一方その頃――
鬱蒼と茂る苔むしたレムノスの森。その奥深くにある木造りの家に男が一人。
名をアーサー・ワーグナーと言う。その昔、彼は流れ者の狩人としてこの地を訪れ、この地で女に惚れた。
一目惚れだった。それまで一つの場所に居つく事が無かった彼の放浪癖がパタリと止む程に惚れこんでしまった。最初はまともに相手にすらされなかった。だが、アーサーは根気よく彼女に気持ちを伝え続けた。そして、彼は彼女だけでなく、この地にも次第に愛着を持つようになった。
彼女に受け入れて貰った時、アーサーは感極まって男泣きしたものだ。だが、その時の彼は思いもよらなかった。知る由も無かった――彼女が。
「あーぁ……、また酒に溺れてる。昔のイケてた頃のアンタはどこ行ってしまったんだい?」
酔いから戻ってきたアーサーはその声を耳にした途端、飛び上がった。
柔らかな草葉のような髪、陽を浴びた雪のような肌。黒いチュニック、その上から羽織ったコートに幾つも巻かれたベルトは、冒険家然としているようで、真っ赤なスカートが女性らしさをも強調する。
アーサーの妻、名をゾーイという。『命』を意味するその名の通り、活気に満ちた女性だった。対する夫たる彼は、ぼさぼさの茶髪、気怠げで妙に締まらない顔だが、緑のチュニックとローブを纏い、引き締まった体は、普段から想像もつかないような機敏さで獲物を仕留める。
「あの寝坊助娘が懲りずに魔王追いかけだしてからよ。毎日毎日気が気じゃねぇよ」
「お酒……、程々にしときなって言われたんだろ?」
呑まなきゃやってられねぇよと、アーサーはテーブルに再度突っ伏した。娘がいなくなって唯一、良かったことと言えば、“妻と気兼ねなく会える”事くらいなものだろう。
「あいつは何一つ知らねぇ。お前の家の事、この森に何が眠っているかも――」
「『森に棲む者』コウリス家の清算は私の代で終わらせる。あの子は何も知らなくていい――そう何度も話し合ったろ?」
「そう、こういう未来を見据えて……結婚した時にその名を捨て去ったんだったな、お前は」
「私は、両親がその“清算”に縛られて苦しんでいるのを見てきた――どうしたって考えちまうのさ」
しばしの沈黙が流れてから、ゾーイは立ち上がった。
「もう行くのかい?」
「あたしらは、仲別れした夫婦ってことになってるんだから一緒にいちゃまずい――少なくとも今の魔王が倒されるまでは。これもそういう話になってたろ?」
「あぁ、ま、そうだったかな」
知ったことかとばかりにアーサーは惚けて立ち上がると、ゾーイを抱き寄せて耳打ちする。
「俺は馬鹿だが、直感だけは誰よりも優れてる。あいつは――ヘレンは、いずれまた魔王と相見えるだろう。その時に全てを知ることになったら?」
「あんたは心配性だね」
くすっと笑い、その頬に軽く口づけてから、ゾーイは彼から離れた。
「祖先の墓参りに行ってくるよ。またね、あたしの旦那様」




