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律と欲望の夜  作者: 冷泉 伽夜
第一夜 Executive Player 律
21/73

厨房での悔恨




 スタッフの一人が通報したことで、店に警官が駆け付ける。


 頭から血を垂れ流す律を見て、女性はすぐに連行された。最後の最後まで、女性は金切り声をあげながら抵抗していた。


 騒動からしばらく、店はいつもどおりのにぎやかさを取り戻す。事態の収拾に徹したスタッフのおかげだ。


 律は厨房(ちゅうぼう)奥で、丸椅子に座っていた。額の傷をハンカチでおさえながら、ふっ、と柔らかい笑みを浮かべる。


「そんなに見られると止まる血も止まらないんですけど?」


 先ほどから律の目の前にたたずんでいるのは、いかつい顔をした店長だ。何も言わず腕を組み、真剣に律を見下ろしている。


「ありがとう、店長。対応が早くて助かったよ」


「……救急車呼ぼうか?」


「呼んでもいいけど、俺は乗らないよ」


 店長はため息で返事をした。律はいつもどおりの、愛想のない顔に戻る。


「さすがに救急車来たら大ごとになるだろ」


「バカかおまえ。警察沙汰はもう大ごとなんだよ」


「これ以上騒ぎ立てることもないだろってことだよ」


 店長の眉間のしわが、ますます深くなった。


「いいのか? 被害届、出さなくて」


 額をおさえたまま、律は店長を見上げる。


「……いいよ。ホストである以上、刺される覚悟はしてるから」


「つっても下手したら死んでたぞ」


「でも死んでないし。彼女まだ若いから、これで学んでくれるといいんだけど」


「おまえ、薄情なやつかと思えば甘ちゃんなところもあるよな」


 店長は額に落ちた前髪を後ろに流す。口を開こうとするのを、律がさえぎった。


「店長は悪くねえから。俺は拒否しなかったし、ヘルプを下がらせたのも俺の判断だし」


 さっきの女性を責めることもしなければ、店を責める気にもならなかった。わがままを許されているぶん、その判断の責任は自分にある。


「でも、あんなに怒らせるとは思わなかったな。で、このザマ。……だせえなぁ、俺」


 律の暗い声とは対照的に、最高潮にご機嫌な声が響き渡った。


「へいへ~い、どうした律~!」


 Aquarius(アクエリアス)のナンバー2であり、部長の志乃しのがどすどすと近づいてくる。ベビーフェイスが売りの志乃は、下衆に笑っていた。


「俺は今さいっこうに気分が良い! なんてったってあの律がやらかしちゃったんだからなぁ。女から殴られるなんておまえ初めてじゃねぇ?」


「すげえハイテンションじゃん。この酔っ払いが」


 志乃はニヤついた顔を律に寄せ、嫌味に告げる。


「頭大丈夫そ? しばらく休んでもらってもいいんですよ? 律のお客さん全部かっさらうんで」


「……今休む気がなくなった」


 調子に乗る志乃に、店長の鋭い視線が向いた。


「で? 律の客はどうなったんだ?」


 その口調に、志乃の表情は真剣なものに変わる。


「全員お帰りになりましたよ。みなさん事情を察してますから、特にクレームをつける方はいらっしゃらなかったです」


 志乃は律を見て、機嫌よく口角を上げた。


「みんないい人ばっかで助かったよ。水掛けたりどなったりするのが一人もいないんだもんな」


「つっても今日は怒鳴られたし殴られたけど。……ちゃんとお見送りもしてあげた?」


「もちろん。ナンバーツーがわざわざ尻拭いしてやったんだからな。感謝しろよ」


「はいはい、ありがと」


 瞬間、志乃の顔がゆがむ。


「……素直に礼を言われるのもなんか嫌なんだけど」


「感謝しろって言ったのはそっちだろ。じゃあ、文句言ったほうがよかった? ドMなの?」


「ドMじゃねぇわ」


 言いあう二人を前に、店長が耳にはまるイヤホンに手を当てた。他のスタッフに指示を出し、律に顔を向ける。


「おまえ、今日はもう帰れ。この機会にゆっくり休んだらどうだ?」


「……言われなくてもそうするつもりだったよ」


 律は立ち上がり、ハンカチを胸ポケットに入れながら出入り口に向かう。その後ろ姿に、店長が声を放った。


「ちゃんと病院いけよ。頭打たれてんだから」


 律は振り返らずに手を上げ、返事をせずに出ていく。


「……ありゃいかないでしょ」


 志乃の言葉に、店長はため息をつきながらうなずいた。



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