嘘つきは泥棒の始まりだから
最もみんなに好かれたい。認められたい。ちやほやされたい。
少女の心には、常にそれだけがあった。
三矢ミカ、小学五年生。彼女の心に巣食う承認欲求は、彼女を小さな悪魔へと変貌させた。
「どうして、こんな、ひどいことを……」
涙声で告げるミカを、友人の少女があやす。
大丈夫だから、わたしがミカちゃんを守ってあげるから――幼馴染の友人は、ミカの背中をさすりながら告げる。ミカは肩を震わせ、小さく頷く。友人の少女は義憤に駆られながら、大好きなミカを優しく抱きしめた。震える肩に顎を乗せ、彼女が見るのはテーブルの上に広げられた、体操着一式。無残な姿になり果てたソレは、ミカの私物。
刃物でズタズタに切り裂かれたそれを見て、少女はこみ上げる怒りに身を任せて拳をぎゅっと握った。可愛い顔は眉間に入ったしわと唇を噛みしめたせいでひどく歪んでいた。
そんな二人を、たくさんのクラスメイトの少女たちが取り囲んで、ミカの友人に同意して怒りをまき散らし、犯人を突き止めようと鋭い視線を行き来させていた。
そして、そんな少女たちを取り囲むように、男子たちは遠のきに見つめていた。男子は隣のクラスで着替えをするため、すでにクラスの男子の半分ほどがこの場にいない。女子たちの勢いに圧倒されるうえ、リーダー格の者が存在しない男子は動くこともできずにそわそわと視線を動かすばかりだった。
「誰がこんなことを……!」
女子のクラス委員長、おかっぱ眼鏡の少女が怒りをあらわに叫んだ。ぎろりと睨んだ先にいたのは、クラスの問題児たち。と言っても、宿題をやって来なかったり、授業中にふざけた発言を繰り返したりといった程度の、可愛らしい問題児ばかりであった。
「だい、じょうぶだよ、はつきちゃん。だいじょうぶ、だからっ」
涙をぬぐうミカの声は迫真のそれだった。クラスメイトを責めたくない。クラスメイトの中に犯人がいるはずがない。そんなミカの言葉に心を打たれて、委員長は奥歯を噛みしめながら怒りを飲み込んだ。
「ミカさんがそういうなら、わかったわ」
言いながらも、委員長の意識が問題児たちに向いていることは明らかだった。そんな委員長を友人がたしなめ、今はミカの心配をすべきだと女子たちはひとまず団結することになった。
うつむき、両手で顔を抑えて泣くミカの頬がうすらと弧を描いたことに、少女たちは誰も気づかなかった。
ハサミで切り裂かれた体操服は、その実、ミカの自作自演だった。ミカの身の内に巣食う承認欲求の化け物は、ミカに自分を「可哀そうな子」にすることを選択させた。
ミカは自分の体操服を自らハサミで切り裂き、いじめを自作、大人顔負けの演技で自分を悲劇のヒロインにした。
埋没した容姿、運動神経も勉学も平凡なミカは、そうして皆の視線を集める子へと至った。
誰もがミカを気遣った。ミカに心配の声を投げかけた。いたずらっ子な男子も、どこかためらいがちにミカに話しかけた。あるいは、ガサツな男子から友人たちがミカを守った。切り裂かれた体操服一式を前に悲しむふりをしていれば、仲が良くなかった女子さえ近寄ってきて、大丈夫かと話しかけた。
ミカはクラスの姫となった。皆の意識に上り、視線を向けられ、腫れ物を扱うように大事にされる――そんな状況に、ミカは悲しげに顔を伏せながらも、内心で大いに満足していた。
顔を伏せながら、儚げに笑う。たまに目尻に涙を浮かべ、そっと目元を拭う。そうすれば幼馴染の友人はそっとミカを抱きしめた。
自分より可愛くて、頭も良くて、勉強もできて、クラス委員長のカッコイイ男子から好意の視線を向けられている幼馴染が自分を大切に扱うことに、ミカは歓喜した。
「今日、このクラスで悲しい事件が起こりました」
教卓の前に立った担任の女教師は、まだ若い。そのせいか顔はやや青くて、恐々とうかがうような視線でクラスを見回していた。それでも、担任は折れることなく、事件の詳細を語った。それから、人の物を切り裂くようないじめがどれだけ非道な行為であるかを、体育の時間の間、丁寧に語った。
ピリピリとした緊張感が教室を包んでいた。誰もが、ミカを意識していた。疑心暗鬼の視線が、そこにあった。
担任が一度言葉を止め、小さく息を吸う。次の言葉は、皆が予想できた。
「もし、ミカさんの体操服の件で心当たりがある子がいたら、後でこっそりとでもいいので、先生に話に来てください」
しん、と教室が静まり返った。犯人捜しはしないのか――優柔不断な担任を責めるような空気が、そこにあって。
ミカは内心でほくそ笑んだ。担任を笑った。犯人などいない。目撃者などいない。なぜなら、犯人はミカなのだから。
けれどその雰囲気は、すぐさま息をのむものに変わった。
空気の変化と、一人が席を立つ音を聞いて、ミカはゆっくりと顔を上げ、背後を振り向いた。
教室最後尾、かつてなく真っすぐに手を伸ばす少年は、クラスの盛り上げ役のような、声が大きな男子。友人も多く、女子の中には彼に好意的な視線を向ける女子がいることをミカはぼんやりと思い出していた。
それから、唐突に焦りがミカの心の中に突き上げて来た。
彼、瀬川拓斗の目には理性があった。そして何より真っすぐミカへと向けられた瞳には、憐憫の色はなかった。
もしかして、自作自演であることがバレたのではないか――そんな恐怖が生じていた。今日は火曜日であり、週に三回ある体育の授業の一回目。ミカは体操服が切り裂かれる時間を作るために、わざわざ体育の授業のない月曜日に体操着を持ってきていた。普段は火曜日に持ってくるくせに、だ。
もしそこを突かれたらどうしよう、どんな言い訳がいいだろうか――ミカの頭の中では、無数の言葉がぐるぐると巡り続けていた。
けれど、それらのたくさんの言い訳は、続く拓斗の言葉によって一瞬で吹き飛ぶことになった。
「俺がやりました」
凛とした声で告げられたその言葉は教室に滞っていた空気を切り裂き、風を吹き込ませた。
瞬間、ミカの友人たちから激しい憎悪のこもった声が飛び出した。立ち上がった幼馴染が、拓斗の襟をつかんだ。普段は優しげなクラスのマドンナとして一目置かれている少女の行為に、誰もがぎょっと目を見開いて動きを止めていた。
激しい怒りのせいか、彼女の目尻には涙が光っていた。
「どうして、どうしてミカにこんなことをしたの!?」
「嫌いなあいつにひと泡吹かせてやりたいと思ったからだ」
瞬間、少女の白魚のような手が、拓斗の頬を叩いた。パァン、と鋭い音が響き、我に返った担任は二人を引きはがし、引きずるように拓斗を連れて教室を後にした。
「信じられない!ミカ、大丈夫?許せないよね、あんなやつ!」
「う、うん……」
幼馴染の気迫に飲まれつつ、ミカは演技も忘れて拓斗が出て行った、開きっぱなしにされた教室の扉をじっと見つめていた。
「どうしてだよ、拓斗……」
ミカの斜め前の席、男子クラス委員長は強く歯を食いしばりながらつぶやいた。それは、ミカが聞きたい言葉だった。ただし、意味は少々違ったけれど。
どうして、彼は嘘をついたのか――どれほど考えても、その答えが分かることはなかった。
それから、瀬川拓斗はクラスの敵になった。彼の友人であったクラス委員長の男子も、何かを求めるように口を開いては閉じることを繰り返していた。
拓斗は、孤独だった。そして、クラスメイトの「総意」が断定する悪だった。
気づけば、拓斗を無視する空気が出来上がっていた。クラスの皆は、拓斗がいない者として扱うようになった。その空気はやがていじめにつながった。ミカのように、体操着が切り裂かれた、机に落書きがされた、背中を押されて給食を床にぶちまけることになった、嘲笑が飛んだ、冷笑が飛び交った、罵声が響いた。
それでも、瀬川拓斗は、折れなかった。
やがて、男子クラス委員長の梓川博がやりすぎだといじめを止めた。クラスでも一目置かれていた彼の言葉によって、表面上いじめは止まった。博だったからこそ、止めた彼にいじめがつながることはなかった。
何より、クラスの真ん中で、博が拓斗に呼びかける言葉に、その姿に、皆が飲まれたからだった。
「どうして、どうしてあんなことをしたんだよ、拓斗。なあ、教えてくれよ。どうしてだ、どうして、親友の僕にも教えてくれないんだ。なぁ、拓斗!僕たちは親友じゃなかったのか!?何でも話せる友人だって言葉は、嘘じゃなかったのか!?」
拓斗は何も答えず、教室を出て行って。その背中に向かって伸ばされた博の手は、力なく落ちていった。
涙を流して親友に事の詳細をたずねる博の姿を見ては、もはや彼を次のいじめのターゲットにすることも、拓斗をこれ以上いじめることも、できるはずがなかった。
時が過ぎ、小学五年生の一年が終わりに差し掛かったある日。
休日に出歩いていたミカは、公園のブランコに一人座っている拓斗を見つけて足を止めた。自然と、ミカの足は公園の敷地内へと向かい、大回りをしながら拓斗の背後へと回っていた。
「……ねぇ、どうしてあんな嘘をついたの?」
震える声で、ミカはそう尋ねた。拓斗はひょっとしたら自分の嘘に気づいていたのではないだろうかと、そう不安に苛まれながら。
小学五年生の半年は、ミカにとって幸福で、それでいて不幸な時間だった。ミカは望むとおりに他者の関心を手に入れた。けれど、それは承認ではなかった。腫れ物を触るような扱いは、最初こそ物語の姫のような気分で悪くなかったけれど、続けばそれはミカの中にあった後悔と罪悪感の種に水を与えるだけの行為でしかなかった。
自分はこんな風に気遣ってもらえるような人じゃない――そう叫び出したくて、けれどミカはその一言が、自分の自作自演だということが、どうしても言えなかった。もし真実を話せば、自分の日常は完膚なきまでに崩れ去り、ミカが今度は拓斗の立場にさらされることになるのだから。あるいは、それ以上の可能性もあった。
拓斗に向けられていた憎悪の視線が自分に向き、友人は皆離れて行く。その耐えられない状況を想像すれば、真実を口にすることはできなくて。
けれどそんなひどい状況に拓斗を追いやったという罪悪感だけが心の中で膨らみ、張り裂けそうになっていた。
だから、尋ねたのだ。どうして、自分が犯人だなどという嘘をついたのかと。
果たして、拓斗は「そうか」とどこか確信めいた響きの言葉を告げ、ブランコを漕ぎ出した。
立ち上がり、勢いをつけてブランコを蹴れば、半年ほどで大きくなった体が弧を描いて宙を舞った。
ガシャン、と鎖が激しく揺れて音を立て、ミカは肩を震わせた。
膝を曲げて衝撃を殺した拓斗は、ゆっくりと振り返ってミカを見た。
「決まってる。俺が博の親友だからだ。お前も、あいつのことが好きなんだろ?けど、あいつ彼女がいるんだよ。前にあいつ、彼女のことを悪く言われてすげぇ怒ってさ。だから俺は、あいつのことが好きなやつを諦めさせてるんだ」
にぃっと、どこかいたずら笑みを浮かべながら、拓斗はブランコ一帯を取り囲む安全柵に座った。ぽかんと口を開いたまま、ミカはじっと拓斗を見続けた。その顔に、その姿に、嘘は見つからなかった。うそつきなミカの目には、拓斗の曇りなき笑みが見えるばかりだった。
「そんな、ことのために……?」
「俺はあいつの親友だからな」
恥ずかしそうに頬を赤らめながら、拓斗は胸を張って告げる。
わからなかった。ミカには、拓斗という存在が、その思考が、その行動が、わからなかった。けれどその在り方は、その行動は、その笑顔は、ひどく眩しくミカの目には映った。
「……嘘つきは泥棒の始まりって言うけれど」
「突然どうしたんだよ?」
「知ってるでしょ?」
「それはもちろん」
一歩、二歩と、ミカは前に歩を進める。心臓が張り裂けそうなほどに強く鼓動を刻んでいた。服が伸びる心配もかなぐり捨て、ミカは胸元をぎゅっと握りしめたままもう一歩、拓斗の前へと進み出た。
二人の距離が、わずか一歩のところまで近づく。まだミカの方が背は高かったはずだけれど、安全柵に腰を下ろした拓斗とミカの頭はちょうど同じ高さにあった。
真っすぐに拓斗の目を見て、ミカはゆっくりと口を開いた。
「……嘘をついたあなたは、泥棒になったのよ。私の心を、奪っていったの。だから、貴方は立派な恋泥棒よ」
「お、おおう。そうなのか?」
「そうだよ」
どこかまんざらでもなさそうに鼻の下を人差し指でこする拓斗を見ながら、ミカは内心で首を傾げた。本当に、今の言葉は伝わっていたのだろうかと。
心臓はとうとう口から飛び出してしまいそうで、頬は異様に熱かった。どこか飄々として見える拓斗に、憎らしさすら覚えた。
けれどそれ以上の罪悪感と愛おしさが、ミカの心の中で渦を巻いていた。
「泥棒、か」
空を見上げながら拓斗が告げた。
「そう、泥棒」
「まあ、自作自演して嘘をついたお前も立派な泥棒だな。何せ、俺から友人を全部奪っていったんだから」
ひゅ、と自分が鋭く息を吸う音を、ミカはどこか遠くのことのように聞いていた。ばれていた――心臓が一つ、強く鼓動を刻んだ。
いつバレたのか――ミカには答えはわからなかった。罪悪感が、心を飲み込んだ。
咄嗟に頭を下げようとするも、突き出された拓斗の手が、それを阻んだ。
「その言葉は、まだ先だ。盗みがバレた泥棒は、盗んだものを返さないといけないんだ」
盗んだモノ――自分の心の中の熱を思いながら、ミカはこみ上げるものに気づいた。滲もうとする涙をこらえるべく、顔に力を入れた。けれど、涙はあふれ出す。
「……ご、ごめん!こんな、つもりじゃ……」
どうして自分が泣いているのだろうかと、泣くのは拓斗のほうだろうにと、そう思いながらミカは必死に袖で涙をぬぐった。その間、拓斗はただ黙って、じっとミカを見つめていた。
やがて、鼻をすすったミカが顔を上げれば、拓斗は柵の上で器用に胡坐を組み、頬杖をついた姿でにかっと笑った。
「不細工な顔」
「知ってる」
「あれ、そうか?」
「そうだよ。それから、あともう一つ。わたしは、別に梓川くんのことは好きじゃないよ」
「…………え?」
時が止まったように動きを止めた拓斗に、引きつったような、けれど心からの笑みを返して、ミカは心の中で決意した。
この歪んだ思いは、まだ口にしてはいけないと。全てを元に戻したその時、自分は改めて拓斗に「心を返して」と言いに行くのだと。
動きを止めたままの拓斗に背を向けて、ミカは決してうつむかず、強い足取りで前へと歩き出した。
まだまだ色恋に疎い拓斗は気づいていなかった。ミカが、拓斗に熱い視線を向けるのを。
泥棒とは、他人のものを不当に奪って自分のモノにしてしまう存在。拓斗はミカの心を奪って、己のモノにした。
そして、一連の会話によってミカは拓斗に告白をしたと思っており、拓斗もまたその言葉を受け入れたものと、ミカはそう思っていた。
二人の受難は、始まったばかりだった。
ミカが全てを語り終えたその時、博は怒ったようで、それでいて泣いたような顔で立ち尽くしていた。
ただ一言、やっぱり拓斗は拓斗だったと告げて。そんな小さなつぶやきは、吹き抜ける春の風にさらわれて消えていった。
ミカの贖罪は一歩進み、けれどその道はまだまだ遠かった。うそつきなミカは、拓斗が失った日常を取り戻すために行動し続ける。
その心に燃える、激しい思いを胸に抱きながら。