3 そして巡り合う5
王国軍がこの町から去り、静かな日々が戻ってきた。
兵士であふれかえっていた食堂も、ようやく見慣れた地元の漁師などの客が戻ってきた。
兵士たちとのひとときのロマンスを終えた女性たちは、しばらくは相手からの連絡を待っていたが、いつまでたっても来ない手紙にようやく目を覚ましたのか、時間が立つにつれて少しずつ彼らのことを忘れようとし始めていた。
エルは、この町での平穏で幸せな暮らしを再開した。何もなかったように、そう思い込みたい気持ちでエルは日々の暮らしを営んだ。
朝、目をさまして、朝食を作り、エメラルドやダンと食べて、そして働く。月に一度のお給料日には、クッキー一枚を求めてパン屋に向かう。時には食堂に来た客と話し、時には外を歩く顔見知りの人と他愛ない世間話をする。その繰り返し。
温かい光の中で、エルは潮風を感じながら港の隣を歩く。そんな毎日が、これまで暗闇の中にいた自分にようやく与えられた幸せなのだと、エルにはよくわかっていた。
それなのにエルは、あの日見たアランの涙を忘れられずにいた。
「(…そういえば、クッキーを届けてもらったお礼を言えなかった)」
パン屋からの帰り道、購入したクッキーを手にエルはそんなことをふと思った。がしかし、だからなんだというのか、と、エルは頭を振って忘れようとした。すると背後から、おい、と声をかけられた。振り向くと、ケインがそこにいた。
「ケイン。こんにちは」
エルはケインの方を見て微笑んだ。ケインはエルの前に来ると、エルの手にあるクッキーを見た。
「またそれか。好きだな」
「はい、美味しいんです」
エルはそう言って微笑むと、召し上がりますか?と尋ねた。ケインは笑うエルを見て自分も目を細めると、遠慮する、と返した。エルは、そうですか?と言った後、海の方を見た。晴れ渡る青空は、しかし秋の訪れを感じるような静けさがあった。
「良い天気ですね」
エルはそう笑う。与えられた居場所に、光が温かいと感じられる毎日に、エルは自分を途方もなく幸福だと思う。
「(…でも、アラン様は)」
はたとそんなことが頭によぎって、エルは笑顔が固まる。エルは忘れたくて、また頭を振る。
「…やっと軍が引いたと思ったのに、なんか気持ちが晴れねえな」
ケインが頭を掻きながらそう気だるそうに言った。エルは、えっ、と声を漏らしたあと、アランの顔を思い出す。エルはそれを忘れようと頭を振ったあと、ふと、ケインが思いを寄せていた女性が、前に来ていた兵士と良い仲になったものの、町に置いていかれてしまったのだという話を思い出した。つまり、ケインは傷心中にあるのだ、ということである。ケインは重いため息をついた後、なあ、とエルに話しかけた。
「…やっぱりさ、親方たちの冗談を真に受けて、俺と結婚しないか?」
「え…?」
「ほらお前、町の男たちととくにそんな仲になってないから、嫁に行きそびれそうだし」
ケインの言葉に、エルはぼんやりと彼のほうを見つめた。
それが本来正しいのかもしれない。
エルはそう思う。この町で普通に生きていくためには、年頃になれば結婚して、家族を作って、子供を育てる。それが普通で、そして正しいことなのかもしれない。ましてや、こんなふうに言ってくれる人がいるのなら、それを逃す理由など本来ないのかもしれない。
海から来る風が、エルの髪を揺らす。エルは一度目を伏せたあと、ごめんなさい、と頭を下げた。
「私、ケインのことをそういうふうに見られない。だからごめんなさい」
エルの返事に、ケインは目を丸くした。
「俺と結婚するより行き遅れたほうがマシってこと?」
「ち、ちがいます!そういうのは本当に好きな人が現れたらって、そう思うから…」
エルはそう言いながら、夢見がちなセリフだと自分でも恥ずかしいくらいに思った。まるで、自分が好んで読んでいた恋愛小説のようなセリフだと。でも今、エメラルドのいるこの町でエルは、本気でそんなことを思える。好きな人が現れたて、その人と思いが通じたなら結婚できたらいいし、現れなかったたらそれでいいのだと。
ケインは、なんだそれ、と呆れたように言った。エルは笑って、そもそも、と話を続けた。
「あなたはあなたで、あの方に振られたからって私に逃げないでくださいよ」
「えっ?!うっ…」
「あの方も傷心中なんですから、まだまだチャンスはあると思います!むしろ今が好機かもしれません、物語あるあるで言うのなら」
「物語?お前、一丁前に本なんか読むのか?」
ケインの反応に、エルは以前エメラルドとした会話を思い出して動揺した。
「ええと、昔に少しだけ。…とにかく、応援してますから」
エルは早口でそう言うと、その場をさっさと去るために、ケインに軽く会釈をして歩き始めた。
「(…普通じゃなくてもいい…か)」
エルは、エメラルドの言葉を思い出す。思えば自分は、周りの意見に囚われて、何も自分の思うように生きてこられなかった。この町に来てようやく自分の自由を手に入れることができた。エルはこの町が好きだ。エメラルドやダンと暮らすこの町での生活が好きだ。このままここで暮らしたい。笑って生きていきたい。
それなのに、どうしてもあの日のアランが胸の奥にこびりついてとれないのだ。
エルは一度深呼吸をしたあと、意を決したように家に戻った。自分の部屋に戻ると、お金をためていた箱を取り出した。そして、そこに入っていたお金を数えた。
「(……落ち着け…落ち着くのよ私……)」
エルは一度手を止めて深く息を吸った。動機が激しくて、胸がぎしぎしと痛い。
「(…お城に行ってどうするの…?私を殺そうとした人がそこにいるかもしれないのに……)」
あの火事の日をエルは思い出す。深く考えないようにしていたけれど、助けてくれた人の言う通りなのであれば、エルの殺害を画策した人物はおそらく城に出入りするような貴族だ。エルは、かつて好んで読んでいた推理小説のセオリーを辿って答えを探る。犯人がいるとするならば、それはアランとエルの結婚が政治的に疎ましい、エルがいなくなれば得をする誰かだ。
「(他人のふりをしてお城に入り込んだとして、いつかボロが出て、その人物に私が本当は生きていたことがバレたとしたら?次こそは殺される…そうにちがいない……)」
エルは一度冷静になろうと、また深呼吸をした。その時、エルは額や背中から汗がにじんでいることに気がつく。
すると、部屋がノックされた。エルは、はい、と動揺しながら返事をした。エメラルドがドアの向こうで、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど、と話しかけた。エルは扉を開けて、エメラルドの顔を見た。いつものエメラルドが、買い出しをしてきてほしくてね、と言った時、エルは自分の決意が揺らぐのがわかった。
眉をゆがめるエルを見たエメラルドは言葉を止めた。エメラルドは、エルがベッドの上で数えかけていたお金が散らばっているのを見ると少し黙り、一度息を吐いたあと、エルの瞳を今一度見た。エルは目を伏せたあと、ゆっくりとエメラルドの顔を見上げた。いつもの彼女の深い愛情に満ちた瞳を見て、エルは胸が詰まるのが分かった。しかし、この優しい目の前で、エルはするすると自分の本音が溢れ出してしまった。
「…私、ここにいたいです…エメラルドさんやダンさんと、一緒にここに…」
エルはそう言いながら唇が震えた。エメラルドは、うん、と優しい相槌を打った。その優しい眼差しに、エルは一度唇をかみしめる。
自分にとってこんなにも大切な彼女をも置いて、それでも行かなくてはいけないのか?殺されるかもしれなくても、それでも?そもそも、貴族の身分をなくした自分に一体何ができる?
エルは自分に問う。そして、自分で答えを探す。そのときに頭に浮かんだのは、最後に見たアランの涙だった。
「…私、でも私、…行かないといけないんです。私に何ができるのかわからない。何もできないかもしれない。それでも、何もしないまま終わりたくない」
エルはそう、意志を持った声で告げた。エメラルドは、うん、と相槌を打った。
「私、王都へ行きたいんです。…エメラルドさんとダンさんがせっかく私を受け入れてくださったのに、こんな勝手なこと、許されるわけがないってわかってる、でも…」
エルはアランのことが頭から離れないのだ。自分が死んだせいで豹変してしまった彼を放ってはおけない。また彼が元のように生きるのを見届けたい、そうエルは、いつの間にか願うようになっていたのだ。
「…本当に勝手だよ、アンタは」
エメラルドはそう言うと、エルを優しく抱きしめた。
「でも、アタシはそういう勝手が大好きだよ」
エルは、エメラルドの腕の中で目に力を込めた。それでもこらえきれずに涙がこぼれそうになる。エメラルドはエルの頭を優しくなでた。
「自分で自分を必要以上に悪者にしちゃいけない。呪っちゃいけない。アンタの癖だよ、気をつけな」
「…はい」
「髪だって、いつまでも短くしてないで、また前みたいに伸ばしな。アンタの自由でいいんだ」
エメラルドはエルから体を離すとそう言った。エルはエメラルドを見上げて、自分の短くした髪を触った。そして、小さく笑った。
「…最初は罪悪感から切ってました。でも、短いほうが動きやすくて、気に入ってるんです」
エルの言葉にエメラルドは少し目を丸くすると、声を上げて笑った。
「アンタなら、王都に行ったって意外と上手くいくかもね」
エメラルドはそう、目を細めて言う。そんなエメラルドに、彼女は王都を知っているのだろうかとエルは思ったけれど、知っていたらエルが王都でやっていけそうなんて思わないか、と考え直した。エルは意気込みながら深呼吸をした。
「…な、なんとか、頑張ってみせます…」
「帰りたくなったらいつでも帰ってきな」
「私、本気にしますよ」
「上等じゃないか。ご馳走用意して待ってるよ」
エメラルドはまた声を上げて笑った。エルはそんなエメラルドを見て目を細めたあと、また彼女に抱きついた。そして、ありがとうございました、と声を絞り出した。エメラルドはまた優しく、うん、と返した。




