白鳥の暖簾 2
うなずく近澤はお猪口に酒を注ぎ、一気に飲み干す。大口を開けて雑炊をほおばった。
「新人で、繊細な子だったんだ。警察が絡むと、いろんなこと、根掘り葉掘り聞かれることになるだろ。盗撮された映像を確認されることにもなるし。女性警官が全部対処してくれるわけでもない」
「女の子が映ってる動画は削除できました?」
「ああ。もちろん、バックアップされてたやつも全部ね」
鉢を手に持ち、レンゲをひょいひょいと口に運んでいく。
「うちとしては、警察沙汰にしてとっ捕まえてやりたかったんだけどね。若い学生さんってのもあって、やっぱり身バレを気にするんだよ。実際、そこまで心配する必要もないんだけど」
「女の子は今どうしてます?」
「辞めたよ。あんな被害に合うのがわかってて続けるような仕事じゃないしね」
しゃべっているのは近澤なのに、食べるのは律よりも早い。
律はまだ半分しか食べていないのに、カウンターに置かれた近澤の鉢は空になっていた。
「あんたのところは客層がいいから大丈夫だと思うけど、気を付けるに越したことはないよ。女の子に自衛するよう言い聞かせておきな」
紙ナプキンで口元を拭き、近澤は腰を上げる。
「なにか進展があったらまた連絡する」
洗い終えた皿を拭いていた女性が手を止め、レザー調のキャッシュトレーを差し出した。
「ありがとうございました、近澤さん」
カードで支払いを済ませ、領収書を手に入れた近澤は手を振る。
「見送りは良いわ。明日からまたがんばって」
「はい、ありがとうございます」
近澤が店を出ていくと、店内は静寂に包まれた。立ったまま帳簿の確認をしていた中年の女性が、重い息をつく。
「ごめんなさいね、ちょっと座らせてくれる?」
トレーをしまった女性がすぐに丸椅子を用意し、中年女性をゆっくりと座らせた。後片付けを進める女性を横目に、中年女性は律と目を合わせる。
「おいしいでしょ、雑炊。この店の、看板メニューなの」
ほほ笑むその人に、律は眉尻を下げた。
「そんなことより体調はいかがですか、翠さん」
「ひどいわ。そんなことよりって」
翠は口に手を当て、上品に笑う。その手は黒いニトリル手袋に覆われていた。
「このとおり、体にガタが来ちゃって。残念だけど、ここから離れなきゃいけなくなっちゃった」
翠は首元に巻いたスカーフに触れた。なるだけ明るい声色を出していたが、店内はしんみりとした空気につつまれていく。そんな空気を、律の茶化す声が切り裂いた。
「翠さんのことだから、体調落ち着いたらすぐ別の店始めて、医者の言うこと聞かずにカウンターで料理作ってんじゃないの?」
「やだ! なんでわかるの?」
お茶目に笑う翠に、皿を拭く女性が苦笑する。
「難儀よね~、この体質。立ち仕事に向いてないんだもの。店が忙しくなってちょっと頑張ったら、すぐに壊れちゃうの」
「翠さんは飲食店が天職なのにね」
「ほんとよ~、ま、でも、この子がいてくれれば、この店も安泰だもの。私はお役御免だわ」
律に背を向けて皿をしまっていく女性が、あきれた口調で返す。
「なに言ってるんですか。こっちは不安でしょうがないのに」
「あなたなら大丈夫よ。これまでたくさんがんばったもの。私がいないときも一人で切り盛りできてたし。安心して任せられるわ」
「でも、翠さんが明日から来なくなるのは、やっぱりさびしいですよ」
この店を今まで切り盛りしていたのは、女将である翠だ。しかしそれも今日で最後。明日からは、一回り若い女性にすべての立場と責任が移る。
そのため、今日はなじみの客がそろって押し寄せていた。それぞれの客が、今までの翠の仕事をねぎらい、若女将を励まして帰っている。
「ごちそうさまでした」
ちょうどいい温度になった雑炊をかき込んで、手を合わせる。早々に席を立てば、翠が見上げてにっこりと笑った。
「タクシーはもう呼んでるから。そろそろ来る頃合いじゃないかしら」
「お気遣い、ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう。この店で、最後の最後まで、お客様とかかわることができてうれしいわ」
名残惜しそうな声色に、律はしっかりと念を押す。
「翠さん、ちゃんと療養に集中してくださいね。無茶してまたお店に立とうなんてしないこと。そうじゃなきゃ、旦那さんが生きた心地、しないでしょうから」
「はいはい。わかってますよ、律くん」
作業を終えた若女将が体を向けると、律はジャケットの内ポケットから白い封筒を取り、差し出した。しかし若女将は両手を前に出す。
「いや、いいって。ごちそうするって言ったでしょ」
「お祝いだから。受け取って」
強く突きつける律に、短く息をついた。
「……そう。お祝い、ね。では、ありがたく」
頭を下げてうやうやしく受け取るその姿は、両手の指先にまで品の良さをにじませている。
「今からお店? スタッフのみんなは元気?」
「うん、元気だよ。若いスタッフも入ったし、部長は相変わらずふんぞり返ってる」
「メイコはどう? 続いてる?」
「続いてるよ。今じゃ採用担当だし、ドライバーとしても優秀」
「へえ? 昔は人一倍おとなしくて、どんなお客さまにもおどおどしてるような子だったのに」
明日から一人前の女将として切り盛りしていかなければならない彼女は、過去をかみしめるように何度もうなずく。
「雑炊、おいしかったよ」
若女将は律を見ながら目をぱちくりとしていた。律の顔には、女性の記憶にあるのと何も変わらない、すべてを包み込む優しい笑みが浮かんでいる。それは、無条件に背中を押してくれた。
「明日から頑張れ、新女将」
律は視線を、座っている翠に移す。年齢を重ねてもかわいらしい笑みを浮かべて手を振るその人に、深々と頭を下げた。




