ボタンの掛け違い 1
律の前を歩いていたスタッフが、立ち止まって振り返る。何事かと見つめる律に、声を潜めて尋ねた。
「次の指名客なんですけど……、律さん、大丈夫ですか?」
「なにが?」
スタッフが奥のボックス席をちらりと見る。その視線の先を追う律は、思わず二度見して、すべてを悟った。
「あー……そういうことか」
そこに座っていたのは、以前、律ともめたあの女性だ。
今日も同じようなフリフリのワンピースを着て、人形のような化粧をばっちり決めている。真っ赤な髪はおろしており、胸下まで長さがあった。
まだ、律の存在には気づいていない。
スタッフが申し訳なさげに声を出す。
「ArisとGeminiでも、同じような騒ぎを起こしてるみたいです。本当は出禁にしたかったみたいですけど、わざわざ律さんを指名してくださってるのもあって……」
「店としてはようすを見たいわけだ? いいよ。俺は大丈夫」
女性のいる卓席に視線を戻す。女性は正面に座るレオの対応を完全にシカトしていた。腕を組み、背もたれにのしかかって、これ見よがしに足を組んでいる。
律はスタッフにここまででいいと制し、卓席へ向かった。
「こんばんは。おまたせしてごめんね」
女性は冷たい顔で律を見上げる。レオはホッと息をついた。
「俺をご指名みたいだけど、よかったの?」
律は薄い笑みを浮かべ、となりに座る。
「うち、永久指名制だよ? 他のお店に若くてオシャレでかっこいい男は、たくさんいると思うけど?」
「……なにそれ。まじでムカつく。せっかく指名してやってんのに」
悪態は以前のままだったが、前回来ているときよりも顔色が悪い。疲労を感じさせ、不自然なほど落ち着いている。
「ムカつく相手をなんで指名したのかなって気になってるんだよ」
同じ卓にいるレオが、律の接客をハラハラして見守っていた。
律は壁際にひかえている店長に目配せする。察した店長が卓席に近づき、レオを引き下がらせた。
「……は? なんでヘルプいなくなんの?」
「俺がきみと二人きりになりたかったから」
「ふーん、あっそ。二人きりに、ね」
女性は鼻を鳴らす。退屈そうに髪をいじりだした。
「……で、どうして俺を指名したの?」
「なんなの? 指名するなって言ってんの?」
女性の顔がゆがむ。疲れていても、感情がすぐ顔に出る。若い証拠だ。
律の言動が気に入らない女性は、不満げな口調で続ける。
「指名したのにそんな態度取られるとか激萎えなんだけど。いくらナンバーワンだからってさ、もっと感謝するべきじゃない? やっぱりナンバーワンにもなると、謙虚さとかなくなっちゃうんだね」
「違うよ。純粋に疑問だっただけ。不快な思いにさせてごめんね」
いくら攻撃されても、律は笑顔を崩さない。女性は深いため息をつき、投げやりに声を出す。
「今日は指名したんだからシャンパン頼んでもいいんだよね?」
「そうだね。でも、きみと同じものでいいよ。酒は得意じゃないし」
「はぁ?」
女性の前に置かれたグラスに入るのは、ソフトドリンクだ。待機しているスタッフに向かって、同じものを持ってくるようサインを送る。
となりで、鼻を鳴らす音が聞こえた。
「酒が飲めないとかホストやっていけんの?」
「なんとかね」
「まあ、確かに? この店じゃあ飲めなくても一位になれそうだもんね。もしかして鬼枕とか? そっち方面がうまいんだ? いくら金出したら枕すんの?」
見下すような目つきで、下品に笑っている。それでも女性をまっすぐに見つめ返し、動じることなく答えた。
「さあ? 枕なんてやったことないからわからないな」
「絶対ウソ。枕しないホストなんているわけないじゃん」
「でも本当にないんだよ。そういうことしない主義だし」
「まさか童貞? あ、違う、包茎だ? それともめちゃくちゃ小さいとか。売り上げ出してるやつでもそっち方面は下手なやついるもんね~」
「そうそう、全部正解。……ははっ」
キレイな顔で吹き出す律に、女性は怪訝な顔を向けた。
「……なに?」
「ううん。今日は普通に会話ができるからうれしくて。こないだは怒らせちゃったし、また来てくれるとも思わなかったしね」
優しく穏やかな口調で、柔らかい空気を全身から放っている。そんな律を、女性は不快気ににらみつけていた。
「こないだも思ったけど、やっぱ私のことおちょくってるでしょ。どうせ金もないし、大した女じゃないと思ってるんでしょ」
「確かに、金銭面でもメンタル面でも余裕があるようには見えないかな。それ自体が悪いことだとは思わないけどね」
律の回答が予想外だったのか、女性は目を見開く。が、すぐに目をつり上げ、唇を噛んだ。
「そんなことないよって言うと思った? でも、きみのことを、受け止めようと思ってるからこそだよ。きみの性格も、きみが恐れていることも、全部ね」
ちょうどそのとき、スタッフがソフトドリンクを持ってきた。律が持ち上げ、乾杯しようと女性に向ける。女性はグラスを持とうともせず、歯ぎしりをして声を荒らげた。
「シャンパンのメニュー表あるでしょ! 持ってきて! 私だって頼めるんだから!」
女性の顔はスタッフに向いている。スタッフは律をチラリと見て困惑していた。
「他のお店では頼めるし! ちゃんとお金も持ってきたもん! そのへんのおばさんよりはお金持ってるんだからね!」
メニュー表を持ってこようとするスタッフを、律が手で制す。