厨房での悔恨
スタッフの一人が通報したことで、店に警官が駆け付ける。
頭から血を垂れ流す律を見て、女性はすぐに連行された。最後の最後まで、女性は金切り声をあげながら抵抗していた。
騒動からしばらく、店はいつもどおりのにぎやかさを取り戻す。事態の収拾に徹したスタッフのおかげだ。
律は厨房奥で、丸椅子に座っていた。額の傷をハンカチでおさえながら、ふっ、と柔らかい笑みを浮かべる。
「そんなに見られると止まる血も止まらないんですけど?」
先ほどから律の目の前にたたずんでいるのは、いかつい顔をした店長だ。何も言わず腕を組み、真剣に律を見下ろしている。
「ありがとう、店長。対応が早くて助かったよ」
「……救急車呼ぼうか?」
「呼んでもいいけど、俺は乗らないよ」
店長はため息で返事をした。律はいつもどおりの、愛想のない顔に戻る。
「さすがに救急車来たら大ごとになるだろ」
「バカかおまえ。警察沙汰はもう大ごとなんだよ」
「これ以上騒ぎ立てることもないだろってことだよ」
店長の眉間のしわが、ますます深くなった。
「いいのか? 被害届、出さなくて」
額をおさえたまま、律は店長を見上げる。
「……いいよ。ホストである以上、刺される覚悟はしてるから」
「つっても下手したら死んでたぞ」
「でも死んでないし。彼女まだ若いから、これで学んでくれるといいんだけど」
「おまえ、薄情なやつかと思えば甘ちゃんなところもあるよな」
店長は額に落ちた前髪を後ろに流す。口を開こうとするのを、律がさえぎった。
「店長は悪くねえから。俺は拒否しなかったし、ヘルプを下がらせたのも俺の判断だし」
さっきの女性を責めることもしなければ、店を責める気にもならなかった。わがままを許されているぶん、その判断の責任は自分にある。
「でも、あんなに怒らせるとは思わなかったな。で、このザマ。……だせえなぁ、俺」
律の暗い声とは対照的に、最高潮にご機嫌な声が響き渡った。
「へいへ~い、どうした律~!」
Aquariusのナンバー2であり、部長の志乃がどすどすと近づいてくる。ベビーフェイスが売りの志乃は、下衆に笑っていた。
「俺は今さいっこうに気分が良い! なんてったってあの律がやらかしちゃったんだからなぁ。女から殴られるなんておまえ初めてじゃねぇ?」
「すげえハイテンションじゃん。この酔っ払いが」
志乃はニヤついた顔を律に寄せ、嫌味に告げる。
「頭大丈夫そ? しばらく休んでもらってもいいんですよ? 律のお客さん全部かっさらうんで」
「……今休む気がなくなった」
調子に乗る志乃に、店長の鋭い視線が向いた。
「で? 律の客はどうなったんだ?」
その口調に、志乃の表情は真剣なものに変わる。
「全員お帰りになりましたよ。みなさん事情を察してますから、特にクレームをつける方はいらっしゃらなかったです」
志乃は律を見て、機嫌よく口角を上げた。
「みんないい人ばっかで助かったよ。水掛けたりどなったりするのが一人もいないんだもんな」
「つっても今日は怒鳴られたし殴られたけど。……ちゃんとお見送りもしてあげた?」
「もちろん。ナンバーツーがわざわざ尻拭いしてやったんだからな。感謝しろよ」
「はいはい、ありがと」
瞬間、志乃の顔がゆがむ。
「……素直に礼を言われるのもなんか嫌なんだけど」
「感謝しろって言ったのはそっちだろ。じゃあ、文句言ったほうがよかった? ドMなの?」
「ドMじゃねぇわ」
言いあう二人を前に、店長が耳にはまるイヤホンに手を当てた。他のスタッフに指示を出し、律に顔を向ける。
「おまえ、今日はもう帰れ。この機会にゆっくり休んだらどうだ?」
「……言われなくてもそうするつもりだったよ」
律は立ち上がり、ハンカチを胸ポケットに入れながら出入り口に向かう。その後ろ姿に、店長が声を放った。
「ちゃんと病院いけよ。頭打たれてんだから」
律は振り返らずに手を上げ、返事をせずに出ていく。
「……ありゃいかないでしょ」
志乃の言葉に、店長はため息をつきながらうなずいた。




