ⅩⅩ 星のように瞬く守護者(クストーデ)
ジェミニ評議界共和国に属する星の都ポルックス――その中心部に鎮座する大聖堂から放たれる結界はポルックスだけでなく、カストル――ポルックスとは対称的に宵闇の都と呼ばれている――他大小様々な町を始めとして国の外れの村まで覆う。
その護りは魔族の侵入は勿論、彼らが放つありとあらゆる攻撃を弾くとされている。無敵にも思える鉄壁の守りだが、欠点も幾つか存在する。
一つは、国を覆う程の結界が双星の御子の手を介さねばならない点。疲れもすれば、空腹にもなる生身の身体であるということだ。御子は特殊な瞑想部屋の中で覚醒状態となり、最大で三日間もの間、結界を展開し続ける事が出来る。
だが、限界まで結界を維持する代償は大きい。結界解除の際に掛かる身体の負担から御子は数日間意識を失い、下手をすれば命を落とす。
魔光鉱石の活用により多少御子の負担は減り、双子は交代で結界を張ることができるようにもなったものの、替えが利かない存在であることには変わりはない。守護者は半日ごとに結界を解除し双子の片割へと交代することと、評議界によって定められた。
僅かな時間ながら、結界は展開しない期間が存在するのだ。
そして二つ目だが、大聖堂その物、結界の根元は、結界そのものよりも守りが薄い。懐に潜り込まれれば存外脆いということだ。大聖堂そのものが襲撃される可能性を評議界も全く考慮していないわけではない。国の生命線であるここを守る為、テンプルナイツを始め多くの衛兵を配置している。
だが、国全体が混乱に陥り、テンプルナイツが大聖堂を離れてしまった今、この大聖堂の守りは極めて薄い物となっていた。ドッペルゲンガーが制圧した見張り塔が内側から破壊されて吹き飛び、土煙の奥から新たな魔人が現れた。
ドッペルゲンガーよりも遥かに凶悪で危険な魔人が。
ドッペルゲンガーばかり警戒していた大聖堂付近の衛兵は完全に不意を突かれた。上半身は不気味な麗しさを持つ女性の姿。マゼンタに煌めく髪に青白い肌、その瞳は蛇のように爛々として獲物を見定める。
下半身には幾つもの牙を持った目も鼻も無い顔面、触手が幾つも波打ち、動く物があればなんでも掴んで絞り潰しては自身の顔面へと運んだ。
断続的な咀嚼音と弾けるような水音を立てて、肉塊から絞り出された魂が放つ恐怖が魔人の血肉と化すのだ。
天辺を円錐形に切り取った5つの威厳溢れる塔に囲まれた真っ白な聖堂、中心にある一際威厳溢れる巨大な塔へとスキュラは止めることなく歩みを進める。
扉前で愚かにも逃げ出さずにいた数人の衛兵を殺して、大聖堂の扉を開ける。ステンドグラスの光が中へと差し込む中、怪物の影が薄っすらと伸びた。
スキュラが一歩踏み出した瞬間、広間の至る所で光の線が走った。それは四方八方から迫って異形の体を縛り上げた。
「おやおや、大したおもてなしだな?」
スキュラの肉体に鋼線が喰い込む。その一本一本に魔力が通じているのをスキュラは感じた。次の瞬間、肌に突き刺すような痛みが薄氷と共に走り、心の臓にまで達する。
薄氷は魔力によって増幅し、スキュラを氷像へと転じた。
――思った以上だ。
氷像の中でスキュラは眼球を動かす。ここまであまりに防衛が薄く、人間共の平和ボケぶりに呆れすらしていたのだが、流石にこの国の守りの生命線とも言えるこの場所には高度な魔法が張り巡らされている。
スキュラが内側から氷を破ると砕け散った氷の破片が床に舞い落ちる。間髪入れずに四方八方に設置されていた仕掛け置きの弓から矢が発射され、貫かんとするもスキュラが触手を一振りするだけで全て弾き返された。恐らく最初の鋼線の魔法を皮切りとし、侵入者を排除するための機構が発動したのだろう。
「あぁ、いいぞ。まるで人間が必死に抵抗しているかのようだ。全てが無に帰した時の表情が無いのが……残念だがね?」
四方八方から矢や魔法による攻撃を受けながらも、スキュラは天井を見据えた。周囲にある議員達が使っているのであろう豪奢な部屋や装飾には目もくれない。御子は広間の中心にある小さな移動式の小部屋を使って最上階へと向かうということは、この国に潜んで情報収集していたドッペルゲンガーからの報告で知っていた。
「すぐそこに行くぞ? 私を楽しませるような表情で待っていることだ……そうすればすぐには死なずに済むかもしれんからなぁ」
大聖堂の頂きの瞑想室の中で、双星の御子、ニコロ・クストーデは焦燥に駆られていた。周囲にあるのは下と行き来する為の昇降機の他、結界を展開する為の複雑な魔法陣が床に刻まれているだけだ。
その空中でニコロ・クストーデは足を組んで浮かんでいた。彼の周囲を繭のように黄色い輝きが覆っていた。その繭を中心として天井に向けて放出、巨大な魔光鉱石が光を受けて、国の外に向けて放出されている。
――もしもここが破られたら。
ここを優先的に攻撃して来る者の意図は考えるまでも無い。眼を閉じると真下にいる魔人の姿が見えた。それが魔導式の昇降機に触手を突き立てながら登ってくる。
魔法による防衛設備は魔人の進行を僅かに妨げたに過ぎない。ここまで来られたら最早自分と魔人の間に障壁は存在しない。ただ一つを除いては。
――自分が死んだら……。
この国にも魔王軍が押し寄せてくるだろう。眼をゆっくりと開けると、昇降機の籠の床を触手が貫いた。その穴からゆっくりと青白い手が伸びて床を掴んだ。その顔が露わになった瞬間、触手が動き、ニコロを掴もうと迫る。
金色の魔力の火花が散り、触手を弾いた。
「結界は術者自身も守るか……厄介だのう」
「誰だお前は――」
「私、私か? この国の新たな主だよ」
結界に触手が喰い込んだ。身体にまでは届かないものの、ニコロは驚愕に目を瞠った。並の魔人であれば、触れただけで消滅していてもおかしくはない。
――なんなんだこいつは。
その疑問に対する答えは一つだ。この魔人は普通ではない。
魔王直属の部下か、もしくは個の名を持つ程の格ある魔人か。いずれにせよニコロ一人で太刀打ちできる相手ではなさそうだ。魔人は天井に嵌めこまれている魔光鉱石を見てほくそ笑んだ。
触手がぱっくりと開き、醜悪な花が咲いた。吐き捨てるような粘りのある音と共に、毒液が噴き出した。魔光鉱石に向けてではなく、その周囲の天井に。ジュっという燃え上がるような音と共に魔光鉱石の周囲が溶け落ちた。黄金の魔力を纏った宝石が音を立てて床に落ちた。
国を覆っている結界が点滅して消えるのをニコロは感じた。魔法陣で高められた魔力はニコロ自身を守り続けている。だが、それ以外は何も守ってくれない。
「これで、この国は丸裸も同然だな……? いや、そもそもこんな国、護るだけの価値等元々なかったのではないか?」
「……そんなことはない!」
この国を守っているのは結界だけではない。テンプルナイツを始め多くの兵がこの地を守っている。それに今はヘレンとその仲間もこの地にいる。
「可哀想に……現実を直視出来ぬというのは哀れだな。どれ、その目に焼き付けてやろうか」
ニコロは身構えた。この魔人の力では結界は破れない。そう自分に言い聞かせるが、悪寒が止まらなかった。魔人が床に転がった魔光鉱石に触手を伸ばす。魔人の放つ闇に黄金の輝きは陰りを見せた。
「この国の終わりを。お前が愛する仲間と……姉の死に様を」
魔光鉱石が呑み込まれ、魔人の触手が肥大化する。触手がニコロの眼前で花開き、彼を結界丸ごと呑み込んだ。
「あぁ……早速来たぞ、この国の新たな主に捧ぐ贄がな」
結界は未だに展開されているものの、頭上から止め処なく滴り落ちる毒液が結界に当たる度に蛇の鳴き声のような音を発しながら煙を上げ、光が徐々に弱まっていく。誰がここに来たのか、その存在を誰よりも強くニコロは感じた。魔人に聞かされるまでもない。
「駄目だっ、姉さん……早く逃げて」
その声はたとえ届いたとしても拒否されただろう。姉は――レナッタ・クストーデはそういう人だ。
この世界に星の導きと共に転生し、新たな命となって生まれるよりも前、前世については最早曖昧でどんな世界にいたのかすらもあまり記憶には残っていない。
それでも、前の世界が今よりもずっと凄惨な場所だったという事と、姉が常に寄り添ってくれていたということだけ覚えていた。死のその瞬間まで一緒だったという事も。
この国に代々受け継がれてきた、双星の御子の伝説。その使命に姉が鎖で繋がれることをニコロは心苦しく思っていた。姉には自由に生きていて欲しかった。
その為なら自分がどうなろうと良かった。魔光鉱石のおかげで、結界の展開に双子のどちらか片方だけで事足りるようになった時、ニコロはその使命を全て自分で請け負うつもりでいた。
だが、レナッタは弟を犠牲にして手に入れた自由等いらないと言った。
『私達は生まれる前からずっと姉弟なのよ。大変な事も嬉しい事も分かち合うの――えっと、ニコロが嫌じゃなかったらだけどね?』
結局、結界を四六時中動かしたい議員や民の意向もあり、双星の御子の使命に変わりは無かった。むしろ交代制になってしまったことで、姉と一緒にいられる時間は激減してしまった。
――僕達兄弟に犠牲ばかり強いるこんな国を護る価値はあるのか?
そんな思いが一度でも過ぎらなかったかと言えば嘘になる。この世界もまた不条理だと憤った事は何度もある。そんな時に出会ったのが勇者一行――そしてヘレン・ワーグナーとの出会いだ。
『ニコロもレナッタもとても大変なお仕事してるんだね……』
ヘレンが発したその言葉を最初、ニコロは上辺だけの物と受け取っていた。だが、彼女は続けてこう宣言した。
『でも大丈夫、私達が魔王を討伐する。そうすれば――きっと二人は今より自由に生きることができるはずだから』
魔王タナトスに敗れた後、ヘレンが打ちひしがれているのを見た時は、心が痛んだ。彼女は自分達姉弟の力になれなかったと、無責任な事を言ってしまったと謝ってきた。
きっと何を言ってもあの時の彼女には響かなかい――そう思ってニコロは黙っていたが、レナッタはただ彼女を抱きしめ「あなたが気に病むことなんて何もない。私達姉弟の力になろうとしてくれてありがとう――次に会う時は絶対謝らないで? もっと楽しい話をしましょ?」
そして、ヘレン・ワーグナーは再び立ち上がり、この地を訪れた。
――そうだ、まだ諦めちゃ駄目だ。
ニコロの結界は魔人の腹の中で輝きを取り戻した。その光は命を守る光。
まだ絶望するには早い。




