Ⅰ 見えざる代償と信頼
ベオーク高原を超えたその先、広がる荒野。
その先に巨大な石の壁が見えた。巨大な魔物の攻撃を正面から受け止めてもびくともしなさそうな印象を与える頑強な守りの壁。しかし、ここを最初に見た者の多くはその頑強な壁にまで目が行かない。
雲を突き抜けるような巨大な球状の結界の光。その偉観をようやく目に捉えつつ、イズル・ヴォルゴールは練り上げた魔力を放つ。癖のある茶色の髪、アメジストのような輝きを持つ瞳に、紅いコートの青年で、その手には神材の戦鎚《狂気の涓滴》が握られている。聖杯のような銀色の器、それを満たすように嵌る赤色の結晶が光り輝く。
星天の神霊から力を得る神聖術――滅する光が幾つも空に上がり、周囲に展開していた魔物を貫いて焼き尽くした。
人間を軽々呑み込めそうな程の巨大なヒルのような魔物、それに小鬼の群れがイズル達を取り囲んでいる。ジェミニ評議界共和国までは順調に行けば日暮れまでには辿り着ける筈だった。幾重にも取り囲んでくるそれらは魔王軍の斥候だろうか。
魔王軍は人間が率いる軍と違い、無秩序に攻め込んでくる。あるのは人間を始めとする魔物外の生命体に対する絶対的な敵意。魔王軍は高位の魔人や魔物の元に多種多勢で行動することが多い。そうでない場合の魔物の殆どは同種で群れを作るか、単独で行動する。
イズル達を阻む彼らは全く別種の魔物の群れであり、それらが連携攻撃してきていることから、魔王軍ではないかと推測できた。どこか遠くに彼らをけしかけた魔人なり魔物なりがいるはずだが、ここに自ら出てくる程、馬鹿でもないだろう。
イズルはアストレア村の時の戦を思い起こす。戦の序盤、魔物の群れが森を覆い尽くしていたが、それを指揮しているであろう者を見つけることはできなかった。
(ジェミニはすぐ傍だ。親玉が姿を現すことはないだろう)
と、そこまで考えるイズルの右隣で若緑色の髪を持つ少女がその身の丈と同じ程の得物を振るう。この世界では珍しい白い上着、黒のインナー、真っ赤なスカートを翻している。
ヘレンが言葉も無く、大斧を振るい、突撃してきたゴブリンの首が3つ血飛沫と共に飛んだ。
「ひぃいいっ!!」
エルフの少女の悲鳴が左隣で上がる。エルフの国出身である彼女は草木の香りのする皮のローブとマントルを身に纏い、その可憐な姿に似つかわしくない武骨なガントレットが両手に装着されていた。桃色の長く透明感のある髪がばさばさと慌ただしく揺れている。
エフィルミアが飛び掛かってきたヒルを拳で殴り潰していた。もうこれで何度目かの魔物との遭遇だが、戦いに慣れるのはまだまだ先のようだ。
「ヘレン、後方右からヒル1体、左からゴブリン2体――」
イズルが指示を出すと、ヘレンは瞬時に反応する。左手で背中にある2対の戦斧を抜いて投げつける。戦斧はそれぞれ別々の軌道を描いてヒルを両断し、ゴブリンの腹を切り裂いた。
「すぴぃ」
殺意の高い行動に反して、彼女は寝ていた。相手を舐めて掛かってるわけでは決してない。魔王タナトスに掛けられた『永遠に解けることのない生きたまま眠り続ける呪い』によるものだ。
その呪いはかつての仲間によって解呪が試みられ、奇跡的に目覚めることだけはできたものの、常に眠気に襲われ、本人の意思と関係なく時折完全に眠ってしまう。それが自分の命に危機が迫る時であろうと、だ。
しかし、彼女はその緩そうな印象に反して諦めが悪かった。気配だけで敵を見分け、眠ったままでも本能だけで身体が反応できる技を、修行によって習得した。
こうして見ると冗談みたいな信じがたい技術なのが、イズルはもう見慣れていた――のだが。
「あ、あの、ヘレンちゃん、大丈夫……?」
エフィルミアが戦いの最中だというのに、心配そうにヘレンの顔を覗き込む。これは単に彼女がヘレンの戦い方を見慣れていないからというだけではない。
先日までいたエルフの国――そこの氏族王の一人、スールディルの手でヘレンに掛けられた『呪い』は隈なく調べられた。
――調べるって話になった時はどうなるかと思ったけど。
長大な寿命を持つエルフのことだ、呪いを調べるだけで何年も拘束されるのではないか。そもそも、あまり信頼のおけない相手に、ヘレンを任せるのはイズルにとっては気が気ではないことだった。だが、イズル達と妙な縁で出会ったダークエルフのサリが間に入り、短い時間でヘレンは解放された。
(そもそも、スールディルは元からヘレンを長時間拘束するつもりはなかったかもしれないが)
調査はヘレンが呪いの効果で寝ている間に行われた。特段変わったことをしたわけではない。スールディルは彼女の頭と自分の頭を合わせ、呪いの深度とその効果について知ることとなる。
そして分かった事というのは、ヘレンに掛けれれタ呪いは魂に刻み込まれた物であり、解呪は絶望的だとのことだった。ここまでヘレンが動けているのが奇跡的だとも。だが、そこまでは今まででも分かりきっていたことだった。
――呪いというのはね、掛けた本人の意思の強さが直結する。魔王ともなれば、それはもう意思というより、執念? 運命すら捻じ曲げる強固な……ともかくまぁ、意思と呼ぶにはあまりに残忍な思いから生まれた怨嗟だろう。
ヘレンがここまで抗えていることは、奇跡的であり不可解でもあると、スールディルは言う。
――魔王が掛けた呪いが修行したくらいで抵抗できると思うのかい? きっと何かからくりがある。それが分からないまま、戦い続けるのは……おすすめしないね。
あのままエルフの国に残れば、呪いの正体も分かったかもしれないなと、イズルはちらっとそんな思いがよぎる。だが、ヘレンはそんなことは望まないだろう。
――取り返しがつかないことになる前に止めとくべきだ。
スールディルの言葉が脳裏に何度も木霊し響く。ヘレンにはスールディルから聞いた事を全て話したが、彼女の意志は思った通り揺るがなかった。
「私はもう諦めたくはないから」
ヘレンは一言、そう言っただけだった。呪いを受け、勇者一行から離れたことは彼女にとって大きな挫折だったのだろう。そこからまた彼女は這い上がってきた。新たな仲間や友達に力を貸して貰って。
魔王を倒すまで彼女が止まることは無いだろう。
(俺に出来るのは取り返しがつかないことにならないように見守るくらいか)
その時はそう決意した。だが、この規模の魔物を相手にもうかなりの時間を戦っている。ジェミニ評議界共和国に近づけば近づく程、交戦の頻度は多くなっている。眠ったままの戦闘もかなり長くなっている。
「ヘレン、もういい! 後は俺とエフィで――」
大斧を大地に突き刺し、弧を描いて戻ってきた戦斧を掴む。左右から襲い来るゴブリンの両腕が吹き飛んだ。それが鞘に収まる頃には、ヘレンは大斧を再び抜いており、刃の嵐と化した。
より激しく戦うヘレンに、イズルは危機感を覚える。
「ヘレンちゃん!? あぁ、もう出し惜しみしてる場合じゃないですね!」
エフィルミアがガントレットの魔光鉱石を起動したその時だった。ヘレンがぴたりと止まり、城塞の方を向く。イズルも気が付いた。何かが地響きを立てながら迫っている。
(新たな魔物か?)
身構えるイズルだったが、それは魔物ではなかった。丘の向こうから迫るは――。
「え、お城が動いてる……?」
エフィルミアがぽつりとつぶやいた。そう思うのも無理はない。それは城塞と全く同じ素材で出来た”巨人”だった。人間を優に超える巨体の群れ。遠近感が狂いそうな感覚に襲われていると、それはあっという間に目の前まで迫った。その姿をイズルは魔導書の中で見た事があった。
――魔導式自立人形
そのうちの一体の肩に二人の人間が乗っている。一人は本人の足元程まで伸びた長い栗色の髪の背の低い少女のように見えた――これが単に巨人の大きさのせいでそう見えているのかは判別しづらい。鼻の上には丸い眼鏡、長い袖と丈のローブに、真っ白なマントルを羽織っており、戦士というよりも学者のような印象を受ける。
もう一人は対照的で武人と言えるような見た目の男だった。ブロンズの長い髪を頭の後ろで結んで流しており、長身でがっしりとした体系だが、ぴんと伸びた背筋に、皴一つ無い真っ白なマントル、金色の刺繍で交差する二振りの剣が胸に描かれたえんじ色のチュニック、その下のブレーもぴったりと着こなしており、痩躯な印象を与える。
その手に握られているのは、片刃のブレード(刃)を長いシャフト(柄)にはめ込む形式で作られた『グレイヴ』と呼ばれる物で、ヘレンが持つ大斧と同じ種類の武器――長柄武器である。
「全くつい最近定期掃討を終えたばかりだと言うのに、後を付けられたな?」
少女はその見た目の可憐さからは想像もつかないような気だるげな視線と、鬱屈した声をイズル達へと向けた。ゴーレムはその巨体さから想像に容易い攻撃を行う。即ち――巨大な手足で魔物達を蹂躙し始めたのだ。
少女の傍らにいた武人はゴーレムから飛び降り、互いをカバーしあうイズル達の前に出た。
「はぁあああっ!!」
武人が一声発し上段に構えると、グレイヴから武威あらたかな気が生じる。刃から発した極光が天目掛けて立ち上っているかのように、イズルには見えた。そしてそれは彼にだけに見えているわけではないようで、エフィルミアも隣で圧倒されるように空を見上げていた。
以前アストレア村の戦いでコレットが見せた神聖術と同じ系統の技だろうか。魔物達が恐れを為して逃走を開始するも既に遅い。
巨大な魔力が空に煌めく刃を形成し、振り下される。
その刃が直撃した魔物は、塵芥一つ遺さず、消滅した。生じた衝撃波がゴブリンの小さな身体を空へと吹き飛ばす。ヘレンはその機を逃さず、跳躍していた。身体を軸に大斧を振るうとそれは断頭台の刃と化して、小鬼の首がたちまち胴体と泣き別れし、空彼方へと吹き飛ばされる。返り血がヘレンの白い肌にぶち撒けられた。
だが、一匹仕留めそこなう。空中でそのゴブリンは必死に体勢を整えて、ヘレンにどうにか一撃を加えようと棍棒を振り上げる。
が、それが彼女に届くことは無かった。イズルが放った光がゴブリンから得物を吹き飛ばし、続いてその小さな腹を分厚い刃が貫く。ゴブリンの身体は一瞬にして灰燼へと帰した。
「腕が落ちたな、ヘレン・ワーグナー?」
武人がゴブリンの遺灰の付いた刃を振って払い、ヘレンにそう尋ねる。彼女の名を知っていることに、イズルは一瞬驚いた。だが、不思議なことではないだろう。彼女は前にもこちらに着た事があると言っていたではないか。
「……その落ちた分、より仲間を信頼することにしたからー」
ヘレン・ワーグナーはそう言って目を覚ました。その瞳に映るのはイズルとエフィルミアの二人。だが、イズルは自分にその信頼に足るだけの自信が持てなくなっていた。
――俺はヘレンをこれから先も護り続けることができるだろうか……?
だが、ヘレンは一向に気にしている様子は無く、武人へと振り返った。
「あ……、勿論、あなたたちの事も含めて信頼してるからー、ね?」
ヘレンの言葉に「光栄だ」と、短く武人は返し、ゴーレムの肩の上から少女も「どうも」と、返した。そして武人は、今初めて会ったかのように、イズルへ会釈する。
「申し遅れた。我らはテンプルナイツーーイズル・ヴォルゴール殿、あなたをジェミニ評議界共和国よりお迎えに上がりました」




