夜雨の誘い
親もいない。学もない。スキルもない。経歴もない。キャリアが見込める会社に履歴書を送っても、面接もせずに落とされる。
そんなユイが働ける場所は、工場のパート勤務がせいぜいだった。パンを機材で均等に切っていく作業を、延々と続けていく。
誰ともかかわらない業務内容だが、髪の毛は帽子にすべて入れ込むため、顔半分のおどろおどろしいやけどの跡は丸見えだ。焼けただれた顔をそのままにした表面が、どす黒く固まっている。
やけどではりついた片方のまぶたは、もう開かない。
やけどの原因は、元夫だ。DV気質だった元夫に、から揚げを作っていた鍋の中、顔を押し付けられた。――娘のおむつが臭うのに替えないから。それが理由。
この件で夫は逮捕されることになり、ユイはようやく夫から離れるチャンスを得られた。
早急に離婚手続きを進め、逃げるように家を出た。必死に子どもを抱きかかえ、誰にも告げず、できるだけ遠いところに――。報復を恐れ、慰謝料や養育費は捨てざるを得なかった。
行政や市民団体の力を借りて、なんとか、接近禁止命令を出し、工場のパートと住むところを見つけた。
顔も体も治療する余裕はない。補助金を受けても生きるので精一杯。食べて寝て、子どもを預けて働いて、お金は一向にたまらない。元夫に見つかるかもしれない不安もぬぐえなかった。
つかの間の昼休み。ユイは食堂の壁際でひとり、パイプ椅子に座る。パンを片手に天井をぼうっと見上げていた。顔のやけどのせいか、職場の空気がそもそも希薄なのか、誰とも話すことはない。
――デリヘルで目標金額がたまったら、すぐに地方へ向かおう。元夫が来れないような遠くへ行くのだ。安全な場所で、人並みに、静かに過ごしたい。成長する子どもを学校に通わせて、またどこかの工場でひっそりと働くのだ。
ささやかな希望に満ちる未来を想像しながら、パンを一つ食べるだけで昼休みは終わった。
夕方になって退勤。保育園へ子どもを迎えに行き、一緒に新宿へと向かう。お金を稼ぐためにお金を払い、夜間の託児所へ子どもを預けるのだ。
「いやああああああああああ! いぎゃあああああああああ!」
ユイの腕の中で暴れ、泣き叫ぶ二歳の娘。保育士に預けようとしても腕から手を離してはくれない。そのくせ背中をそらしたり手足をばたつかせて、ユイの顔を殴っていた。
押し付けるようにして保育士に渡し、後ろ髪引かれる思いで走り去る。
――これも、子どもを生かすため。
ユイは事務所が入る雑居ビルへと急いだ。事務所から出てきたスタッフと鉢合わせ、送迎車に乗るよう促される。言われるがまま車に乗り、顔に包帯を巻けば、仕事先である安アパートへと配送された。
異臭が漂う客の部屋は、足の踏み場もないほどに散らかっている。服を脱いだユイは、全裸でたたずんだ。
「あーあ、ハズレひいちゃったよ~」
ベッドに腰掛ける男は顎に手を当て、ユイの全身を評論家気取りでじろじろと見回している。
「妊娠線はアウトでしょ。胸もたれちゃってるし、太もも、もうちょっとなんとかならない? あとさあ、その顔なに? バケモンじゃん!」
「……すみません」
ユイは包帯を顔に巻きなおす。
包帯を巻いていれば当然、客はその中身が気になるものだ。やけどの話をすると、客によっては興味本位で外して見せろと頼んでくる。その誰もが、いざ外して見せるとこの態度だ。
「ま、キャンセル料払いたくないし、このままでいいんだけどさ。それともなに? そのぶんサービスしてくれる、とか?」
「サービス?」
「裏オプとかあるのかって聞いてんの!」
「いえ、そういうのは、聞いたことなくて」
「んだよ、使えねえな!」
何を言われても、ユイは反抗しなかった。自身の容姿が劣っていることは、十分に理解している。その容姿が、男性には到底受け入れられないようなものであることも――。
ひと仕事を終わらせ、外に出るユイは、待機していた車の中に乗り込んだ。
「今のお客さん、どうだった? ユイさん」
次の配送先へ走らせるスタッフに、静かに答える。
「普通の、方でした。大丈夫、です」
不平不満を言ったところで、どうにもならない。この見た目ではほかの店で働くこともままならないのだ。お金を稼ぐために、客を選ぶめんどくさい女だと思われてはいけない。どんなに嫌な相手でも耐えるしかない。
それからもユイは、次々と男のもとへ向かう。激安デリヘルだからか、その配送先はほとんどが安いラブホテルか古めのアパートだ。会っただけで渋い顔をされたり、罵倒されたり、顔や体の傷を理由に本番を迫ったり――。
「おばさんなのに減るもんじゃないだろ」
「呼んで損したわ~」
「ま、安いからしょうがないか」
暴言や嘲笑を一身に受けながら、一人ひとり丁寧に奉仕し、その場を後にする。
あっという間に、ユイは退勤時間を迎えた。停止している送迎車の中、ようやく一息ついた。運転席にいるスタッフが指示した金額を渡し、残った額を財布にしまう。唇をかみしめ、財布をぎゅっと握った。
今日一日、言われたことされたことを思い出しては動悸がし、指先が震え始める。さんざん嫌な目にあいながら、この日手にした額は二万円。
一日でもらうには十分な金額。しかし、デリヘルの相場としては少なかった。――ユイにとっても、まだまだ足りない。目標の金額をためるまで、どんなに苦しくても我慢して続けなければならない。
改めて覚悟を決めたユイは、財布をカバンにしまう。これから託児所へ子どもを迎えに行き、家に帰ってお風呂に入り、寝て、早く起きて工場に向かって――。目まぐるしいこれからを想像しながら、小さくため息をついた。
そのとなりで、若い女性の愚痴が始まる。
「マジで最悪だったんだけど、あの客」
お札を二本指で挟んで運転スタッフに渡している。涙袋が膨れ上がる黒髪の女の子は、財布をしまい、電子タバコに口をつけた。煙とともに毒を吐き散らす。
「うちの顔見ておもっくそ悪口言ってくんの。てめえが言えるツラかよっつーの」
「あらー、それは大変だったね~」
会計を済ませた運転手は、心のこもらない相づちを打って車を走らせた。若い女性、リアの愚痴は止まらない。
「しかもほっぺたべろべろしてきてさ。化粧落ちんじゃん、まじで最悪~。化粧代だせし。客だからってなにしてもいいわけじゃなくない? ってか、客っつったって、激安店使うしか金ないくせによ」
「あはは、今日もだいぶ溜まってるね~リアちゃん」
「まじでやってらんないわ」
ユイは話に入ろうとせず、ぼうっと窓の景色を眺めていた。外は小雨で肌寒い。傘をさして歩道を歩く者たちをちらほらと見かける。
「うちらは担当に気に入られたくて見た目にも行動にも気を遣うのにさ。なんであいつら金払ってるからって好き勝手できんだろうね」
見た目に気を使いたくても使えないユイには、痛く刺さる言葉だった。煙を吐くリアが、視線を向ける。
「ね、そう思わん?」
「え?」
まさか話を振られるとは思っていなかった。ユイはぎこちない笑みを浮かべる。
「あ、えっと……」
送迎車は、都内随一の歓楽街に差し掛かる。街の入り口を示すアーチの手前で、車が停まった。アーチの向こうは、欲望にまみれたネオンでギラギラと輝いている。
「あたしさ~今からホスクラに行くんだよねぇ。一緒に行こうよ、ユイさん」
「え?」
距離感のないリアからの誘いに、思わず苦笑する。
「いや、でも私、子ども待たせちゃってるから」
「託児所が見てくれてんでしょ? ねえ、一緒に行こうよ。ユイさん、ものすっごく暗い顔してるよ? たまにはきらきらーってした場所でぱあっと遊んで、ハメ外すのも大事じゃない?」
「いや……」
運転席に助けを求めるものの、めんどくさいとばかりに正面を向いたまま、早くリアが降りるのを待っているだけだ。
「ねえおねがい~。実は担当が人気でなかなか席ついてくんなくてさ。でもイケメンはたくさんいるし、接客もハズレがないから! ユイさんでも絶対楽しめるはずだからさ!」
ユイの腕をつかみ、子どもがするように揺らしながら甘える声を出す。
「ねえ、おねがいおねがい。お金なら私が出すし、帰りのタクシー代も出すから!」
「でも、託児所の延長料金が発生しちゃうし……」
「全部払う! 全部払うから! それならいいでしょ? 行こ! ね?」
車のドアを開けるリアは、ユイを無理やり引っ張りながら地面に足を下ろす。
「ちょ、ちょっと待って……!」
強く断れず、抵抗することもできない。困惑するユイは、されるがまま引きずり降ろされた。
「リアちゃん、その人シングルマザ―だから、ほどほどにしてあげてね」
ようやく声を出したスタッフに、リアはユイの腕を強く握りしめたまま、笑顔で車内に言い放つ。
「だーいじょうぶだって。そんなに拘束しないから! 一時間だけ! 付き合ってくれたら金も出す! だって私かせいでるも~ん」
ドアを閉めたリアに、状況が呑み込めていないユイは再び引っ張られる。
機嫌よく笑うリアの後ろで、顔を真っ青に染めながら、大変なことになってしまったとおびえていた。リアへの不信感は恐怖と混乱に変わり、じわじわと大きくなっていく。
二人はパラパラと降る細い雨にあたりながら、歌舞伎町のランドマークであるアーチをくぐり抜け、雑踏の中に紛れていった。




