鈴の鳴る夜 2
「こんばんはぁ、スズです。おとなり失礼しまぁす」
この店にいるどの女性よりも、少女らしい声だった。文字通り、鈴がリンリンと鳴るような高い声。年齢は重ねているようだが多く見積もっても三十代。ピンクのペプラムドレスでかわいらしい印象だ。
テーブルに置かれたグラスを見て、ツバキが座っていた場所とは逆側に、律を挟むようにして座る。
「指名されたって聞いてびっくりしちゃった。えーと」
「律です」
「そうだよね。よろしくね、律くん」
その声は、卓の中によく通った。ホストたちの声でにぎやかだった卓が、異物が紛れ込んだとでも言いたげに、どんどん静かになっていく。
「みなさん同じお仕事の人なのかな?」
スズが周りを見回すが、ホストたちはニヤニヤと笑いながら誰も答えようとしない。唯一、穏やかにほほ笑んでいる律が答える。
「そうそう。みんな同じ店のホストだよ」
「どうして律くんだけがスーツなのか、聞いてもいい?」
「このあと仕事が残っちゃってて」
「え? この雨の中まだお仕事行くの?」
「そうそう。こう見えて人気者だからね~。あ、なんか飲む? シャンパンがきついなら、ほかのドリンクでもいいよ?」
「ううん、律くんとツバキちゃんさえよければシャンパンがいいな。一緒に飲んでもいい?」
「ありがと~、すごい助かる。こう見えて弱いほうだから」
ボトルに手を伸ばした律をスズが止め、持ち上げる。律のグラスに少し、自身のグラスには多めに注いでクーラーに戻した。
「こちらこそありがとう! 私、お酒大好きなんだっ。律くん、ここはホストだからってかっこつけずにお姉さんを頼りな~?」
持ち上げたグラスを、置かれたままの律のグラスに軽く当て、勢いよくあおった。その飲みっぷりに、律は思わず手を叩く。
「おお~さすがぁ!」
「いや~、律さん、趣味悪すぎるっしょ」
一気に飲みほしたスズとともに、卓席の奥へと顔を向ける。
そこに座る男は、アルコールの影響をもろに受けていた。真っ赤にした顔でしゃくりあげながら、馬鹿にするような笑みを浮かべている。
「大丈夫か、おまえ。あんま見栄張って飲みすぎんなよ」
心にもない律の言葉に応えることなく、グラスを持つ手でスズを指さした。
「その人、絶対年いってるじゃあないすか。おばさんのくせにその声はきついって。ツバキちゃんに比べていいとこないでしょぉ」
卓についている女性たちが困惑した目を男に向けている。それすら察せない男の頭を冷やしてやろうと口を開くが、甲高い声に遮られた。
「ひどーい! こんなきれいなおばちゃんどこ探したっていないのよ! 律くんってばセンスあるよね~!」
下手な説教より酔いがさめる声だ。律が口角を上げる一方、男は不快げに頭をおさえる。
「いやマジで黙れし、耳おかしくなっから。ってか店もやばいだろこんなの雇うなんて」
「黙るのはおまえだろ、酔っ払い」
今度は芯の通った声が突き刺さる。男の頬が、ぎこちなくひきつった。
一方、律の顔に浮かぶ笑みは、光を放つほどに美しい。
「さっきからクソつまんねえぞ、空気読めよ。ホストならどんなときでも盛り上げてなんぼだろ」
柔らかい雰囲気に反して突き刺すのは、背筋を凍らせるほどの冷ややかな毒だ。紅潮していた男の顔が、じょじょに青味を増していく。
「盛り下げてどうすんだよ、クソだせえな。そんなんだから上に登れないんだぞ? お姉さんたちから、勉強させてもらいな、ぼうや」
殺伐とした圧が強くのしかかり、卓に座るホスト全員が押し黙る。だれも、なにも反論できない。
これで少しは酔いがさめれば――と、律はスズに向き直った。
「ごめんね~、品がないやつらばっかりで~」
「いいよいいよぉ、たまにはハメ外したいよねぇ」
沈んだ卓席を照らすように、スズの笑顔と高い声が放たれる。
「同業だからわかるよぉ。こういう場所だと甘えたくなっちゃうもんね」
その明るさに同調し、ほかの女性たちもホストたちのフォローに回った。じょじょに、普段通りのにぎやかさを見せていく。
スズはとっくにおかわりを注ぎ、口をつけていた。
「それで? どうしてわたしのこと指名したの?」
先ほど絡まれたことを気にしてか、その声を抑えている。
「決まってるじゃん。スズさんのことが気になったからだよ」
「Aquariusの、ナンバーワンが?」
老舗の高級ホストクラブ「Aquarius」。全国展開を行う名高い「constellation group」の一号店。開業時からモットーとして掲げる、「紳士的で品のあるおもてなし」を今でも守り続ける名店だ。
そこで、売り上げ指名ともに一位として周知されているのが律だった。東洋一の歓楽街と呼ばれるこの場所で、その名前を知らない者はいない。
「もしかして、俺に指名されるの嫌だった?」
「いやいや、違う違う!」
スズは苦笑しながら手を振る。
「純粋に気になっただけだよ。ほかにも美人でいい子はたくさんいるし、そもそもツバキちゃんを指名してるんでしょ? なんでわざわざ私まで指名したのかなって」
ホストと同じように指名を取り、売り上げを積み上げていくのがキャバ嬢の仕事だ。とはいえ、会ったことも話したこともない相手からいきなり指名されれば、やはり不審に思うものだった。
その相手が伝説級のホストともなればなおさら。
カモとして店に引きずり込もうとしているのではないかと身構えてしまう。
「安心して。スズさんのことどうこうしようなんて考えてないから」
スズの警戒心を見透かしたうえで、器用に距離を縮めていく。
「さっき、キャッシャーのとこの窓から外見てたでしょ? そのときのスズさんから目が離せなくて」
「え~? やだ~。すごい気ぃ抜いちゃってるときだ。恥ずかし~」
頬に手を当てるスズは、酔いも相まって赤面する。一方、律は余裕のある完璧な笑みを崩さない。
「スズさんと少しでもお話できたらいいなあって思ったんだ。ツバキちゃんがほかの席に呼ばれたから、今しかない! って思って指名しちゃった」
「あはは、そうやって女心をつかむんだ? さすがナンバーワンだなぁ」
スズを見つめる律の口から、ひときわ真剣な声が放たれた。
「で? なにか、悩んでることでもあるの?」
「え?」
目をぱちくりとさせたスズに身を寄せ、周囲を一度見渡し、声を抑える。
「すごく、思いつめた顔してたよ。心ここにあらずって感じで」
独特の高い声は、返ってこなかった。多彩な表情を見せていたその顔は硬くなり、息をつく。グラスを手にしたまま、ソファの背もたれに身を預けた。
「私のこと、心配して指名したってこと?」
「うん。あと、見送りの声がすごく魅力的だったから」
「それは後付けだな?」
からかうような笑みを見せるスズに合わせ、律もほほ笑む。
スズの笑みは長くは続かず、神妙なものへと変わっていった。
「さっきは、考え事してたんだ。息子のことで、ちょっとね」
「へえ? お子さんいるんだ?」
「そ。今十二歳。小学六年生」
「えっ。そんなに大きいの? てっきり二、三歳くらいかと」
「あははっ。私もまだまだ若く見えるってことかな? でも、息子と私、そんなに身長かわんないんだよ~?」
自身の頭に手をかざし、おどけてみせた。
「今までずっと、一人で育ててきたの。この仕事でね」
かわいらしい声色だが、かすかに寂しさをにじませる。律も声のトーンを落としていた。
「めちゃくちゃ大変だったんじゃない?」
「そうだね。うちは、ずっと二人だったから。両親とも疎遠だし、頼ることもできなくて。小学生になってからはずっと、一人で家にいてもらうしかなくて」
声ににじみ出る感情が、ぐっと沈んでいく。その目は何かを思い出すように、宙を見つめていた。
「やっぱり、それがよくなかったのかなぁ。こんな夜にもずっと、一人で我慢させ続けてたから。雨の日はいつも、今日は行かないでって止めてくるの。すっごい泣きじゃくりながら」
「小学六年生で?」
「そう。六年生で。雷が怖くて眠れないんだって。雷が鳴ってるときはいつも、布団にくるまって震えてるんだって。母親と身長が変わらない、男の子がだよ?」
「そっかぁ。まあ、男の子でも怖いものは怖いからね」
律が手に取って口にするのは、チェイサーだ。
「とはいえ、お母さんとしては気が気じゃないよね。しばらく雨が続くみたいだし、これから梅雨も来るから……」
「うん。ますます、ごねられるんだろうな。気が重いよ」
スズの顔に浮かぶ笑みは、キャバ嬢として男に向き合う笑みではない。そこには、どうしようもない後悔とむなしさが渦巻いている。
「最近ね、このままでいいのかなあって、考えるんだ。このまま、我慢させ続けてもいいのかなあって」
「母親なんだから、一緒にいてあげるべきなんじゃないかって?」
「そう。これまでずっと我慢させてきたのに、これからも我慢させるの? って。子供が子供でいる時期が限られてるのに、今してほしいことをしてあげられないままでいいの? って」
「でも、生活のためには出勤して頑張らなきゃいけないよね」
「そう。……そうなの。お金も、必要だから……」
「自分の子どもだからこそ、不自由なく育ててあげたいし。たとえ、寂しい思いをさせたとしても、お金で困らせちゃったら元も子もない。とも思ってるんだよね?」
「うん」
バツの悪い顔を浮かべるスズに対し、律はとびきり、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「そうやって悩むってことはさ、お子さんのこと、大事に思ってるからこそだよね。仕事中に、雷見て心配するくらいにさ」
「そりゃそうだよ。一人息子だもん」
「えらいなあ、スズさんは。ほんとうはお子さんのそばにいたいのに我慢して、今日もしっかり働いてるんだもん。いいお母さんだ」
「そう、かな。でも、私なんて、他の母親に比べたら、さ」
声色に覇気がなく、たどたどしい。不安に染まる顔で、自身のグラスを見下ろす。
律は先ほどから、ジャケットの内でスマホが震えているのを感じ取っていた。だがスズの前で取りだすことはない。
「自分がどうすべきで、どうしたいのか。……答えは、じっくりと考えて出せばいいよ。どちらを選んでも、きっとスズさんなら、うまくやっていけると思うから」
ハッと顔をあげ、大きく開いた目で律を見すえる。口に手を当てて呆然としたまま、返事をすることはなかった。




