Ⅶ 安眠未だ訪れず
囲んできた敵に対してヘレンは文字通りの血路を開き始める。安全地帯が出来たことで、散り散りになっていた部隊も次第に集結し始めていた。
イズルが戦鎚を大地に突き立てる。すると神聖な霊力を纏った光が注がれていく。大樹が根を下ろすように辺り一面へと広がる。ヘレンは体が軽くなり、気力が満たされるような心地になった。体中にある小さな傷や汚れが消えていく。
負傷を癒す神聖の術、これがイズルの力。周囲にいる兵士は次々に傷を癒されていくばかりか、再度戦うだけの気力までも取り戻していく。彼らは武器を取り集団でモンスターに対して反撃を開始する。
ヘレンが風を纏って跳躍、ハルバートでキュクロープスの腕を斬り落とすと、兵達がすかさず足に槍を突き刺して転倒させる。勢いを保ったままヘレンは大木を蹴って返り、膝を突いた巨人の首を斬り落とした。上がる兵達の歓声はまるで耳に入ってないかのように、ヘレンは周囲の敵を屠って回る。斧が弧を描く度に敵の腕が、首が、脚が飛ばされていく。魔物の血に――魔物や魔人の血は瘴気を纏っており、人間にとっては有害だ――体が穢されるが、イズルの神聖の術が瞬く間に祓ってくれる。
周囲をあらかた一掃し、ヘレンはイズルの傍に降り立った。森のような翠の髪と雪のように白い肌には汚れ一つ無い。周囲の兵士達が集まるまで彼らにはしばしの安息が訪れる。
「ありがと、あいつらの血でべとべとになると気持ち悪くなるんだよね……」
「気持ち悪いで済むのヘレンくらいなもんだよ」とイズルは苦笑する。一般人であれば血が掛かっただけで気を保てなくなる者もいる。兵士達は甲冑に神官から加護を付与されている為、ある程度なら耐えられるが血を浴びれば浴びる程、その効果は薄れていく。
ヘレンのように身一つで戦える者はそうはいない。――が、本人はあまりそういう自覚は無い。かつて勇者と一緒に旅をしていた時は、あまりの自覚の無さを仲間の僧正であるキルケ―に怒られたものだ。
(けど、もうちょっと気にした方がいいのかも……この前みたいな不覚を取るかもだしー)と、ヘレンは一考する。
「ヘレン?」
眠そうな顔で考え事等するものだから、イズルが心配そうに顔を覗き込んでくる。眠くないし!とばかりに、ヘレンは口を開いた。
「イズルの術はすごいよねー。……皆の傷纏めて癒しちゃうなんて」
「どんな傷でも癒せるつもりだよ。”死んでさえなければ”ね」
含むような言い方だったのだが、ヘレンはただただすごいなー……としか思わなかった。彼女は深い事を気にしない。大概の事を表面通りにしか受け取らない性格だった。
そんな会話を続ける中、エリュトロン騎士団の再編成が完了した。尤もこのまま進軍できる程の規模ではない。
「一度、エメリナの魔道部隊と合流しましょう。まもなく日も暮れますし」
イズルの提案に、エリュトロン伯爵は溜息と共に頷いた。随分とおとなしくなったもんだとヘレンは思う。お腹でも減ったんだろうかと、ちんちくりんな想像を働かせる。自分の働きとイズルの底知れ無さに恐れを為しているとは思いもしない。
「お腹も空いたしねー」
ヘレンが言うとイズルは柔らかな笑みを浮かべて「そうだね」と返す。
こうして魔の森の初戦は終わった。人間側は犠牲を払いながらも、魔王軍の放った魔物の多くを討ち滅ぼす事に成功する。
戦いを終えて引き返す人間達を山の奥から一匹の大狼が見据えていた。彼女は、狼型の魔物――であり彼女の子ども達であるマーナガルムが引きずってきたまだ生きている兵をその大口で噛み砕き嚥下する。絶望が口の中に広がり腹にその魂を収める。
「そうか、あの小娘もいたか――引いたのはいい判断だったよお前達」
銀色の毛並み、血に濡れたような三日月の傷を額に持つ大狼――フェンリルは子ども達をその前足で撫でた。
森のように深い翠の髪の若き女戦士、自分に傷を付けた者の顔を思い浮かべ、彼女は憤りの唸り声を上げる。その瞳は耽る夜の中で爛々と妖しく輝いた。
「恐れることは無い。私達は『家族』なのだから。きっと奴を倒せる――そして……」
あの娘の絶望は一体どんな味がするのだろうか。それを想像してフェンリルは口を舌で濡らした。




