Ⅸ 妖精、その姿に惑わされることなかれ
白樺の木々に囲まれた一面は、薄く白い霧に包まれ、世界は色を失われたかのように見えた。その中で金色の粒子が蛍のように輝いていた。死後の世界とはこんなものなのだろうかとイズルは思った。
ヘレンが忽然と消えた。いや、この場合、忽然と消えたのは自分の方なのかもしれない。さっきいた場所とまるで違う。ここはあまりに現実離れしている。
(本当にあの世なのかもしれない)
だが、そう断定するのは早い。食料等が入った荷物は落としてしまったようだが、幸いにして神材の戦鎚《狂気の涓滴》は手に持ったままだ――これだけが手元に残ったという事実はどうにも作為的にも感じるのだが。
戦槌に魔力を込めると天辺のルビーに僅かながら光が灯る。イズルの魔力を消費して使える光だ。魔法の知識に乏しい人々はよく「魔法が使えるなら、それで全て解決すればいい」と言う。
例えば夜の灯りは、炎魔法を使えば楽そうに感じるだろう。だが、魔法は力加減、制御こそが最も難しいとされる。それに一度に使える魔力は使用者の体力を大きく削る為、無限に使える物でもない。その為、炎魔法を使える者でも、日常的な火を起こす際には火打石を使う事が多い。
魔光鉱石を用いれば調整された魔力を注いで、日用品として活かす事も出来るのだが、そもそも魔光鉱石そのものが貴重で、おいそれと使える物ではない。
神聖術の魔法も魔力を消費することに変わりはない。だが、今は生きるか死ぬかの瀬戸際だ。ここが死後の世界とかでもない限りは。
死後の世界、死後の魂の存在とその行方――そう言ったものにイズルはある種の興味があった。自分が時々見えるこの世ならざる物。それが幽霊なのか精霊なのか。実はイズル自身にもよくは分かっていない。
5才の頃にこの才能に目覚めてから家族に不気味がられてしまい、彼は見えている事を隠すようになった。それ故にこの力がなんで発動するのかも分からない。
――生きてくださいませ、死に旅立った者達もきっとそれを望んでいるでしょう。
アストレア村の戦いの序盤、エリュトロン伯爵に対して話したあの言葉。あれはただの慰めでも、説得の為に生まれた詭弁でもない。
実際に伯爵を慕う者の声が聞こえた気がしたのだ。当時はあんなどうしようもない人間にも慕うものがいたのかと驚きもしたのだが。
聖女であるコレット・アストレアが星天の声を聞いたように、神聖魔術の才がある者は時折、不可思議な能力に目覚めることがあるという。自分の力がそれに当たるのか。
「考えるだけ無駄なことよ、イズル・ヴォルゴール」
振り向き、瞬時に距離を取る。一際大きい白樺の根に、一人の老人が腰かけていた。それがすぐに人間ではないことをイズルは悟った。
全長は2メートルくらいあるだろうか。背筋がピンと高いが一般的な人間と同じ位、だが、頭は樹皮のような質感な上に普通の人間の2倍はあり、頭の天辺からは白髪が伸びており、先の方で結ばれている。その口には真っ白な髭を蓄えている。
青色の瞳がキラキラと輝いており、見た目は枯れた老人なのに、老いを全く感じさせない。人間ではないが、魔人でも無いようだった。人間種に近い亜人なのだろうかと一瞬考える。
「なんだ……おぬしが自分の見える物に悩んでいるように見えたから、姿を現したというに、随分と感動が薄いものだの」
「俺が見えてる物……? あなたは一体何者なんですか?」
5才の頃、初めて見た精霊はこんなに年老いた姿だっただろうかと、イズルは訝しむ。するとその失礼な思考を読み取ったのか、頭のでかい老人は渋い表情になった。
「相手を見かけで判断する物ではないぞ。おぬしが及びもつかぬ力を持っているかもしれんのだから」
「……もしかして、この森の神様か何かですか?」
「ホッホッホ、そんな大層な者じゃないわい」
フクロウのような声で老人は笑った。どうにも掴みどころが無く、話も進展せず、イズルはもどかしく感じる。老人は傍にあった枝を手に取り――枝は瞬時に伸びて杖となる――立ち上がった。
立つと威圧的にさえ感じる背の高さだ。周囲が白樺の木であることも相まって、老人の姿は樹木そのものに見える。
「俗な言い方をするのであれば、妖精か? 精霊? そんなところじゃろうが。儂のことはバーチ爺さんとでも呼んどくれ」
「俺は、イズル・ヴォルゴールと言います――なんでか貴方は知ってたみたいですけど」
「うむ、森に入った者の思考――特に儂の事が見える者かつ道に悩む者の思考はよくよく流れこんでくるのよ」
こいつの前であんまりくよくよしてはいけないなと、イズルは思った。まだ完全に老人――バーチの事を信用したわけではない。イズルは周囲を見回すが、やはり出口らしいものは見当たらない。
「出口を探すのであれば、己の思考に決着を付けるべき時ぞ、イズルよ。己の尾を追う犬の如き不毛な思考に終止符を打つべきとき」
「妖精ってのは、謎かけが好きなんですね」
要は自分の悩みをここで解決しないと出させて貰えないということらしい。なんともお節介というか、ありがた迷惑な話だ。
「己の存在意義に悩む者はおぬしだけではない――共に考えるのも一」
びゅんっと風を切って短剣が老人の顔のすぐ隣を過ぎて、白樺の木に突き刺さった。
「ようやく、姿を見せたな、森の化け物」
浅黒い肌に星のように輝く銀色の髪、森で動きやすいような軽装のコートと皮のスカート、腰や脚に装着されたベルトにはポーチが装着されている。金色の瞳は月の光のように見えた。
「元気の良いことだ。それにしても化け物とは酷い言い草よ。おぬしの方から会いにきたのではないか? サリ・イシルウェンよ」
「そうだ、お前が勝手に姿を消さなければ、もっとスムーズに済んだのだ」
完全に蚊帳の外であるイズルが会話を見守っていると、ダークエルフ――サリというらしい――の眼孔がギロりと彼を睨んだ。
「……なんだこいつは? 人間じゃないか」
「あー……どうも、俺はイズル・ヴォルゴール、です」
一応挨拶をしてみるが、サリはどうでもいいとばかりに、イズルを無視して、バーチに食って掛かる。
「そんなことはいい……さっさと教えろ」
サリは夜のような冷たい視線で剣先を老人の頭に向ける。だが、バーチは深いため息を吐いただけだった。ダークエルフの女は痺れを切らして更に告げた。
「エルフの国、霞の結界を解く方法を」




