Ⅷ 寝心地最悪
魔人とは、文字通り魔王の手で生み出されたとされる人型の怪物のことを指す。ヘレンが今相対している絡新婦のように、どこかしらに人間の要素が残ったファントムもいれば、人間としての原型を留めていない者も中に入る。
だが、その全てに共通することが一つ。
殺戮と破壊。高い知能を保った生物が、本能の赴くままの、圧倒的な力による蹂躙と支配に快楽を見出す者達。
ヘレンの故郷も彼らの手で一度焼かれた。それが面白いというだけで、男は一人残らず殺され、女は奴隷にされるか、もっとひどい目にあわされた。生き残った者も狩られるか、ヘレンのように身を隠すしかなかった。
「へー……わたしのことしってるんだー……」
アラクネは頭にべったりとくっついた漆黒の長髪を揺らし、人間に似たような発声器官で不快な声を奏でる。上半身は人間の女性だが、肌が蜘蛛の体毛で覆われており、毒々しい黄と黒の色彩を放っていた。
「ワタシタチはなんだって知ってるからね」
――傲慢で嘘つき。
「じゃあ、これも知ってるはず――……」
「何をー?」
ヘレンの背中には二振りの斧。大斧はここでは使えない。より柄の短い戦斧を右手で抜き、もう片方の手で腰に掛けていた手斧を手早く抜く。
「これからきみが負けるってことー……」
「アハハっ、勇者に捨てられちゃって頭おかしくなっちゃ――」
何かを言い返す直前、予備動作の無い手斧の投擲がファントムの肩を切り裂く。蟲の脚が地面へと落ち、黒い血が噴き出す。術で作られた蜘蛛と違い、ファントムも人間や獣と同じように血を流す。痛みを感じるかどうかは――。
「痛い痛い痛い痛い!! 何すんだテメェエ!!」
個体差がある。ヘレンがかつて相対した中には、手足はおろか、首を斬られても動き続ける者もいた。強いファントム程、痛覚を感じず、それに伴う恐怖も無い。
「思った通り……弱いね、きみ」
「この阿婆擦れ……手足引きちぎって保存肉にしてギャッ!!」
戦斧を首へと突き立てる。刃が肉を切り、骨にまで掛かる。殆どの生き物であれば致命傷だが、絡新婦は恐怖に目を見開いた。恐らく生まれてからそれほど経っていない若いファントムなのだろう。
「私を倒せる程ならー……首斬っても死なないよねー。あ、そうだ、一つ聞きたいこ……あれ?」
刃が更に喰い込み切り落とすその直前での寸止めた時。つんと強烈な香りが鼻孔を突く。本能的に危険を察知したヘレンは思考するよりも先に、絡新婦を蹴り飛ばす。後ろへ跳躍する。
「クフフっ、やっと効いてきたね」
かくっと自分の意思とは関係なく膝を突いた。いつもの突然来る眠気とは違う。毒を喰らった時と似たような気持ちの悪い倦怠感。手足に痺れが走るのを感じた。絡新婦は皮一枚で垂れた自分の頭を掴むと、首に固定し直す。接着した先から傷がじわじわと回復していく。カチカチと牙を鳴らしながら、じりじりとヘレンに近づいてきた。
「安心しなよ、眠っちゃってもアタシが起こしてあげるからさ!」
完全に毒が回るよりも先に倒せばいい。ヘレンは震える手で持ち手を抑え斧を握る。一息で首を斬れるよう、ぐっと脚に力を入れたその時だった。
(あ、眠い)
力が抜けた手から戦斧が地面に落ちる。眼が霞む。最後に絡新婦の冷たい手足が肌に触れるのを感じながら、ヘレンの意識は闇に溶けた。
それからどれだけの時間が経っただろうか。首に走る痛みと、胸に圧迫を感じての最悪な目覚め。手足の感覚が殆ど無い。少し力を入れてみようとすると、何かに固定されているのか、動かない。僅かに開いた眼で状況を確認する。
周り中に張り巡らされた蜘蛛の糸。その中心にヘレンはいた。両足は縛られており、両手も左右にまっすぐ伸ばされていた。十字架に縛られた罪人のようだ。
「気分はどーう?」
ぼんやりとした目で上を向くと、上下逆さまにぶら下がる絡新婦の姿があった。口から真っ赤な血が垂れて、ヘレンの顔を汚した。多分自分の血なんだろうなー……と、彼女は呑気にそんなことを思った。最悪の寝起き。ヘレンは寝るのが好きだが、寝れればそれでいいというわけではない。
「……ベッドが恋しいー」
イズルのベッドを思い起こしていた。死ぬ前にもう一度あのベッドで眠れたら……と。
「大丈夫だよぅ……、何百回と噛まれてたら、すぐに何も感じなくなるから、ネ?」
降りてきたアラクネに肩を噛まれる。イズルの屋敷において、きれいさっぱり洗浄されたばかりの服に穴が開いてしまった。じわりと広がる血に、アラクネは口を近づけた。中に生えた無数の毛のような舌が血に触れて真紅に染まる。鋭いナイフを突き立てられたような痛みにヘレンは小さく顔をしかめた。
「あ、そうだ、面白い事教えてあげるよ」とアラクネはヘレンの耳に顔を近づけながら聞いてもいないことを話し始める。
「私達は飢えることなんてない。なのになんで、君達の血肉を喰らうのか分かる?」
「興味ないー……」
心底どうでも良さそうな表情で返すと、アラクネは当然、不愉快そうに顔を歪めた。ヘレンの頬を人間の手で頭を蜘蛛の脚で乱暴に掴んで持ち上げ、アラクネに視線を無理やり合わせる。
「その澄ました顔がぐちゃぐちゃに歪んでいくのを見るのが好きなんだァ……、ほら」
面白半分に、ヘレンの太ももの外側を、蜘蛛の脚が貫く。小さく目を見開くのを見て、アラクネの口がにぃっと広がる。
「ほら、そういう顔。もっと見せて……死体になるころにはどんな表情になってるか楽し――」
アラクネの目が変わる。その視線はヘレンではなく、その背後に向けられている。誰かが後ろに立つ気配があった。それも複数。空気を切って鏃が蜘蛛糸を切り裂く。拘束が解け、ヘレンの右手が落ちる。だが力が入らず、体の横に垂れた。
「無粋だなァ、お楽しみの途中だったんだけどォ?」
アラクネはニタニタと笑うも、その額には青筋が浮かんでいた。
「悪いけど、その子は俺にとって恩人なんだよね」
イズルの声、鋭く剣を抜く音。続けて矢が数本放たれ、ヘレンの拘束が解ける。地面に受け身を取ることもできずに落ちるが、体は自由だ。
「アタシが興味あるのは勇者の元仲間だけ。お前らは――」と、アラクネが手を振ると、洞窟の天井に植え付けられた卵が甘ったるい刺激臭と共に破裂し、無数の蜘蛛が這い出てくる。イズルの護衛が矢を放ち蜘蛛が散る。火矢なのか煙の臭いがした。
「ヘレン――」
イズルがヘレンに向けて手を伸ばす。ヘレンは頭を上げた。その声に体が軽くなるような感覚を覚える。アラクネに噛まれた痛みが癒え、胸の圧迫感が和らぐ。同時に眠気も襲ってくる。
(起きなきゃ)
このままではイズル達が危ない。腕に力を入れる。
「感動的ね、でも現実は厳しいの、奇跡なんてこの世に存在はしないのヨ」
視界は闇の中に。だが、声はまだ聞こえた。頭の中で反響する。気配が意識の中で白い影となってぼんやりと浮かぶ。だが、あまりに焦点が合わない。位置が掴み切れない。
「右斜め前方先、振れば当たるっ!!」
「ハ?」
アラクネの首が一振りで飛んで、地肌の壁に当たって跳ね返る音がした。そこでヘレンの意識が戻ってくる。霞んだ視界の中でアラクネの頭と目が合う。
「――ウソウソウソ、毒を喰らって動ける奴なんて」
「俺が治癒したからね」と、イズルが告げた。ヘレンはふと自分の傷の位置を確認する。傷痕は完全にふさがっていた。毒は浄化されているが、体には倦怠感が残っていた。さっさとケリを付けないとまた厄介なことになる。だが、ヘレンにはどうしても聞いておきたいことがあった。
「ねぇ――コロス前に聞きたいことあるんだけど」
「ひっ、やめ、殺さないで――」
命乞いをするアラクネの髪を掴む。べっとりと油っぽかったので「うわぁ……」と思わず地面に落とした。
「なんで私のこと……知ってるの?」
「ま、魔王様に、教えてもらったんだヨ。お前を殺して喰らえば、強い力が手に入るって――生まれたばかりのファントムはみーんなお前を狙ってる」
「なるほど」と、ヘレンは納得した。もはや脅威足りえないヘレンを、魔王は魔人の強化の為の餌にするつもりなのだろう。
「こんな絶好のチャンス、もう二度と来るか分からない……」
アラクネの首の断面から蜘蛛の脚が生えてくる。緩慢な動きで立ち上がった刹那、凄まじい速度で森の中に消える。
「あ、逃げたー」
「逃、逃がすな!!」とイズルが駆けだす。その後ろからヘレンも追った。脚に力を込めての前方への爆発的な跳躍で、イズルを飛び越し、木々の間を抜け――
恐怖で顔を歪めたアラクネを捉える。大斧の一振りが大地を抉りとり、蜘蛛の脚が生えた頭が宙を舞う。
「イヤだっ――」と涙を流すアラクネを、
「大丈夫だよ、死ねば何も感じないからー」
ヘレンは躊躇うことなく真っ二つにした。さしもの魔人もそれ以上再生することなく、事切れ、体と血は灰燼に帰す。
「ヘレンっー!」と、遅れてイズルが駆けてくる。そして息を整える間もなく、ヘレンの肩を掴んだ。
「だ、大丈夫? 毒と傷は治癒したけど、後遺症とか残ってたり」
「うぅん、おかげでちっとも痛くないし、あ、でも」とヘレンが言いかけ、イズルが息を呑む。これ言ったら怒られるかなーとか思いつつ、ヘレンは告げた。
「またあのベッドで寝てみたい」