濡れた帰還
事務所の時計は、すでに日付を越えていた。
玄関のドアが開く音に、窓際にいたメイコが振り返る。仕事場となるリビングに、スーツ姿の律が現れた。
「おつかれさま」
愛想がなく、冷徹な雰囲気をまとう律の全身は、雨に濡れている。湿った金髪もそのままに、ハンカチでジャケットを軽くぬぐっていた。
メイコが話しかけようとする前に、デスクで頬づえをつく部長が声をかける。
「こんなクソみたいな天気なのに客が来たのか? いいねえ、人気者は」
「違う。ホストたちの飲みに付き合って、それから……『白鳥』に行ってた」
「白鳥?」
「小料理屋だよ。ほら……『Latte』のほうにいた亜以子さん、覚えてる?」
「Sweet Platinum」が経営するデリヘルの一つ、「Platinum Latte」。年齢の高い落ち着いた女性を取りそろえた、人妻系デリヘルだ。
「あ~、亜以子ちゃんね。覚えてるよ。どの女の子よりもさっぱりしてたあの子な」
「そう。その亜以子さん」
部長は思い出しながらのどを鳴らす。
「いやー、懐かしいな。社長が社長になってから、しばらくして辞めたんだっけ?」
「そう。それで、今働いてる小料理屋さんで、女将を継ぐんだって。そのお祝いに行ってきた」
「へえ、そりゃすごい。元気だったか?」
「大変そうだけど、なんとかやってるみたいだよ」
「そうかそうか。そいつぁなによりだ」
「……あ、優希。ANYANグループからなんか連絡きた?」
声をかけようとしたメイコの前を通り過ぎ、優希が座る奥のデスクに向かう。優希はイスに座ったまま後ろに下がって答えた。
「来てますよ。最近、格安店、大衆店で盗撮が流行ってるから気を付けてほしいって。盗撮にかかわってるようなサイトのリンクがいくつかのってました。確認されますか?」
パソコンに手を向ける優希に、首を振る。
「いや、今日はいい。確認はしたいから内容はちゃんと保管しといて」
「了解で~す」
振り向けば、びくりと震えるメイコと目が合った。メイコが先ほどからそわそわとしていたことには、当然気づいている。
「どうした、メイコさん」
「あ、その……」
律はリビングに隣接している洋室に手を向け、進み始めた。そのあとを、メイコが追う。
引き分け戸が開きっぱなしになっているその向こうで、ローテーブルを挟むようソファが置かれている。そこは、主に女の子との面接や面談で利用される場所だ。
足を踏み入れてすぐ、メイコは謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ありません。今日は三人ほど、お客さんがついていない状況で帰らせることになりました」
「この雨だからな。しょうがないよ」
座るよう促されたメイコは、先にソファに腰掛ける。その正面に律が座った。
メイコが待っていた「Sweet Platinum」の社長。その正体こそ、「Aquarius」の稼ぎ頭である律だった。
「それで? ほかにもあるんだろ?」
前のめりに尋ねる。メイコを見据える律の顔に、ホストのような笑みは一切浮かばない。
メイコは自信なさげにうなずいた。
「はい。それほど重要では、ないんですが……」
「昼間の面接のこと? 不合格?」
「はい……」
「理由は?」
苦々しい顔を伏せるメイコは、目を泳がせてためらいながらも答えた。
「顔の、やけどです」
その言葉に、律が大きな反応を示すことはない。
「メイコさんが断ったってことは、化粧で何とかできるレベルでもなかったってこと?」
「はい。そのうえ、体にも複数傷があるようで……」
その表情で、どれだけひどいやけどだったかを察し、息をつく。
「採用担当はメイコさんだから。メイコさんが決めたことなら異存はないよ。こっちも商売だ。慈善事業じゃない。デリヘルだからこそ、容姿は大事。女性なら誰でもいいわけじゃない。メイコさんもそれをわかってるから、落としたんだろ?」
メイコは返事をせず、ただ、悩まし気に眉を寄せる。
「メイコさんは優しいうえに直接対応してるから、いろいろ思うところがあるのはわかる。でも、それとこれとは話が別。切り離して考えて」
デリヘル会社の社長として放たれた言葉に、無理やり感情を押し込めてうなずくしかなかった。




