Ⅳ 焦燥に駆られる
底なし沼にでも嵌ったかのように、身体が歪んだ空間へと沈んでいく。大斧を咄嗟に城壁に突き立ててどうにか引きずり込まれるのは阻止する。真っ黒な腕がヘレンの手足を、髪を乱暴に引っ張り、誘おうとする。
箒に乗った魔女の姿を求めて、ちらっと空を見るも、エメリナの姿はない。ヘレン達が突入したタイミングで帰ったのだろう。飛行魔法は魔力の消費が激しく、長時間の飛行には高い集中力が必要なのだと聞いている。
上空に居たエメリナがこの魔人を見落としたとは考えづらい。恐らく彼女が去るまで、じっと身を潜めていたのだろう。地の底に伏せて獲物を待ち構える捕食者が如く。
――だが、ヘレンは獲物ではなく、狩る側だ。
「もう……勝ったつもりなんだ?」
「あ! そうですよね、ちゃんとトドメ刺しておかないと!」
カーレン、真っ赤なドレスの少女、その今にも崩れ去りそうな砂塵のような肌の上を蛇が這い、ヘレンの眼前で毒を吐いた。
身動きのできないヘレンの顔に吹きかかり、濃厚な毒が重みを持って身体を包み込んだ。毒霧の向こうからカーレンの影が見えた。その横にもう一人誰かが立つ。
人だ。
真っ白なトゥニカに足元まで広がる真っ黒なスカプラリオ。頭巾を深く被っているが、その目が裂けんばかりに開き、そこから止め処なく流れた涙が頬を濡らしているのが見えた。
修道女だろうか。震える手で錫杖を握り、口から呻き声が漏れるのが聞こえた。ヘレンを拘束する腕を作り出しているのは彼女の魔法なのだと直感した。
「すごいでしょう? この子、まだ生きているの。生きたまま私の意のままに動くお人形になってくれたの! もう思考を司る脳は半分以上死んじゃったけどぉ――」
その頬に手を添えてカーレンは微笑んだ。悪意が具現化したとしか思えない口の歪み、その瞳は蔑み憐れみ、だが決して毒霧の中で朽ち果てていく者への情は一欠片も無い。
「極上の負の感情。毒で壊れていく人間、普通じゃ味わえない珍味――あなたも、もう間もなくこうなるのよ……って、あぁ、もう聞こえてないかしら?」
とっくに毒に冒されているだろう事も分かった上で語る嗜虐的な思考、ギラギラとした目はヘレンの変わり果てた姿を期待し求めて近づく。
「ヘレンちゃんはどうしようかしら。フランケンみたいに別の人間の身体をくっつけて元の身体がなんだかわかんない面白い形にしよっかなー、あ! それとも先に毒でボロボロになった御姿を大切な人達に見てもらうー?」
風を切ってその勝ち誇った顔を鍵爪が掠めた。歪んだ口元から失笑が漏れた。まだ悪あがきが出来たのね、往生際の悪い――と、口から出るよりも先にその体は鍵爪に繋がっていた一本のロープに縛り上げられる。
鍵縄の勢いに、カーレンはヘレンの元へと引き寄せられる。ヘレンを掴んで離さない無数の手が導くその先に、道連れにせんとされ、修道女が一瞬魔力を緩めた。
「魔人はいつもそう……目の前の快楽に抗えずに……隙を晒す」
大斧の先端がカーレンの右目を貫いた。丸い瞳が後頭部を突き抜け、ぐしゃりと城壁に落ちた。身の毛のよだつような叫びをあげて、カーレンは後ずさる。
鍵縄は城内への侵入、建物や高所を登り降りの為に用意していたものだ。山育ちで狩猟を生業としていた彼女はこの手の道具も難なく使いこなす。勿論、咄嗟の武器としての使用も心得ている。
「なんで!? 頭が腐って何も考えられなくなる……呪いの毒が」
貫かれなかった方の瞳がヘレンの胸元、首から掛けられた装飾品に向けられる。翡翠色に輝くそれにはルーン文字が刻まれていた。
「エール」
オークの木を象徴し、その形状は、枝や枝葉が広がる様子を模している。自然の力を取り込み、悪しき物からヘレンを守護する魔法が施されていた。
ヘレンの為にイズルが贈った装飾品だ。
「ジェイソンと別れたばっかりの頃だったら殺せていたかもね」
ヘレンは無表情にそう告げて大斧を振り上げ――、眠気で視界が揺らいだ。腕の力が落ちて、ハルバードは重力に引かれるがまま城壁に振り降ろされ、凄まじい振動がその場を襲った。
――あぁ、もー。
ヘレンは薄れる意識の中で毒づきながらも、無我の境地に身を委ねる。まるで水の中で浮かんでいるかのように意識は朦朧とするものの、真っ赤な影が目の前にあった。
本能の赴くまま、大斧を上段に構える。カーレンは真っ赤に、傍にいる修道女は薄い青色に映る。修道女を傷つけたくはない。恐らくこのまま魔人の手から解放したところで、すぐにその命は散るだろう。それでも……。
カーレンが目を抑えながら何かを叫んだ。何かする前に仕掛けるつもりだったヘレンの足元が崩れる。手を伸ばしたが何もつかめない。崩れ落ちる城壁と共にヘレンは地面に落下した。
遅くなった時の流れに溺れる。手足を上手く動かせない。眠っていても戦うことが出来るようにと鍛錬を続けたこれは、あくまでも攻撃してくる相手や脅威に対して本能的に反撃できるというだけだ。武器の動かし方、敵への対処を頭で考えるよりも先に動けるようにまで鍛錬した結果だ。
受け身を取ろうとするが、深い眠りに誘われ、上下がどちらかも曖昧になっていく。
地面が迫ったその時、ふと、何かに抱きかかえられた。魔人ではないが、人間にしては奇妙な気配。敵意は感じられない。一緒に来たセレーネともペルゼィックとも違う誰か。
「たく――この程度で勇者ジェイソンの元仲間だって?」
心臓を直接掴まれたかのような感覚に、ヘレンは瞳を見開いた。口から飛び出した荒い息と共に自分を助けてくれただろう相手と目が合った。
「うわっ!? な、なによ!」
頭に二つの角、銀色の長い髪、腰に竜の尾を持った少女が怯んだように威嚇する。奇妙なのはそれだけではなく、着込んだ甲冑、その背中に甲羅のようなものを背負っていた。その甲羅は左右に絡繰りの腕があり、楕円状の盾を掴んでいる。
「あ……えっと、ありがとう?」
城壁の下に広がる地面に下ろされ、ヘレンはお礼を言った。さっきの自分は一体どんな表情をしていたのだろう? まだ早鐘のようになってしまっている鼓動が収まらず、胸を抑えた。
「ふん、助けに来たのに、逆に助けられて恥ずかしいとは思わないわけ?」
少女の言う通りだとヘレンは思った。ここ最近の戦いで彼女はかなり自信を取り戻していた。だが、まだまだ一人で戦うには不安定過ぎる。一人で城壁上を偵察したのは軽率だった。
――二人はどこに……?
「ヘレン!」
辺りを見回すと彼女を見つけたセレーネとペルゼィックが走って近づいてくるところだった。狭い抜け穴を通った二人は砂に塗れていた。
「上が何やら騒がしいと思ったら、てめぇ抜け駆けして一人で魔人と戦いやがったなぁ?」
「一人で行動しないで。あなたが強いのは知ってるけど、それでも呪いのせいで油断はできないんだから」
セレーネは心配からの怒り、ペルゼィックは手柄を横取りしようとしたことへの怒り――と見せかけての照れ隠しで、本当は心配しているのが見えた。ヘレンは見るからに落ち込んだ表情で、二人に謝る。
「ん、ごめん――勝手な事して」
自分は焦っているのだろうか、とヘレンは思った。突然出された勇者の名前に思った以上の衝撃を受けた。立っていたら膝から崩れ落ちたかもしれない程に心を揺さぶられた。
そんな言葉を掛けた角のある少女の表情は相変わらず不機嫌そうだった。
「ようこそ、キャンサーへ。私はレヴィ・メルビレイ。竜人族の末裔。――そして守護神カルキノスを信じる者よ」
腰から抜かれた棒が伸び、三又槍と化す。その先が差すのは、この国の象徴とも言うべき巨大な甲羅に向けられていた。
守護神カルキノス――この国の守り神でありながら、魔人に味方し、かつての勇者に討たれた英雄。
「あなたの事はよく知ってるわ。ヘレン・ワーグナー。勇者ジェイソンの元仲間で、魔王タナトスに負けて表舞台から去った女――なのに、何故?」
レヴィの言葉はヘレンの心を的確に抉った。それが全て真実であるからだ。
「何故、あなたはここに来たの?」




