リリスは月を背に微笑む
あたりの暗さがしみこむように背筋を寒くする。何かが起こっているのではないかという恐怖が裕也の心に広がっていった。だが、彼は唇をかんで声を押し殺した。今何か叫べば天使をおびえさせることになるのではないか、彼はその心配だけで平静をかろうじて保った。
「あ、相沢さん。時間確認できる?」
「そうですね、ええと」
天使は手首に巻いていた小さな腕時計を見る。明るめなブラウンのベルトのかわいらしいものだった。
「今はちょうど12時ですね……え?」
「…………」
「き、北島君。さっき夕方でしたよね。あ、私の時計壊れているみたいです」
そういう天使に裕也はスマートフォンの画面を無言で示す。
「ひっ! ……あ、いや、あ、あ安心してください北島君。こーいうことがあるとわかっていたから一緒にいるんですから」
天使は震える声でそう言って、胸を張る。裕也はとりあえずSNSのRhine を開いて姉にメッセージを送った。無事に相手には届いたようだった。
「とりあえず相沢さん。商店街に戻ろう」
「そうですね」
二人は歩く。道を曲がって、そしてまっすぐ歩いていく。すると行き止まりになっていたのでまた戻る。ぐねぐねと曲がりくねっている道。人通りのない道。近くの住宅からは人の声が聞こえてくる。
天使はその方向へ助けを求めるように見た。その瞬間に彼女の体は硬直した。
「相沢さん」
天使は無言でたたずんでいる。呼びかけに応じない。裕也は彼女が何を見ているかが気になってそちらに目線を映す。
誰の家かはわからない。ただ住宅の窓が開いて子供が数人覗き込んでいる。笑っていない目。口だけ「きゃはは」と言っていた。
相沢の手をつかんで裕也は駆け出した。
「あ、相沢さん。あれが俺を襲いに来るってやつなの!?」
「わ、わわわかりません」
住宅地を駆ける。二人は走った。しかし出ることができない。はあはあと二人は息を切らした。しかし天使は前に出た。
「そ、そうです。私が力を使えばなんとかなるかもしれません」
「力って、時間を進めるってこと? それとも羽で飛ぶとか……」
「時間を進めて朝にできれば何かあるかも……飛ぶのは……2人抱えるのはできません……」
しゅんと肩を落とす。
「すみません。その、絶対にこう、助かるような方法は……なくて、すみません。でも待ってください」
天使はその場で祈るように両の掌を組んだ。目を閉じて集中している。
「んん」
彼女の額に汗が流れている。
「んんん?」
うなるが何も変わらない。天使は目を開けた。
「き、北島君……。な、なんぜか全くわからないけど、その、力が使えません。ど、どーしよう?」
裕也は何も言わなかった。不安な言葉を言ってしまって天使に負担をかけるのは嫌だった。かといって何を言えばいいのかわからない。だから二人は無言になった。
だから遠くの物音が聞こえた。裕也は反射的に天使を抱いて物陰に隠れた。冷や汗が出ていた。彼は物陰から顔を出す。
道の向こうから何かやってくる。それは「物」だった。
人の足のついた掃除機、皿、太鼓、車、洗濯機……様々なものがどんちゃんどんちゃん音を鳴らしながらまるで祭りのようににぎやかにやってくる。
(なんだあれ)
無意識に天使を抱きしめながら、その百鬼夜行とでもいうべき何かを見た。今行っているのはどう考えても異常な状況だった。長い、長い物の行列が通り過ぎる時に裕也は見つからないように祈ってやり過ごす。
しゃーんしゃーんと足のついたシンバルが遠くで音を鳴らす。だんだんと離れていくことが分かった。
「行った……」
「…………」
はあと息を吐いて胸元の天使と目が合う。顔を赤くして涙目になっている彼女を慌てて離す。
「……ご、ごめん」
「い、いいえ……そ、それよりも」
何か言う前にしゃーんしゃーんと音が近づいてきた。そしてどたどたと何かが走ってくる音がする。
化け物たちが走ってきていた。体を揺らしながら音を立てながら
「相沢さん!」
裕也は天使の手をつかんで立ち上がった。彼が振り向くと『楠』が見えた。狸塚が言った迷ったら向かうべき場所に彼は走り出す。
道がゆがんで見えた。裕也は「どうなってるんだ!」と悪態をつきながら走るが、止まるわけにはいかない。後ろからくるだけではない。別の道からも何かがやってくる。それは人の姿をしていた。ただ表情はない。
マネキンだった。かしゃかしゃ音を立てて2人を行く先をふさぐ。恐怖を感じる前に止まることはもうできない。2人はとにかく「楠」を目指して走った。
少し開けた場所に来た。鳥居がある。神社の入り口だった。周りの道からはどんどん化け物たちがやってくる。
「相沢さん行こう!」
裕也は鳥居をくぐって中に逃げ込む。楠の大きな葉が月明りを遮る暗い場所だった。
境内には本殿までの石畳が伸びている。その石畳に一人の少年が立っていた。小柄な栗色の髪をした少年。
「ムジ!」
裕也の声に狸塚は顔を上げた。
「お前も化け物に襲われたのか。はあ、はあ」
裕也と天使は膝に手をついて荒い息を吐いた。狸塚はその様子を見て、じっと二人を見る。そして口角を釣り上げた。
「あーあ、ここまで来ちゃったな」
彼は手を広げた。
「お前ら終わりだよ」
「ムジ……? う?」
裕也は膝を地面につける。体が動かない。
「き、北島君……」
天使も同じように座り込んでいた。二人の前で狸塚は笑う。かしゃかしゃと周りの茂みから顔のないマネキンや足のついたモノ達が出てくる。その真ん中に狸塚はいた。
「ムジ……お前が……?」
「北島とあんたは相沢さんだっけ? まああんたは運が悪かったよな」
狸塚は静かに話をする。
「あんたら二人はしばらくの間は家に帰すわけにはいかないかな。……まあ、悪いようにはしないよ。こいつらと一緒に楽しく暮らしてくれ」
周りの化け物たちが動く不気味に踊るように。
「そんなことさせません……」
天使が必死にいう。狸塚は彼女を見た。
「どうやって? あんたらはこの神社まで来た。だからもう逃れられないさ。さっき何かしようとしてたみたいだけど何もできなかっただろ? それが答えだ」
「何かしようとしていた……? なんであなたがそれを」
「さて、なんでだろうね。まあいいじゃん。話はここで終わり」
ぱんと狸塚が手を叩く。にやりと彼は笑う。
「全部ここで終わり」
瞬間強烈な眠気が裕也を襲った。天使は崩れ落ちるように地面に倒れた。
「相沢さん! ……ムジ……おまえ。なんで……?」
「さあ? 詳しくは知らないけどお前。恨まれることでもしたんじゃないのか?」
狸塚は人ごとのように言った。裕也はずりずりと体を何とか動かして、相沢をかばう。
「恨み……? なんのことかわからないけど……あいざわさんはかんけいって……ことだろ……おれだけに」
それだけを狸塚に言って彼も相沢にかぶさるように倒れた。
そうして神社の境内には狸塚と倒れこんだ2人を怪異たちが取り囲んだ。かちゃかちゃと体を揺らしながらマネキンたちがうごめく。
「まあ、安心しろよ。別に取って食おうってわけじゃないしな」
周りの「化け物たち」に手を上げる。
「じゃあみんな。こいつらを山に……」
「どこに連れて行こうってのかなぁ? 私の弟を」
空から声がした。狸塚も周りの化け物たちも一斉に顔を上げた。
鳥居の上に一人の少女が立っている。背中には黒い羽。白い髪をした彼女が妖艶に笑っている。背中の羽を出すためだろう、リボンもボタンも緩めた高校の白いブラウスをおなかの上までめくりあげ、白い肌に小さなへそが見えた。
そして先がハートのようになった黒く細いしっぽがあった。彼女はチェックのスカートから伸びる白い足で鳥居を踏みつけ、狸塚たちを見下していた。彼女は小さな牙を見せながらにっこりと笑う。
「……相手を選ぶべきだったよねぇ……」
リリスは月を背に微笑む。




