願いを決めることを忘れて
その日はとてもきれいな夜空だったことを彼は覚えている。
彼はその目をこすりながら眠りたいという素直な気持ちになんとかあらがっていた。しゃっとカーテンを開けると外に広がるきれいな夜空。住宅地の明かりに負けないくらいに星々が光り輝いていた。
幼い瞳に星を映しながら窓を開ける。ひんやりした空気が体を包んだ。吐いた息が白くなっていく。それでも彼はさっきの眠たそうな目を大きく見開いていた。
「今日はいい天気ですね」
甘い声がした。
彼があわてて声の方を見るとそこには一人の少女がいた。白い髪に青い瞳。彼をまっすぐに見つめる少女。年恰好は彼と同じくらいだろう、だがその姿に見合わないような煽情的な姿だった。
手首にシュシュをつけて胸元にリボン。ワンピースの水着のような姿。その背中には黒い鳥のような羽がばさりと動く。その頭にはくるりと巻かれた羊の角が2つ。ただ月を背に微笑む彼女は妖艶だった。
「私の名前はリリスといいます。そんなに驚かなくてもいいですよ。私はたちは人間を幸せにするためにたまにこうやって地上に降りてくるのです」
リリスと名乗った少女は彼に近づく。息がかかるほど顔を近づけて耳元でささやく。
「貴方の願いをひとつだけかなえてあげましょう。それがどんなことでも」
薄く笑うリリスの口元。そこに生える小さな牙。彼には見えない角度で言う。
「どんなことでもいいですよ。おもちゃでもゲームでも、私は貴方を幸せにしてあげますよ」
彼はリリスを見た。困惑を浮かべたその表情にリリスは優し気に微笑む。
「ど、どんなことでも?」
「もちろん」
――かかった。
リリスは内心でほくそ笑んだ。彼女はサキュバス。悪魔の一人だった。人間に近づいてその望みをかなえる「夢」を見せる。どんな願いであれ単なる夢に過ぎない。ただ、その代償にその魂を貪る。
リリスは舌なめずりをしていう。
「さあ、貴方の願いを言ってください。さ……」
どこまでも甘く、優しい。リリスの目を見ながら彼は言った。
「ちょ、ちょっと待って」
「ええ……もちろん。ゆっくりと考えてください」
そう、すでにとらえた獲物なのだ。リリスはこの目の前の少年の魂の味を想像してくすくすと笑う。彼が夢を語るまで、ただ待てばいいのだ。数日でも待つだろう。
サキュバスは一度狙った相手を逃すことはない――
そうして10年の時が過ぎた。
目覚ましが鳴る。一人の部屋でその少年は目を覚ました。
不快気にじりりとなる目覚ましを叩いて止めて、大きくあくびをする。彼はしょぼしょぼとする目をこすりながら部屋の外に出る。朝の光に照らされた廊下を通り過ぎて、階段をとととと降りていく。
洗面所には先客がいた。ピンクのパジャマを着た白い髪のポニーテールが揺れている。後ろ姿から誰か少年にはすぐわかった。わかったので何も言わずに横に割り込もうとする。
「裕也。邪魔」
白い髪の美少女が押し返してくる。青い瞳をした彼女はあの夜にやってきた悪魔だった。しかし彼女はしゃこしゃこと歯を磨きながら洗面台を独占している。裕也がなんとか割り込もうとするたびに体をずらして入れさせない。
「姉ちゃん邪魔!」
無視してリリスはうがいをしてタオルで顔をふく。『姉ちゃん』と言われたことに特に反応しない。裕也をわざとらしく押しのけてを鼻歌を唄いながら出ていく。
そう、あれからの10年の間この裕也という男は願いごとを決めきれずにいた。必然的にリリスも離れることができなくなり、居候というよりは家族のようになっていた。彼女は普段は角や羽を隠して生活している。そうすればもう人間とあまり見分けがつかない。
顔を洗った裕也がリビングに来るとすでに高校の制服に着替えたリリスがパンを齧っている。
「お母さん。お弁当少なめでいいよ」
「はいはい」
リリスが「お母さん」と言っている柔和な顔をした女性が台所で何かを作っている。リビングには写真がいくつかおいてある。そこには裕也とリリスが二人並んでソフトボールのユニフォームを着たものもある、リリスが泥だらけでピースしているのは何かの大会で活躍した時のものだった。
中学校や何かのお祝いの写真など様々なイベントごとの写真が置いてあった。裕也はリリスの前に座る。そこにも朝ごはんの用意があった、トーストと目玉焼きに簡単なサラダ。彼はパンを齧りながら言う。
「姉ちゃん。ジャムくれ」
「おっ、それお願い事でいい?」
「なわけないだろ……くれって」
「はいはい」
すでに「願い」は談笑のネタの一つになってしまっていた。二人は仲良くといっていいかはわからないが食事をした。
食事の後に裕也も高校の制服に袖を通す。彼は今日から高校生になるのだった。リリスと同じ高校に入学することになったのは少し思うところもあるが、初日のどきどきした気分だった。なれないネクタイもつけるのに手間取った。
彼は弁当だけを鞄に詰め込む。それから「いってきまーす」と玄関を出る。
そこには新品の自転車があった。ロードバイクなどではなく一般の自転車だが中学校では自転車登校などしたことがない。彼は鞄を入れて跨る。
「よし!」
「レッツゴー!」
いつの間にかリリスが後ろに引っ付いていた。荷台に腰を下ろしている。連れていけということらしい。
「姉ちゃん」
「何?」
「降りて」
「いやだ」
裕也は何とも言えぬ顔をした。リリスは「いやー、いい奴隷が手に入ってよかった。駅まで送って」といけしゃあしゃあという。リリスは自転車で高校までいかず最寄り駅にから通っていた。
「重っ」
裕也が気合を入れてペダルに力を入れたときリリスはぎゅーと彼の首筋をつまんだ。
「痛い!」
しゃーっと自転車が走り出す。桜並木を横切りながら。
よかったら今後もお付き合いどうぞよろしくお願いいたします。




