Ⅶ 行き倒れエルフと神隠し
ベオーク高原は北東はジェミニ評議界共和国、南西にアリエス王国、そして東のトーラス神国に面する土地である。
一面に広がるは緑の大地、どこを見渡しても白く、鮫の肌のようにざらざらした樹皮が視界に飛び込んでくる。同じ森でも自分の故郷とはまた違った風景をヘレンは楽しんでいた。
白樺の木々はこの高原の特徴であると同時に、特需品でもあった。ここを面する三国の前身となる国が戦場にしたのは千年も前の事と言われる。道がある程度整備されているのはその時からの名残だ。尤も千年前の戦いはある事件によりうやむやになり、不干渉地帯として三国間では協定が結ばれたのも久しからず、今では交易路となっている。
「ヘレンはここにエルフの森があるのは知ってるかい?」
「おとぎ話として残ってるのは知ってるよー……実際ここでエルフを見かけたって話もよく聞くけど」
長寿にして森の精霊人と呼ばれるエルフ。長い耳と不老の容姿を持つこの種族は、見かけること自体が非常に珍しく、特定の国を故郷としていない流れ者である。彼らは優に数百年の時を生きる為、元の故郷の事を忘れている者も多く、決して自らは話したがらない。
彼らがどこで生まれ、どこで育ったのか等謎が多い。
分かっている事と言えば、彼らは精霊との結びつきが強く、魔法を手足のように自然と扱えるということくらいなものだ。
だが、伝説によれば、このベオーク高原に彼らの故郷は存在しているとされる。
「昔、ここで戦っていた国々の兵士達はエルフの魔法で神隠しに遭って……あまりに不気味な場所だからって、三人の将軍は一時休戦して集まって、戦を止めることにしたんだよね」
「よく知ってるなー」
イズルが感心すると、ヘレンは「一緒に旅してた物知りのキルケ―が教えてくれた」と楽しそうに答える。二人はアリエス王国からベオーク高原まで馬車で来て、今は徒歩でこの地を横断しようとしていた。
馬車は楽だったが、歩いての旅もヘレンは嫌いではない。眠気が定期的に襲って来なければもっと良いのだが。イズルと二人で旅をしていると、勇者一行と旅をしていた頃を思い出す。
(あの頃はもっと賑やかだったな)
イズルとの旅は好きだが、他にも仲間がいたらもっと楽しいかもしれない。そんなことをふと思った。これからの事を考えるのであれば、戦力的にももっと仲間がいるだろうが、ヘレンはそこまでは考えが至らなかった。
イズルは精霊と会話ができる特別な力を持っていると前に聞いたが、エルフという精霊という存在に最も近いとされる種族にも何か思う事があるのだろう。神妙な面持ちで辺りを見回していた。
「不可解な理由でも、戦を終わらせてくれたならエルフに感謝すべきなのかもなぁ……」とイズルはしみじみと話す。自分の治める地と民の事を思ってのことなのだろう。ヘレンはふと疑問に思ったことを尋ねる。
「イズルはヴォルゴール領の領主さまーなんだよね……こんなに何度も留守にしてだいじょうぶ?」
「ヘレンにしては鋭い事聞くね」とイズルはからかうように言った。これでも色々考えているのだとヘレンは「私はいつだってするどいのだー……薔薇のトゲトゲみたいにね」と答える。その独特な例えにイズルは更に笑った。
周りに一切人がいないからか、普段よりもイズルの表情は豊かかつ素直な反応に見えた。
「うちは隠居してる父が近くに住んでるし……各地に嫁いだ姉達もいざという時にはヴォルゴール領代理として戻ってきてくれたりするからね――一番上の姉は嫁いだ先で夫を尻に敷くくらいには強いから」
――性格的な意味でも、魔力の面でも、だ。
「それに、あの土地も昔こそ隣国のパイシースと睨み合う最前線だったんけど、祖父の代の時に、魔人の脅威が高まってからは、互いに使節団を送って、不可侵条約を結んでいるからね」
おかげでヴォルゴール領はイズルの代からは、常駐していた王国軍も北方へと移転となり、隣国と接する辺境とは思えない程に平和そのものといった感じではある。
勿論、ヘレンが訪れた時のように魔人に目を付けられることもある為、完全な平和とは行かないのだが。
「ところで話は変わるんだけど、ヘレンいいかな?」
「なにー……?」
首を傾げるヘレン――自信満々に先導してくれている彼女に対して非常に申し訳無さそうに、イズルは尋ねる。もしも、俺の気のせいだったら申し訳ないんだけどと、枕詞を付けつつ、
「ここ、さっきも通らなかったかな?」
「へ……? ホント?」
ヘレンは慌てて周囲を見回し、それから背負っていた大きな鞄を降ろした。旅のサバイバルに必要な物品が詰め込まれたそこから地図を取り出して地面に広げる。その地図は魔法が掛けられた王国の優れもので、自分達の現在地がコンパスの針のマークとして出現する。
――筈だった。
その地図上に現れたヘレンとイズルの現在地は間違いなく、ベオーク高原のどこかにあるのだが、狂った羅針盤の針のように、グルグルグルグルと現在地が回転しており、自分達が一体どこを向いているのかもわからなかった。
「イズル――ごめん、地図が壊れちゃ」
ふと隣を見るとイズルの姿が無かった。その事に気づいた瞬間、彼が持っていた鞄が音を立てて地面に落ちた。衝撃で中にあった必需品や、ジェミニ評議界共和国への王からの密書が散らばる。
「あれ……イズルが迷子になっちゃった。探さなきゃ」
自分の方が迷子になったとは一切考えないポジティブ思考でもって、ヘレンはキョロキョロと辺りを見回す。いつの間にか辺り一面は金色の霧に包まれていた。辺り一面はキラキラと鱗粉をばら撒いたかのように輝いており、木々の間から見上げた空は紫色の雲が覆っていた。神々しくも不気味ですらある。
魔人の仕業かなとも思って、肩に掛けた大斧を手に取ってみるが、それにしてはいつまで経っても誰かが襲って来る気配も無い。ふと、ヘレンの脳裏にさっきイズルと話していたことがよぎる。
「エルフの神隠し‥‥‥?」
不意に突風が吹いて金色の霧を払った。麗かな春の陽気がヘレンの顔を照らし、こんな時だというのにヘレンはうとうととしてしまう。
(イズルを探さないと……)
かくんと首が下がった際に、桃色のさらっとした絹が見えた。否、それは絹ではない。
人間? 耳の長い人間? が倒れていた。
「行き倒れだー……」
エフィルミアがエルフの国を黙って出てから三日目。彼女は外の世界を余りに甘く見ていた。エルフの国を出るまでは良かった。ダークエルフに教わった外の世界に通じる為の出入り口を覚えていたのが幸いだった。彼女の名前こそ忘れてしまったが、彼女から手ほどきをしてもらった事の殆どは覚えている。武術も忘れてはいなかった。
父が掛けたのは恐らく、知識や思い出として頭に残っている物を消去する類の呪いだったのだろうとエフィルミアは推測する。
だが、それもここに至っては何の救いにもならない。彼女はもっと根本的かつ致命的な危機に瀕していた。
(お、お腹が空いて動けない)
探し人のダークエルフはすぐに見つかると思っていた。だが、何時間何日探してもダークエルフどころか同胞、他の種族の人にすら見つからない。一人でこれ程長い時間を過ごすことなど初めてで、心細く、流れる時間がとてつもなく膨大に感じる。
そして気が付いた事が一つ。外の世界で食料を取ることの大変さだ。エルフの国では、実のなる木を養殖し、畑で作物を育てて、偶に外に出る事を許されている一部の狩人が狩りに出る。そうした生活を数千年は続けてきた筈だ。エルフとしても若く、外の世界を一切知らされていないエフィルミアには、ここはあまりに厳しい世界だ。
近くに生っていた茶色の木の実は、苦くてアクがあってとても食べられたものではなく、野を駆ける獣は警戒心が強くて中々捕まらなかった。
一日掛けてようやくリス一匹捕まえたが、どうやっていつも食べている肉にしたらいいのか――そもそも食べるということは殺さなければいけないということで、なんだか可哀想な気がしてきて、結局逃がしてしまった。
そうするうちに空腹で動けなくなってしまった時だった。春のような温かい風に包まれた。
(星天からお迎えが来たのかな……)
まるで悲劇のヒロインのような事を思ったが、飢えで死ぬにはまだ早い。気が付くとエフィルミアの目の前には誰かがいた。倒れ伏しているのでブーツしか見えない。
(た、助かった……あ、あの、何か食べ物を)
口を動かそうとしたが、疲労と空腹で声が出なかった。
「行き倒れだー……」
気の抜けるような少女の声が長い耳に届いた。助けてくれるかもという希望が不安に変わる。少女が屈んで、エフィルミアの前で両手を合わせ始める。
(え、えっと、もしかして死んでると思われてるー!?)
エフィルミアはびくっと動いて視線を上げると、若草のような美しい緑のふわふわとした髪に、真っ白で健康的な肌の少女がその瞳に映った。少女は一生懸命に手を合わせており、エフィルミアの変化に気が付かなかった。
さっと立ち上がった彼女は、近くに置いてあった鞄からスコップを取り出し、エフィルミアの隣で穴を掘りだした。
「うーん……もっと大きいツルハシがあるといいんだけどなー……あんまり浅いとこに埋めると熊や狼が掘り出して腐食した肉を――」
そこまで言いかけたところで死体だと思われていたエフィルミアは起き上がった。起死回生の気合でもって。
「私まだ死んでませんからぁっ!!」




