雨が穿つ夜 2
しみじみとしたツバキの声に、スズは顔をひきつらせた。胸に突き刺さった痛みを自覚しながら、いつものように返す。
「そうかな?」
「うん、子どもの気持ちに寄り添ってくれる感じがする」
「そんなこと、ないよ。私も人間だからいろいろあるし。息子と分かり合えないことだってあるもん」
「でも、スズさんは理不尽に怒ったりしないでしょ? 自分の子どもに怒鳴りながら死ねなんて、言うような人には思えないし」
「それは、そう、だけど」
ビルの1階に到着し、ドアが開いた。ほかの女の子たちと一緒に二人も降りていく。
雨が吹きすさぶ空を軒先で見上げ、ツバキはさげていた傘を開いた。
「んじゃ、あたしこっちなんで。おつかれでーす」
レインブーツで臆することなく、雨に濡れた道をすすんでいく。その後ろ姿を見送るスズは、同じように傘を差し、外に一歩踏み出した。
この時間は、電車がない。繁華街の大通りを抜けた国道で、待機しているタクシーに乗り、二十分ほどかけて帰宅する。
豪華でもなく、おんぼろでもない、住宅地にあるスタンダードなマンションがスズの家だ。
親子二人で住むには十分な間取りだが、決して広くはない。掃除も行き届いているとは言えない。
暗い廊下を進むスズは、息子の部屋につながるドアを、静かに開けた。
カーテンが閉まる窓を、大粒の雨が外から打ち鳴らしている。部屋の中央で丸く盛り上がる布団からは、寝息が聞こえていた。
スズは薄暗い顔でため息をつき、静かにドアを閉める。
†
翌日の夕方。
空はどんよりとした鉛色の雲が覆っている。ぽつぽつと、小粒の雨が降っていた。ニュース番組の天気予報では、今夜もひどくなるらしい。
スズは掃き出し窓の前で、外をながめていた。息子がそろそろ帰ってくる。その後のことを想像しながら、ため息をついた。
夕飯はすでに用意している。テーブルの上でラップをかけた。すでに化粧は済ませており、あとは、ストレートの髪を店にいる美容師にセットしてもらうだけ。
もう一度ため息をついて、床に置いていたバッグを肩にかける。同時に玄関のドアが開き、男児の幼い声が響き渡った。
「ただいまー。お母さんいるの?」
ランドセルを背負った、スズと背丈の変わらない息子がリビングに顔を出す。母親に対してはにかむ息子に、スズは薄い笑みを浮かべ、冷静に返した。
「いるけど、もう出るよ」
「外、雨だよ」
「そうだね。……ご飯できてるから、おなかすいたら温めて食べなさいね」
息子を通り過ぎて玄関に向かう。その腕を、息子につかまれた。
「外、雨だよ」
さっきと同じ言葉を繰り返す息子に、イラ立ちを自覚しながら体を向ける。今まで、何度、この手を振り払ってきたことか。
「聞いたよ。でもそんなに強い雨じゃない」
「夜になったらもっと降るかもしれないじゃん」
「だとしても雷はない。昨日だって鳴らなかったし」
「今日は落ちてくるかもしれないじゃん!」
「落ちてこないから大丈夫。今までだって平気だったでしょ?」
「俺は大丈夫じゃないし平気でもない!」
声を荒らげた息子に、スズは顔をしかめる。
「大きな声出すのやめて。となりに聞こえちゃうでしょ」
「俺は大丈夫じゃない! いつも大丈夫じゃない! のに、なんでお母さんが勝手に大丈夫って、決めつけるんだよ!」
泣くのを必死に、我慢するような顔だった。
「俺、言ったじゃん! 雨の日が怖いって! 雷が怖いって! 布団かぶっても眠れないんだって! なんで家にいてくんないの!」
「しょうがないでしょ!」
気づけばスズは、頭に響くような甲高い声で息子の声をかき消していた。
「誰のために夜働きに出てると思ってんの! お母さんがお金稼がなきゃあんた生きていけないの! あんたのせいでこのままじゃ遅刻しちゃうじゃない! ヘアセットも間に合わない! あんた来年中学生なんだから! そんなわがままで困らせないでよ!」
口元をきゅっと引き締めて何も言えない息子に、タガが外れたスズはさらに吐き捨てる。
「こっちだってね。これしかできないの! あんたの学費払ってんの、この仕事で! あんたが勉強できなくても運動できなくても文句言ったことないよね? 最低限の生活はできてるんだから私の仕事に文句言わないでよ! これで仕事うまくいかなくなったら、あんたのせいだからね!」
「う、うううう……」
息子の目から、ぼろぼろと、涙が零れ落ちた。歯を食いしばりながら、しゃくりあげている。スズの腕から、手が離れ、必死に目をぬぐった。
「雨の日だけで、いいんだ……ほんとうは、いつも、夜は、寂しい……けど」
顔を伏せて、肩を震わせながら言葉を紡ぎ出す。
「授業参観にも運動会にも来てくれなくていい。習い事も部活も我慢してる。家に一人でいることも我慢できる。でも、雨の日だけは……雷だけは、怖いんだ……」
スズは目をつぶり、大きく深呼吸をする。仕事用に振りかけた香水の、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
――一体、あと何回、このやり取りを繰り返せばいいのだろう。無理やり納得させられる息子も、怒鳴りつけて嫌な母親だと自覚させられるスズももう疲れていた。雨の日のたびに、後悔と自責と、罪悪感が積み重なっていく。世間で言う毒親とは、自分のことを言うのかもしれない。
それでも、生活していかなければならないのだ。何不自由なく過ごすためには、たとえ憎まれてでも、このまま仕事に向かうべきなのだ。スズにできるのは、キャバ嬢しかないのだから。
まぶたの裏で、あの日指名してくれた律の姿が浮かび、そのとき言われた言葉がよみがえる。
『本当は、お子さんのそばにいてあげたいって思ってるんだね。いいお母さんだ』
――そんなはずがない。いい母親なわけがない。こんな自分が、嫌で嫌でしょうがない。
スズのまぶたが、ゆっくりと開いた。
「……わかった」
「え?」
息子は濡れた目をぱちくりとさせてスズを見る。
指名の客が来る予定はない。とはいえ、当日欠勤の罰金がつく。覚悟のうえで、スズは休みを取る連絡を入れた。
強くなる雨の中、明るい部屋で一緒に過ごし、夜には息子が寝るまで付き添う。寝息を立てる息子のとなりで横になり、まるで赤ちゃんにするかのようにぽんぽんとたたき続けた。
電気を消した息子の部屋に、窓から稲光が照らす。少し遅れて聞こえる、重低音の雷鳴。スズが見守っていたからか、息子はすやすやと眠ったままだ。
その姿にほほ笑んだスズは、体を起こす。息子を起こさないよう静かに部屋を出た。
夜が更けても、雨は相変わらず強く降っている。雨粒がたたきつける掃き出し窓の、カーテンを閉めた。
ダイニングキッチンの明かりをつけただけのリビングで、スマホを確認する。表示される時間は深夜一時を大きく過ぎていた。
意を決し、電話をかける。コールが続き、ようやく出た相手に、スズは謝った。
「店長、今日はほんとうに、すみませんでした。私、やっぱり……」




