙に馴染みのある名前が目についた。かつてエルが読んでいた本が、エルが知っているよりも多い巻数で並んでいた。
「(…昔読んでたこのシリーズ、まだ続いていたんだ…)」
「あら、何か気になるものでも?」
ヘレナが突然、エルの背後から話しかけてきた。エルは驚きながら振り向いて、申し訳ありません!と頭を下げた。
「す、すぐに掃除をします」
「あらあらいいじゃない。何を見てたの?この本?」
ヘレナはエルの見ていた本を探して、本棚から取り出してエルに見せた。エルは気まずそうに頷いた。ヘレナは目を輝かせた。
「あなた本が好きなの?どんな本が好き?私はね、最近だと…」
「…あの…申し訳ありません、その…私なんかがヘレナ様と親しくしては、叱られますので…」
エルは、ここにはいないリズの影を思ってそう怯えながら言った。しかしヘレナは、あら、大丈夫よ、と微笑んだ。
「リズに隠れてお話したらいいんだから。ねえ、あなたはこの本を読んだことがあるの?」
気にせずに話を続けるヘレナに、エルは困惑する。
ふと視線を感じて目線を上げると、侍女のメリーベルがこちらを見ていた。また助けてくれないだろうか、と思いながら視線を送るが、いつもの無表情のまま、メリーベルは動かなかった。
「(…まあ、そうよね、そうですよね…)」
「ねえ、私はこの本が…」
「ヘレナ!!」
大きな声とともに扉が開いた。そこには笑顔のラインハルトがそこにいた。彼は多忙な仕事の合間合間でも必ずヘレナに会いに来るのだ。愛妻家は昔のままのようで、エルは小さく笑ってしまった。ラインハルトは笑顔でヘレナに近づく。
「やっと会議が終わったんだ。今からランチに行こう」
「あら、もうそんな時間ですか?」
ラインハルトはヘレナの腰に手を回すと、さあさあ、とヘレナを急がせた。二人は部屋から出ていってしまい、エルとメリーベルの二人が残された。
エルは、取り敢えずヘレナの弾丸トークから解放されたことに安心しつつも、急に静かになる部屋に気まずくなる。とにかく仕事をしようと、エルは掃除を再開した。すると、メリーベルがエルの傍にやってきた。エルは、なんだろう、と顔を上げた。すると、メリーベルが本棚を眺めた。
「…あなたも本、読むの?」
突然の彼女の質問にエルは驚く。エルはしばらくのあいだ黙って、本棚を眺めるメリーベルの横顔を見つめてしまった。
メリーベルは、黙るエルの方を見て、ねえ、と返答をせかした。エルは慌てて、は、はい!と返事をした。
「よ、読みます、あ、いえ、昔読んでました…」
「昔…今は読まないの?」
「ええと…本って高価ですし、なかなか手が出せなくて…」
「…そう」
「読んでいた時は、この、花束の行方、という本をよく読んでいました。同じ作者の書いた本を集めたりしていました」
エルの答えに、メリーベルは目を輝かせた。エルは、急に表情が明るくなるメリーベルに、驚いて目を丸くした。
「…そう」
メリーベルはそう、どこか嬉しそうに言うと、掃除よろしく、と言い残すと部屋から出ていった。エルは、彼女のことを不思議に思いながらも、再び掃除を始めた。
エルは、普段通り掃除をすることしかできなかった。タイムリミットは確実に近づいてくるけれど、彼女にできることはなにもなかった。
エルは重い気持ちでため息を吐く。やはり自分には何もないんだと、そんなことを改めて思い知らされて息苦しくなる。
「やあエリィ」
声がして、顔を上げるとフィリップスがいた。エルは、フィリップス様、と呟くと頭を下げた。フィリップスは笑顔でエルの前にいた。
「お疲れ様。いつも大変そうだね」
「いえ…。フィリップス様、今日はどうされたんですか?」
「会議だよ。戦争が近いから」
フィリップスの言葉に、エルは返す言葉に詰まるが、やっとのことで、そうですか…と小さな声でつぶやいた。フィリップスはそんなエルを見て、優しく目を細めた。
「私はいつも、この人と会うのはこれで最後かもしれないって、そう思うようにしているんだ」
「え?」
「私は家の次男坊で、跡継ぎは兄さんがいるからこの騎士団に来た。何かあれば真っ先に出ていくし、生き残ることじゃなくて命を惜しまずに国のために戦い抜くことが、それが私の使命だって思っている。だからもし明日何かが起こって、当然のように私が出ていって、…それで、今日エリィに会ったのが最後だったということになるかもしれないから」
「…」
日々の静かな暮らしが、彼らの命を賭したものの上に成り立っていることを、エルは改めて知る。エルは目を伏せて、込み上がる苦しい気持ちを表せる言葉を探すけれど、何も出てこない。
フィリップスはそんなエリィを見て、ごめんね、と笑った。
「戦が近いからかな、変な話をしてしまったね」
「いえ!あの……怖い、ですよね。不安になるのも当然です」
エルは、死が隣り合わせの戦場を想像してそう呟く。そんなエルに、フィリップスはううん、と頭を振る。
「怖くないよ、ありがとう。優しいね、エリィは」
そう言うフィリップスはただの強がりには見えなかった。エルは彼の思っていることが分からずに少し固まる。フィリップスは空を見上げて安心したように口元を緩めた。エルは、どこか喜びすら感じるフィリップスの横顔に違和感を覚える。
「…フィリップス様…?」
「ああ、ごめんね。仕事の手を止めたね」
フィリップスはそう言ってエルの目を見て笑った。エルは、彼がよくわからずにぎこちなくなる。
「(…もう何度も戦に出ているから慣れてしまったのか…、それとも本当に恐れていないのか…)」
「それじゃあね」
フィリップスはそう言ってエルに手を振った。エルは、は、はい、と頷くと頭を下げた。すると後ろから、ねえ、と声をかけられた。振り向くとそこには、本を何冊か抱えたメリーベルがいた。フィリップスを呼び止めたのかとエルは思ったけれど、彼女の視線はエルにあった。
「あれ、メリーベル?」
去ろうとしたフィリップスは立ち止まり、メリーベルの方を不思議そうに見た。メリーベルはエルの前に来ると、はい、と手に持った本を渡してきた。エルはそれをすぐに受け取った。
「これをどちらへ?」
ヘレナの部屋の本棚に並べればいいのだろうかとエルが考えていたら、メリーベルが、違う、と言った。エルは、え?と首を傾げた。
「違う?」
「その本、僕の。貸してあげる」
メリーベルはそう、無表情ながらも大きな瞳をきらきらと輝かせてそう言った。エルは話がよく分からずに、ええ?と目を丸くした。
「私に…ですか?」
「うん」
メリーベルはこくりと頷く。エルは彼女に渡された本を眺める。花束の行方の最初の巻から最後の巻まで全五冊らしかった。
「(これ、大好きだったのに、連載の途中から読む元気がなくなって、結末を知らなかったのよね…!)あの、ほ、本当にいいんですか?」
「いい。…その本を好きって言う人、初めて会ったから」
「え?」
「みんな、独特だって言って、人気ない」
自分が好きだった本がそんな評判だとは知らずに、エルはそこに驚いた。
メリーベルはエルの反応をうかがいながら瞳をじっと見つめていた。エルは彼女の瞳を見つめ返しながら、彼女の大きな瞳と、長いまつげが美しくて、同性ながら緊張していた。
「…いつ返してもらってもいいから」
メリーベルはそう言うと踵を返した。フィリップスは、へえ、珍しいこともあるんだね、と驚いたように声を上げていた。エルは、あ、あのっ、とメリーベルの背中に声をかけた。
「ありがとうございます、嬉しいです!でも…」
「でも?」
メリーベルは立ち止まり、エルの方を見た。エルは眉を下げて、でも…、と言いにくそうに繰り返した。
「その…私、もうすぐ田舎に帰ることになったんです」
「えっ」
「えっ」
メリーベルとフィリップスが同時に声を上げた。フィリップスがエルの方を見て、どうして?と信じられないというような顔をして言った。
「だって、君がここに来たのって…」
マイクから他言を禁止されているためか、メリーベルの存在を気にした言い方でフィリップスが言った。エルは、はい…、と何を話していいかわからずに曖昧に笑った。
「でもその…私にできることがなくなって、だから…もう数日もしたらここを出ていかなくてはいけなくて」
エルは、メリーベルが貸してくれた本の表紙に目を落とした。その後、眉を下げて困ったように笑い、メリーベルの方を見た。
「だから、ここを去るまでに読めるだけ読ませてください。私にこんなことまでしていただいて、本当に本当に嬉しいです、ありがとうございます」
エルは、メリーベルが本を貸してくれて嬉しい気持ちと、役立たずになって去らなくてはいけなくなったことが悲しい気持ちで、なにがなにかわからなくなる。エルは深々とメリーベルに頭を下げて、また、ありがとうございます、と告げた。メリーベルは少し固まった後、そう、とだけ言うと去っていった。
フィリップスはメリーベルの背中を見つめながら、そっか…、と、口を開いた。
「じゃあ、本当にエリィに会えるのは今日が最後になってたかもしれないってことだね」
フィリップスが少し驚いたようにエルを見た。エルはフィリップスを見上げて、はい…、と言って苦笑した。
「帰る日がきちんと決まってから、お伝えできる機会があればお伝えしようと思っていたんですが…フィリップス様には優しくしていただいて、感謝しています」
「大したことはしていないよ。私の方こそ、エリィと仲良くできて楽しかった。ありがとう」
「…あの、1つお伺いしてもいいですか?」
「もちろん。私に答えられることなら」
「あの、…フィリップス様もエル…さんという方とお知り合いだったんですか?」
「え?」
「私によく話しかけてくださっていたから、その、顔が似ていて懐かしいって、思っていらっしゃるのかなって…」
エルは、前から少し疑問だったことを、最後だからと尋ねた。フィリップスは少し目を丸くした後、優しく目を細めた。
「…知り合いというほどじゃないよ。本当に一度、会ったことがあるだけ」
フィリップスの言葉に、エルはさらに疑問が深まる。
「(…会ったことがある…?)」
エルは自身の記憶を掘り起こすけれど、彼に関してエルは何の記憶もなかった。一度だけとは言え、こんなにも見た目が強烈な人と会っていれば覚えていそうなものなのに、何も覚えていないことが本当に不思議だった。
エルは、これ以上追求するのも不自然だと考えて、そうですか…、とだけ返した。フィリップスはそんなエルに優しく微笑んだ。
「どうか、元気で」
フィリップスの言葉に、はい、とエルは頭を下げる。
「フィリップス様も、ご武運を。それと…ご無事をお祈り申し上げております」
エルの言葉に、フィリップスは少しだけ目を細めると、それじゃあね、と手を振り、彼女の前から去った。エルはそんなフィリップスの背中を見送った後、手にある本を見てじわじわと口元を緩めたあと、一度部屋に戻って置いてこよう、と考えた。




