表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
律と欲望の夜  作者: 冷泉 伽夜
第三夜 静寂と沈黙の雨
77/82

白鳥の暖簾 2


 うなずく近澤はお猪口に酒を注ぎ、一気に飲み干す。大口を開けて雑炊をほおばった。


「新人で、繊細な子だったんだ。警察が絡むと、いろんなこと、根掘り葉掘り聞かれることになるだろ。盗撮された映像を確認されることにもなるし。女性警官が全部対処してくれるわけでもない」


「女の子が映ってる動画は削除できました?」


「ああ。もちろん、バックアップされてたやつも全部ね」


 鉢を手に持ち、レンゲをひょいひょいと口に運んでいく。


「うちとしては、警察沙汰にしてとっ捕まえてやりたかったんだけどね。若い学生さんってのもあって、やっぱり身バレを気にするんだよ。実際、そこまで心配する必要もないんだけど」


「女の子は今どうしてます?」


「辞めたよ。あんな被害に合うのがわかってて続けるような仕事じゃないしね」


 しゃべっているのは近澤なのに、食べるのは律よりも早い。


 律はまだ半分しか食べていないのに、カウンターに置かれた近澤の鉢は空になっていた。


「あんたのところは客層がいいから大丈夫だと思うけど、気を付けるに越したことはないよ。女の子に自衛するよう言い聞かせておきな」


 紙ナプキンで口元を拭き、近澤は腰を上げる。


「なにか進展があったらまた連絡する」


 洗い終えた皿を拭いていた女性が手を止め、レザー調のキャッシュトレーを差し出した。


「ありがとうございました、近澤さん」


 カードで支払いを済ませ、領収書を手に入れた近澤は手を振る。


「見送りは良いわ。明日からまたがんばって」


「はい、ありがとうございます」


 近澤が店を出ていくと、店内は静寂に包まれた。立ったまま帳簿の確認をしていた中年の女性が、重い息をつく。


「ごめんなさいね、ちょっと座らせてくれる?」


 トレーをしまった女性がすぐに丸椅子を用意し、中年女性をゆっくりと座らせた。後片付けを進める女性を横目に、中年女性は律と目を合わせる。


「おいしいでしょ、雑炊。この店の、看板メニューなの」


 ほほ笑むその人に、律は眉尻を下げた。


「そんなことより体調はいかがですか、(みどり)さん」


「ひどいわ。そんなことよりって」


 翠は口に手を当て、上品に笑う。その手は黒いニトリル手袋に覆われていた。


「このとおり、体にガタが来ちゃって。残念だけど、ここから離れなきゃいけなくなっちゃった」


 翠は首元に巻いたスカーフに触れた。なるだけ明るい声色を出していたが、店内はしんみりとした空気につつまれていく。そんな空気を、律の茶化す声が切り裂いた。


「翠さんのことだから、体調落ち着いたらすぐ別の店始めて、医者の言うこと聞かずにカウンターで料理作ってんじゃないの?」


「やだ! なんでわかるの?」


 お茶目に笑う翠に、皿を拭く女性が苦笑する。


「難儀よね~、この体質。立ち仕事に向いてないんだもの。店が忙しくなってちょっと頑張ったら、すぐに壊れちゃうの」


「翠さんは飲食店が天職なのにね」


「ほんとよ~、ま、でも、この子がいてくれれば、この店も安泰だもの。私はお役御免だわ」


 律に背を向けて皿をしまっていく女性が、あきれた口調で返す。


「なに言ってるんですか。こっちは不安でしょうがないのに」


「あなたなら大丈夫よ。これまでたくさんがんばったもの。私がいないときも一人で切り盛りできてたし。安心して任せられるわ」


「でも、翠さんが明日から来なくなるのは、やっぱりさびしいですよ」


 この店を今まで切り盛りしていたのは、女将(おかみ)である翠だ。しかしそれも今日で最後。明日からは、一回り若い女性にすべての立場と責任が移る。


 そのため、今日はなじみの客がそろって押し寄せていた。それぞれの客が、今までの翠の仕事をねぎらい、若女将(おかみ)を励まして帰っている。


「ごちそうさまでした」


 ちょうどいい温度になった雑炊をかき込んで、手を合わせる。早々に席を立てば、翠が見上げてにっこりと笑った。


「タクシーはもう呼んでるから。そろそろ来る頃合いじゃないかしら」


「お気遣い、ありがとうございます」


「こちらこそ、ありがとう。この店で、最後の最後まで、お客様とかかわることができてうれしいわ」


 名残惜しそうな声色に、律はしっかりと念を押す。


「翠さん、ちゃんと療養に集中してくださいね。無茶(むちゃ)してまたお店に立とうなんてしないこと。そうじゃなきゃ、旦那さんが生きた心地、しないでしょうから」


「はいはい。わかってますよ、律くん」


 作業を終えた若女将(おかみ)が体を向けると、律はジャケットの内ポケットから白い封筒を取り、差し出した。しかし若女将(おかみ)は両手を前に出す。


「いや、いいって。ごちそうするって言ったでしょ」


「お祝いだから。受け取って」


 強く突きつける律に、短く息をついた。


「……そう。お祝い、ね。では、ありがたく」


 頭を下げてうやうやしく受け取るその姿は、両手の指先にまで品の良さをにじませている。


「今からお店? スタッフのみんなは元気?」


「うん、元気だよ。若いスタッフも入ったし、部長は相変わらずふんぞり返ってる」


「メイコはどう? 続いてる?」


「続いてるよ。今じゃ採用担当だし、ドライバーとしても優秀」


「へえ? 昔は人一倍おとなしくて、どんなお客さまにもおどおどしてるような子だったのに」


 明日から一人前の女将(おかみ)として切り盛りしていかなければならない彼女は、過去をかみしめるように何度もうなずく。


「雑炊、おいしかったよ」


 若女将(おかみ)は律を見ながら目をぱちくりとしていた。律の顔には、女性の記憶にあるのと何も変わらない、すべてを包み込む優しい笑みが浮かんでいる。それは、無条件に背中を押してくれた。


「明日から頑張れ、新女将(おかみ)


 律は視線を、座っている翠に移す。年齢を重ねてもかわいらしい笑みを浮かべて手を振るその人に、深々と頭を下げた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ