鈴の鳴る夜 1
下卑た酔っぱらいの大声と、媚びた女の猫なで声がいたるところから聞こえてくる。
盛り上がる卓席の手前側に座る律は、品の良さを漂わせる所作でシャンパングラスに口をつけた。
「来る? 来る? 俺の名刺渡しとくから! 来たときは俺指名で」
奥に座っている男の騒がしい声が耳に突き刺さり、ため息をつく。
卓に座るほかの男たちは、同僚だ。私服をハイブランドで固めており、シャンパンを頼んではグビグビと飲み散らかしていく。
唯一、仕事用のスーツに身を包んでいる律は、そのようなどんちゃん騒ぎに入っていこうとしない。
「全然飲んでねえじゃん! キャバ嬢なら飲まなきゃ~」
女の子たちが苦笑しているにもかかわらず、同僚は空いているグラスにどんどん入れていく。
「だめだよ~、キャバ嬢だったら酒に強いか、面白い話ができるかじゃないと。この世界やってけないよ~? もっとプロ意識持ちな?」
ここはキャバクラ「織り姫」。男たちが来た目的は、営業返しだ。
ホストである男たちは、この店に務めるキャバ嬢に売り上げを貢献してもらっている。そのお礼として、今度は自分が売り上げに貢献しているのだ。
キャバクラもホストクラブも雨の日は客足が遠のき、ノーゲス(客が一人も来ない状態)も珍しくない。律が務めるホストクラブも例外ではなく、これ幸いと仕事を休んで営業返しに向かうホストが少なくなかった。
律の太客もこの店に務めているため、同僚から飲みに誘われた際には珍しく了承した。それがこのザマだ。
「も~、みーくん飲みすぎ。大丈夫なの?」
「余裕余裕。こちとらこれくらい飲まないとホストできないんだわ」
「さっすがみーくん! かっこいい~」
キャバ嬢からすれば、ホストは接客を避けたい相手だ。
営業返しに営業目的。飲み方も汚ければガラも悪い。そのくせ売れてないホストに至っては話がつまらない。客になりそうかどうか見極めに来るくせに、自分が誰かを指名して通うつもりはない。
キャバ嬢には全部、見透かされている。
律はグラスをあおった。となりに座る律の指名、ツバキが眼前にあるボトルを持ち上げ、グラスへ注いでいく。奥に座る男とは別に、律が個人で頼んだものだ。
胸元が大きく開いたタイトドレスを着るツバキは、眉尻を下げながら身を寄せる。
「ねえ。さっきから一人で飲んでるけど、大丈夫? 無理してない?」
「あちゃ~、ツバキちゃんには気づかれちゃったかぁ」
アイドルや俳優にも負けない整った顔で、お茶目に笑う。
律が入店したときから隣に座るツバキは、気が気でなかった。奥に座るホストから飲むよう強要されたツバキの代わりに、シャンパンを何度も飲み干しているのだ。
元来酒が強いわけではない律は、すでに限界を迎えていた。肌に合わないこの卓席から、いったん離れたい。
ツバキに耳打ちし、立ち上がる。卓を抜けた律のあとに、ツバキも続いた。
キャッシャーの前を通りすぎ、壁にある小窓の景色に目が留まる。いつもなら鮮明に見えるはずの繁華街が、大粒の雨に打たれてにじんでいた。
となりにいるツバキも同じように顔を向ける。
「雨、ひどくなってきたね」
「ね」
そのとき、窓の向こうで稲光が走り、轟音が続いた。
「きゃっ、こわーい」
ふざけて腕に絡みついてきたツバキに、苦笑しながら「はいはい」とあしらう。
「あのさあ、あの子俺の席につけないでくれる?」
イラ立ちのこもった男の声に、二人はキャッシャーへ顔を向けた。中年の男性客がカウンターにひじを置いてのしかかっている。背後にある出入り口を指さし、中にいる受付の女性にクレームを入れていた。
「あの子もうおばちゃんじゃん。ババアよ、ババア。いい年こいてフリフリのドレス着て、恥ずかしいと思わんかね。しかもあのキイキイ声……もう鳥肌もんだよ」
律は、男が指をさす出入口に視線を移す。その先は、エレベーターにつながるホールとなっていた。乗り込む客を見送る女の子たちが、お礼を言いながらお辞儀をしている。
そのうち、まるでアニメ声優のような高い声が耳についた。
「ごちそうさまで~す。ありがとうございました~」
声の持ち主はキャバ嬢たちの中でも背の低い、童顔の女性だ。
「こっちは若い女の子と酒飲みたくて来てんの。ああいうおばちゃん視界に入れたくないわけ。いい酒下ろしたってあの子が席に着くとまずくなんだよね」
律は男に視線を戻し、ため息をつく。
――飲み屋には、いろいろな客が来るものだ。神のような客か質の悪い客か、属性や年齢では区別できない。
「じゃ、ツバキちゃんちょっと待ってて」
ツバキの肩を軽くたたき、キャッシャーに背を向ける。奥にある男子トイレへ入っていった。
小便器を過ぎて個室にこもった瞬間、先ほどの余裕は一切消え失せる。青白く力の抜けた顔で、胃にたまったアルコールを便器の中に吐き出した。
胃酸まじりの液体が食道をせりあがる感覚に、格好つけて飲みすぎたことを盛大に後悔する。
吐き出すものをすべて吐き出し、肩で呼吸しながら水を流した。ジャケットから取り出したハンカチで口元をおさえる。
げっそりとした顔のまま手を洗い、鏡に映る弱弱しい自分の顔を見つめた。あの卓席に戻りたくはないが、ツバキを一人で待たせ続けるわけにはいかない。
なんとかいつもの凛々しい表情に戻し、トイレを後にした。
フロアに出た瞬間、立ち止まる。待っていたツバキがおしぼりを差し出してきた。受け取りつつ、その視線は小窓のほうへ向かう。
そこにはあの小柄な女性がたたずみ、外の景色をぼうっと眺めていた。
窓の向こうは、あいかわらずの雨模様。ときおり、遠くで稲光が走る。疲れ切った女性の顔が照らされ、暗闇に戻る窓に映しだされていた。
「ちょっとぉ。なに見惚れてんのぉ」
ひじを打つツバキに、「えぇ?」と笑みを浮かべる。
「なんだよ、嫉妬か?」
「浮気は許しませんからね!」
小窓にたたずむ女性を一瞥しつつ、腕を組んできたツバキと一緒に卓へ戻っていく。
卓席はあいかわらず、くだらないホストたちのノリに、キャバ嬢たちがおべっかを並べて盛り立てていた。律が疲れていることを察したツバキは、用意したチェイサーをグラスの横に置く。
「ツバキさん、お願いします」
小走りで近づいてきたスタッフに呼びだされ、申し訳なさげに手を合わせた。
「ごめん律。行かなきゃ」
「全然いいよ。ツバキちゃんも人気者だな~」
「もうちょっと寂しがってくれてもいいんですけど?」
唇を尖らせて腰をあげかけたそのとき、律が手を出して制する。
「あのさ。さっき、窓のそばに立ってた女の子、名前なんていうの?」
とたんにツバキはムッとする。
「なんで知りたいの?」
「ツバキちゃんが戻ってこないあいだ相手してもらおうと思って」
悪びれもせずほほ笑む律に、頬をむくれさせた。
「そんなの必要ない! すぐに戻ってくるもん!」
「いいや、戻らないね、この感じなら」
「ツバキさん!」
スタッフに早く出て来いとせかされるツバキは、スタッフと律を交互に見ながら不満げに続けた。
「指名料が上乗せされるんだよ? いいの?」
「いいよ」
「私が戻ってきても交代されないんだよ?」
「いいよ」
「え~? 二人でいたい私の気持ちわかんないかなぁ?」
「ツバキさん!」
スタッフの声に、イラ立ちがにじんでくる。律が追い打ちをかけるよう返した。
「大丈夫だよ、ツバキちゃん。売り上げ減らないようもう一本シャンパン下ろすから」
「そういうことじゃないんだけどなぁ。……まあいいや。あの人はね、スズさんっていうの」
仕方なしに答えたツバキはサッと立ち上がり、スタッフのもとへと向かっていった。
しばらくして、シャンパンを運んでくるスタッフの後ろに、小柄な女性がついてくる。先ほど小窓から外を眺めていたあの女性で間違いない。
卓席を覗き込んで律の顔を見た彼女は、笑みを浮かべながらも困惑しているようだった。




