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律と欲望の夜  作者: 冷泉 伽夜
第二夜 酒も女も金も男も
63/73

心からの謝罪とお節介 1




 事務所の洋室で、女性の泣き声が響いている。カナがソファに座り、顔を覆いながら嗚咽を漏らしていた。


 いつかと同じような光景だ。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 その正面には部長が座っている。タオルを巻いた保冷剤をメイコから受け取った。殴られた場所に押し当て、痛みに声を漏らす。


「ほんとうに、ごめんなさい……」


「いや、カナさんのせいじゃない。こっちの不手際だ」


 気を遣わせないよう、部長は笑う。


「まさか旦那が入会してるだなんて思わなかったから。カナさんに嫌な思いさせちまったな。もっと気を付ければよかったよ」


「ごめんなさい……」


 泣き止む気配のないカナに、部長は穏やかに続ける。


「さっきは、よくがんばったじゃないか」


 先ほどカナの夫に向けたものとは違う、温かい声だ。


「温厚なカナさんのことだから、言われぱなしなんじゃないかって心配してたんだ。言うときゃ言えるんだな。ちゃんと言い返せて、かっこよかったよ」


「でも……でも……」


 カナはあふれでる涙を手の甲でぬぐう。


「俺のことは気にすんな。こう見えて体は丈夫なんだ。俺よりカナさんのほうが大変だろ。大丈夫なのか? 帰ったらあの旦那がいるんだろ?」


 返事をせず、一向に泣き止まないカナの姿に、部長はどうしたものかと頭をいた。


「お疲れさまー」


 必死になだめている最中、事務所内に律の声が響く。泣き声に導かれるように、洋室をのぞいてきた。


 律は女性向けの輝かしい笑みを浮かべ、穏やかに尋ねる。


「あれ? どうしたんですか、カナさん」


 カナは答えない。とても話せる状況ではない。だが頬を抑える部長の姿を見れば、トラブルがあったことは明白だ。


「あの、社長」


 洋室を出たメイコが、おそるおそる頭を下げた。


「申し訳ありません」


「……なに? なにが?」


 洋室の中を一瞥いちべつし、メイコの体に触れ、洋室から一緒に離れるよう促す。ダイニングキッチンに入ると、メイコがバツの悪い表情を浮かべ、口を開いた。


「実は……」


 カナには聞こえないよう声を押さえて、先ほどの状況を説明する。


 律は眉間にしわを寄せて聞いていた。腕を組み、真剣な口調で返す。


「でも、入会時に客の面接はしたんだよね? そのときに旦那さんだって気づかなかった?」


「それが……お会いした場所は高級ホテルでしたし、身なりもきちんとしておられたので」


「カナさんの本名と名字一緒だったんじゃないの?」


「それが、面接で聞いた話の内容が、すべてでたらめで……」


「はあ?」


 声色が明らかに変わった律に、メイコは再び頭を下げた。


「申し訳ありません。確認作業をもっと念入りにするべきでした」


「……いや。いくら会員制でも身分証を強制的に提出してもらうことはできないからね。こういうことは起こりうることだよ」


 頭を上げたメイコの顔は青く、律の叱責しっせきを覚悟している。


「今回はかなりタイミングが悪かったね。はちあわせるっていう最悪なパターンだ。もっと対策を練らないと」


 メイコは自身の手首をぎゅっと握りながら返す。


「とりあえず、全店出禁の対応を取りました。ブラックリスト入りです」


「まあ、それが店としてできる限界だよね」


 律はため息をつき、洋室に向かう。


 中をのぞき、頬をおさえる部長を見て、ほほ笑んだ。


「部長、身を挺してカナさんを守ったんだって? すごいじゃん」


 中に入り、部長のとなりに座る。カナを見すえ、息をついた。


「さて」


 落ち着いた表情で、冷静に続ける。


「メイコさんから事情は聴きました。今回は、カナさんに配慮が足りず、申し訳ありませんでした。全従業員を代表しておびいたします」


 深々と頭を下げる律に、カナは首を振る。声を出そうにも、漏れるのは嗚咽だけで、うまく言葉が出てこない。


 律は両ひざに手を置き、深々と頭を下げたまま続ける。


「身内とはち合わせてしまうのは、あってはならない事態です。この件を踏まえて女性のプライバシーの保護に、よりいっそう、力を入れていくつもりです」


「ちが……違います……。店のせいじゃ、ないんです」


 ぽろぽろと涙を流しながら、カナはゆっくりと言葉を出していく。


「夫が、悪くて……私の知らないうちに新しいスマホを買ってて、自分のことも経営者だって見得はって……。本当は借金まみれなのに……。旦那が、店をだましてたんです。ほんとうに、ごめんなさい……」


 顔を上げた律は、首を振る。


「カナさんが謝ることじゃないですよ。こちらの責任ですから」


 社長らしく落ち着いている律のとなりで、部長は眉尻を下げた。


「なあ、カナさん。社長もこう言ってるんだし、あんたが泣く必要はないんだよ。むしろ怒っていいんだ。俺たちにも、旦那にも。さっきみたいに」


 涙にぬれた顔で部長を見るカナは、必死に首を振った。涙をぬぐいながら、声を出す。

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