プロローグーーこの程度、苦難ですらない
周囲に潜む影の群れ――、数は5,6,7――7匹。
生きとし生ける者の魂を、宵闇に染め上げ、喰らい、冥界へと誘う魔物が、今まさに襲い掛からんとしていた。
無辜の民にとってはまさに地獄のような光景、訓練を受けた兵士達は生きるか死ぬかの決死の覚悟を決める。けれど、彼女にとっては――。
ジェミニ評議界共和国に属するテンプルナイツ特有の真っ白なマントルに、金色の刺繍で交差する二振りの剣が胸に描かれたグレーのローブ、その下にはブレーを履いている。
フードの中からは栗色にオレンジの混ざった髪が覗く。端正できりっとした顔立ちは少年のようにも見える。だが、その隠された闘気の中にどこか柔和な雰囲気があり、細やかな仕草から少女らしさが垣間見える。
その日、少女――セレーネは夜遅くに町の宿を出るつもりでいた。誰にも気づかれずに。
「夜歩きとは感心しないな」
――誰にも気づかれずに行くつもりだった。
セレーネは真横にいた青年に視線だけ向ける。動きやすそうな暗めの色のブリオーとブレー、首の紫色のマフラー、エンボス加工した皮ひもで一つに纏められた黒い髪が目を引く。彼の名はエミリオ・アマト。とても頼りになる道案内人だった。
魔王軍の侵攻を受け首都を落とされたというキャンサー帝国、皇帝等の重鎮は方々に散ったが、かの国には未だ多くの民が残っていた。
彼らの救援に向かったジェミニ評議界共和国の援軍――その中にはセレーネの兄もいる――は数日前から定期連絡が無くなっていた。
それらの現状を調査するのが彼女に与えられた任務であり、不慣れな旅路をエミリオは支えてくれた。魔物や魔人の支配する地域をを避けてキャンサー帝国へと達することができたのは、彼のおかげだった。
状況は聞いていた以上に最悪だったが、希望もあった。
得た情報を一刻も早く本国に届けなければならない。こんなところで休んでいる暇はない。
「アマト殿……今出立すれば日出づるまでには着く。キャンサー帝国は沈みゆく城塞で未だ光を求めてもがいている。この地で悠久の時を過ごすわけにはいかない」
「あー……、その詩的な表現は訳すとこうか? 今行けば朝には間に合う。城塞都市に籠っている帝国の生き残りの為にもここでぐずぐずしているわけにはいかない――って?」
「そうとも言う」
なら、最初からそう言え、とエミリオが呆れながら頭に手をやる。それから彼は、一旦落ち着くようにと、セレーネに語り掛ける。セレーネが立ち止まらずに出て行こうとするので、彼も速足でその後ろに付いて行く。
「もう三日も殆ど休憩無しに走りっぱなしだ。あんたは自分では気づいてないかもしれんが、体力的にも限界が来てるはずだ。一旦休んだ方がいい」
「帝国の民に比べれば、私の疲労等、微々たるものよ。それに、“私は大丈夫”」
三日三晩走り続けたのは確かにそうだ。エミリオにはここまで無理を強いた。ここが限界だろうと思った。だから、この先は自分だけで行こうとしたのだ。
「やれやれ、身体も規格外なのかねぇ――勇者の血筋というのは」
おどろおどろしい咆哮が聞こえたのは、その時だった。喉の奥から絞り出した悲鳴のような咆哮。それは、獣でも、人でもない。異形の怪物がそれらを真似て叫んでいるかのような不快さ。
村の至る所で人々が恐怖の声を上げ、鐘が鳴る。戦える者は武器を手にする。だが、それを振るうことは無いだろう。
セレーネはマントルを後ろに払いのける。その腰にあるのは一振りの鞘に収まった剣。分厚く幅広い刃を柄にはめ込む形式の片刃剣だ。
目にも留まらぬ速さでそれを引き抜き、一回転させ、片刃を上向きにして、切っ先を闇に向ける。その横でエミリオは「寝不足なんだがな」と、グローブを両手に嵌めこんでいった。
「なぁ、こいつら倒したら、いい加減休もうぜ。出発は日が出てからでもいいだろ?」
「あなたがそこまで言うなら……だけど」
周囲に潜む影の群れ――、数は5,6,7――7匹。
生きとし生ける者の魂を、宵闇に染め上げ、喰らい、冥界へと誘う魔物が、今まさに襲い掛からんとしていた。
無辜の民にとってはまさに地獄のような光景、訓練を受けた兵士達は生きるか死ぬか、決死の覚悟を決める。けれど、彼女にとっては――。
(こんなものは苦難ですらない)
何故なら。
「私はセレーネ・ヒュペリオン――勇者の末裔」




