Ⅺ 狂気の朝
――どこかで甲高い悲鳴が上がった。断続的な水音がそれに続く。
昨日イズルを案内した評議界議員、ガブリエーレの部屋は、ポルックス大聖堂のすぐ傍にある煌びやかとは言えないが、威厳に満ちた豪邸の中にある。四方は真っ白な石灰の壁で囲まれており、それが円柱状に天井に伸びている。
薄っすらと上がる朝陽が屋敷を照らし出していた。
その部屋は常に清潔に保たれていた。敷物は日ごとに変えられ、調度品には埃一つない。他の評議界議員達がより世俗的で豪奢な装飾の施されているのと違い、派手さはないものの、高位の議員としての誇りが見て取れた。
今、部屋の壁には真っ赤な血が、断続的な一直線に付着していた。周囲があまりに整えられていることもあって、まるで最初からそういう塗装であったかのようだ。
床には剣と鞘が置かれていた。たった今、数秒前に使われ、用済みとなったようで、雑に投げ捨てられていた。
その剣は深々と何者かを貫いたようで、全身にべっとりと血が付いていた。その血は犠牲者へと続く道となっている。
椅子に座るはガブリエーレ・ミネルヴァその人だ。項垂れるように座り込んだ彼の腹から流れる血は床に転がる剣へと繋がっていた。
その前でセレーネ・ヒュペリオンは固まっていた。目の前の光景に固まり、ありとあらゆる記憶がぐちゃぐちゃになって襲い掛かってきていた。
――父と母の剣が、形見が守るべき人間の血に塗れて、塵のように床へ投げ捨てられている。
屋敷のどこかで悲鳴が上がる。セレーネの動悸は高まった。
――この剣はきっと呪われた武器として最終的には処分されてしまうだろう。
ガブリエーレの犯人に繋がるかもしれない証拠でもある。だが、セレーネにとっては、両親と繋がる唯一の形見だ。そのせいで彼女の天秤は狂ってしまった。
普段セレーネが取る筈もない行動を彼女に取らせてしまった。
彼女は血に塗れた剣を取る。固まった血を無理やり引きはがした。血に汚れたその刃に自身の顔が反射する。後ろで固まっていた給仕の女は振り向いたセレーネを見て腰を抜かした。セレーネは何か言葉を掛ける余裕もなく、その横を走り抜ける。
彼女は剣を抱えたまま、屋敷を飛び出した。
――もう、ここにはいられない。
光の当たる街を走り抜け、影の中へとその姿は消えて行った。
早朝、朝陽が顔を覗かせる頃、乱暴なノックでイズルは目を覚ました。イズル一行はジェミニ評議界が用意してくれた大聖堂の部屋を二室借り受けていた。ルーカが要らぬ気を利かせて一室に三人を泊まらせようとしてくれたのをイズルは丁重にお断りした。
二人は大切な仲間であり、そういう目で二人を見たくはないとイズルは思っていた。この点に関しては、たとえ相手が外交相手――慎重なコミュニケーションが求められる相手であろうと曲げるつもりはなかった。
「イズル様!? 今すぐ起きて頂けますか!?」
部屋に響いたノックの主は相当切羽詰まっているのか、その呼びかけは悲鳴に近い。寝巻から着替える間もなく、ドアを開ける。部屋の外にいたのは給仕の男で、この国の滞在の間、イズル達の世話をしてくれている。隣ではメイドがヘレン達のいる部屋をノックしていた。
「あぁ、イズル様――お連れ様を起こそうとしたのですが、起きなくて――」
「……あの二人は寝起きが酷くて。特にヘレンはどれだけ騒いでも起きないと思います」
イズルもまだ若干寝惚けている。この二人がなぜこんなに焦っているのか、アリエス王国の使者である自分はともかく、その連れまで必死に起こそうとなっているのは何故なのか、疑問に思わなかった。
「い、いえ、ですが、今朝大変な事が起きまして」
「と、とにかく全員起こしませんと」
給仕のただならぬ様子に、イズルの表情が険しくなる。部屋は特に鍵が掛かっているわけではない。給仕の者達は賓客であるイズル達に気を遣ってドアを開けないでくれていたに過ぎないのだろう。恐らく緊急事態である筈だが、そこだけは妙に律儀なのは彼ら自身も気が動転しているからか。
イズルは躊躇いなく部屋のドアを開け、中にいるであろう二人を容赦なく起こそうとした。
「二人とも起きるんだ――……!?」
まず、エフィルミアはベッドから転がり落ちていた。本人は気づいていないのか未だに気持ちよさそうに眠っている。
ヘレンはベッドの上で毛布にくるまっていた。冬眠中の熊みたいだ。
そしてヘレンの隣には少女が寄り添うように眠っていた。プラチナブロンズの髪、真っ白な肌の少女は静かに寝息を立てている。
「誰っ!?」
イズルは思わず叫んだ。
「ふぇっ、もう朝ご飯?」
「あともうちょっ……お昼まで……」
エフィルミアが寝惚け眼で答える。ヘレンに至ってはもう殆ど寝言だった。呑気なもので、血相を変えて駆け込んできた給仕との温度差が酷かった。給仕の二人はヘレンやエフィルミアではなく、少女を見て安堵した。
「れ、レナッタ様っ、こんなところにいらっしゃったのですね!」
「ベッドがもぬけの殻だった時は心臓が止まるかと!!」
レナッターーその名は聞いている。確か双星の御子の片割だ。ヘレンとも面識があるとも。そこでようやく合点が行く。肩の力が抜ける思いだった。周囲の騒然さにレナッタは目を覚ました。二人はこの騒ぎの中でまだ寝ている。
「うーん、あら? まだ寝てるのね、ヘレンー―あ、あら?」
「レナッタ様?」
給仕の二人が凄まじい形相でレナッタの両側に付いた。レナッタは困った表情で――だが、屈託のない笑顔を浮かべてイズルの方を見た。
「あなたね! ヘレンの新しいお友達!」
「どうも、イズル・ヴォルゴールと申します。初めまして、えっと――レナッタ様とお見受けしましたが」
「レナッタでいいわ! お願い、私ヘレンと話がしたいの。一緒にいてもいいかしら?」
こっちに助けを求めないでくれ――と、イズルは内心で困り果てた。給仕二人は「頼むからこのじゃじゃ馬娘を連れ帰らせてくれ」と、顔で訴えかけてくる。だが、ヘレンは恐らくレナッタの顔を見たがるだろう。
「その――、一緒に朝食を取るというのはどうでしょうか。ヘレンは今起こしますの、で!」
「むげげっ!!」
ヘレンの頬が限界まで引っ張られてようやく起きた。今のところ、寝坊助娘にはこれが一番効果的なのだ。ひとつ難点があるとすれば、ヘレンの機嫌がしばらく悪くなることくらいだが。
「ヘレン、起きたのね!」
「んぐっ、レナッタ……久しぶり」
レナッタに抱きしめられヘレンは柔らかな笑みを浮かべた。
――良かった、今日は機嫌良く起きてくれそうだ。
イズルはホッと胸をなでおろしつつ、二人がどんな経緯でここまで仲が良くなったのか、気になった。朝食の時にでも話題にしよう。
そんなことを思った時だった。大聖堂の外に続く扉が勢いよく開く音がした。イズル達が泊まっていた部屋から見て螺旋階段の下にある広間にずかずかと大勢人が入ってくる音がした。
「ヴォルゴール殿!」
声を張り上げたのは、コルラード・エンディミオン。セレーネの師匠であり、武人然とした長身の男だ。頭の後ろで一纏めにされた長いブロンズの髪を乱しながら階段を上ってくる。
最初に会った時の冷静さが今日は欠けているように見えた。
「良かった、ご無事でしたか」
「コルラードさん――レナッタ様がベッドを抜け出した件ならもう解決して――」
と、イズルが給仕を見るが、二人ともぶんぶんと首を横に振っている。レナッタの捜索の為に騎士団を呼んだわけではなさそうだ。コルラードは恐らくここで何が起きたか分かっていないのだろうが、そんなことを気にする余裕もない様子で口を開いた。
「……今朝、ガブリエーレ様が殺されました。犯人と思しき人物は今も捕まっておりません」
「なんだって――?」
場の空気が一気に凍り付く。ガブリエーレはこの国を案内してくれた男で、特に親しいわけでもないが、それでも昨日、会話していた人物が突然の死を迎えた事はイズルにとってショックであった。しかも殺されたとは。
「犯人と思しき――ということは容疑者がいるんですね」
「……えぇ」
コルラードは冷静さを保とうとしているが、その言葉は歯切れが悪い。武人としてモンスターと戦っていた時の迷いの無さが今は無かった。イズルは嫌な予感がした。
「……私も俄かには信じられないのですが。現場にいた者達はセレーネが殺したと言うのです」