ⅩⅩ エフィルミアの道
「ハハハ……まさかこんなことになるとは思わなかった」
イズル・ヴォルゴールは殴り合いを始めたエルフ兄妹の二人を見て乾いた笑い声を零した。その笑みも引き攣っている。正直、レンウェがエフィルミアの兄であると最初に聞かされた時は似ても似つかない兄妹だという印象を抱いていた。レンウェが杖をかなぐり捨てるその瞬間までは。
ちらっとティリオンの方を見ると、彼は彫像のように固まっていた。眼前の光景に思考が追いついていないのか、それともこの決闘とも呼べないような喧嘩を、どう他のエルフに釈明すべきか、全力で考えている最中なのかもしれない。
「あらあら……子どもの喧嘩なんて一体何百年ぶりに見たかしら。ねぇ、ティリオン様」
ふと、アレゼルがそんな言葉を投げかけた。ティリオンは考えるのを諦めたように、ふうと溜息を吐き、額を手で抑えた。
「愚かな若輩共が」
初めて、ティリオンの中に人間性らしきものを見た気がした。それにアレゼルの言葉、これも冗談ではないだろう。エルフの国に来てここまで、一度も子どものエルフを見ていない。観客席は勿論のこと、ここに来るまでの間の街中でも、青年のエルフ――人間基準で言えば子どもと呼べなくもない見た目の者もいたが――ばかりだった。
「いいじゃないか」と言ったのはサリだ。彼女は心底この光景を楽しんでいるようで笑みが零れている。
「魔法の修練に何百年と掛けて、エルフ本来の奔放性が薄れていくよりかはさ」
それはどういうことかとイズルが聞きたかったが、勢いよく振り上げられたヘレンの拳が彼の頭にぶつかり、彼の疑問を叩き潰してしまう。
「いけー……そこだー……顎を強打だぁー……せんてひっしょー、ぶっとばせー」
絶対起きてるだろという声援……の寝言に、イズルは静かに、静かに怒りを込めて、その柔らかな頬を容赦なく捻り上げた。
「エルフがあんな風に怒るの、俺は初めて見ましたよ」
素直に驚いたことをイズルはサリに伝えると、彼女は苦笑しながら「うんまぁ、私も驚いてはいる」と答えた。
「やめへよー」「いひゃいー」「ぼうりょふはんはい」と涙目になりながらもまだ起きないヘレンには触れず、サリはイズルが何を聞きたいのかを察する。
「エルフってのは本来、自由奔放な性格なんだ。エフィルミア、それにレンウェも本来はそんな子どもだった。それを……魔法に関する才能だけを世界の全てあるように教え込んだのが、頭の固い氏族王の方々――違うか?」
サリが非難のこもった視線を向けるが、氏族王達がそれに動じる様子は当然無かった。言葉を返したのは、水の宝石、ネミルネス・ナイダ。
「彼らにはエルフの国の未来であり、氏族王の座を継ぎ、担う存在。それがアグラディア家に生まれた者の使命」
「未来の氏族王の担い手――ねぇ」
その未来の担い手は、殴り合いを続けている。というよりも、エフィルミアがレンウェを殆ど一方的に殴っていて、レンウェは一発もエフィルミアに当てられてはいないのだが。
エルフは不老にして長大な寿命を持つ。それ故に子孫を残すという本能は薄いのだろう。子育て慣れした大人がいないのだ。氏族王は一番若いスールディルでさえ千年は生きている。これまで国の長が殆ど変わることが無かったのだとすれば、価値観や考え方の変容も緩慢だったことだろう。
「本当にそう思うなら、あいつらの考えを――この国に齎される変化に目を背け、無かったことにしてんじゃないよ」
エフィルミアの拳が顎を捉える。レンウェは兄としての矜持故か、ふらつきながらも立ち続けて、拳を構えた。その不屈の精神は驚愕に値する。同時に、彼もまたエフィルミアの兄なのだとイズルは確信する。伸ばしきったヘレンの頬がイズルの手から離れ、バチン!といい音が鳴った。
「うぅっ――あれ、勝負終わった……?」
目の前の光景を見てヘレンは何が起きているか分からないというように目を瞠る。
「えっと――最後は拳で決着を付ける事にしたの?」
「その反応、一歩遅いなぁ……」
エフィルミア渾身の拳がレンウェを宙へと飛ばした。跳躍したエフィルミアはトドメとばかりに背中に肘撃ちを背中に打ち込んだ。
過剰攻撃、レンウェが水底に叩き付けられるのを見て、流石にイズルも気の毒に思った。
(あれ、ちゃんと生きてるよね? 勢い余って殺しちゃってないよね?)
兄の体が水底に叩き付けられ、やっとエフィルミアは正気に戻った。今までに感じた事のない怒り――まるで頭に血が全部昇ってしまったかのような感覚。兄弟喧嘩など、今までしたことが無かった。あらゆる争いごとが魔法の決闘で解決されてきたこの国において、拳の殴り合い等もってのほか。恐る恐る周囲を見ると、やはりエルフの観客達は皆戸惑い、中には怒りの声を上げるものすらいた。
だが、イズルとヘレン、それにサリだけは違った。ヘレンは無表情ながら大きく手を上げて賞賛し、イズルも笑みを浮かべている。視線の合ったサリが頷く。
――よくやった。
そんな声が聞こえてくるようだった。
「そこまでだ」
解かれた結界、闘技場の中にティリオンの声が響く。高まった高揚感は冷め、凍り付いたように何も考えられなくなる。これまで面と向かって、あるいは暗にエフィルミアの魔法の才能の無さを指摘され続け、何度も何度も自分の力を示す機会を与えられ、そしてその全てで失敗してきた。
これまで自分は才能の無い役立たずだと信じてきた。自分が魔法を使えないことは動かしがたい事実である、と。それでも諦めが付かずに、魔法陣やルーン文字を覚え、それでも魔法が使えず、別の才能があることが嬉しくて。
なにをしようと、この父親が自分を認めることは決してなかった。
ティリオンが倒れているレンウェの胸に手を置くと、仄かな光が兄の身体に駆け巡る。
「ごほっ、あいつ、俺はまだ負けてなっ」
「レンウェ、お前の負けだ」
素早く立ち上がろうとしたレンウェの肩に手を置き、ティリオンが告げる。その宣言に他の誰よりも驚いたのは、勝者であるエフィルミアだった。確かに戦いには勝利した。けれども、魔法を使っていたのは最初だけで、最後は拳同士の殴り合いに発展したのだ。どちらが勝ったかなど、到底判定の下せるような決闘ではなかったように見える。
「何故です!? あんなもの魔法なんて呼べるものではなかった!!」
当然のように食って掛かるレンウェに、ティリオンは冷たい目を向ける。
「先に魔法を、杖を捨てたのはお前の方だ」
「なっ、先に殴ってきたのは彼方で……」
そういえば、とエフィルミアはレンウェが「キレた」時のことを思い出す。だが、それで言えばエフィルミアも魔法を使わずに殴り掛かってしまったのだが、同様のように思えるが。
「それだけではない。なんだあの稚拙な氷像は……。精度が荒い……それに使役時の動きの鈍重さ。賞賛すべきはその見た目の派手さだけだ。虚勢を張った挙句、魔力の劣る筈の魔光鉱石の武器に力負けする。あのまま戦っても恥を上塗りするだけだっただろう」
もはや反論の余地もなくなったレンウェが項垂れるのを背に、ティリオンはエフィルミアの手を取った。反射的に飛び退りそうになるが、父に触られると身体が震えて動けなくなる。
「少量の魔力で最大限の火力を得るべく、魔法陣から無駄な仕組みを削ぎ落したか。刻まれたルーンは『ケナズ』、熱の源、火」
「あ、暗黒を照らす焚火。太古の昔から人々に温もりと希望を与えてきた光、その歴史を知って、自分の魔法陣には絶対加えたいと思ったんです……」
目を合わせられず、エフィルミアは視線を逸らした。ティリオンはエフィルミアの手からガントレットを取り上げると、杖で一叩き。ガントレットは時が巻き戻るかのように部品が外れて宙に浮きあがっていく。
ティリオンは魔法を用いて分解し、魔光鉱石を取り出した。
「あの程度の戦闘でもまだ魔力を保っている……成程、これは研究のしがいがある」
「えっと……それじゃあ」
「ヴォルゴール殿の話を聞く価値はある。私はそう判断した」