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律と欲望の夜  作者: 冷泉 伽夜
第一夜 Executive Player 律
17/72

涙は誰も気付くことなく




 リオのとなりには、ヘルプのホストが座っていた。拓海は先ほどから戻ってこない。別の卓で注文されたシャンパンの対応に忙しい。


 リオが席を立つと、ヘルプもついてこようとする。


「あ、大丈夫。私ドアの前に立たれると気遣っちゃうから、ここで待ってて」


 リオが向かう先は、女性用トイレだ。男性用トイレより掃除が行き届き、アメニティも充実している。その個室で、便座に座ったとたん、リオの目から涙があふれだした。


 声を出さず、息も漏らさず、ただひたすらに、とめどなく流れる涙をこぼしていく。鼻水で鼻が詰まり、口で呼吸するようになっても、唇を噛んで、必死に声を漏らさないよう耐えていた。


 気がすむまで涙を流したあと、個室を出る。鏡にうつるリオの目は真っ赤に充血し、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。涙を拭いて、鼻をかんだら、アメニティの綿棒で化粧のヨレをぬぐっていく。


 泣いていたとは気づかれないくらいに化粧を整え、トイレを出た。


 当然、リオを待っているホストはいない。


「あ」


 だから、ここで誰と会っても、それは偶然に過ぎなかった。


 女性用トイレからフロアに戻る方向に、男性用トイレがある。ちょうどトイレで吐き戻したりつが、出てきたところだった。


 目は合うが、すぐさまリオに背を向けた。


「あ、あの」


 リオの声に立ち止まり、振り返る。リオは周りに誰もいないことを確認し、続けた。


「律さんって、デリヘルの経営をしてるんですよね?」


「誰にきい……あー……」


 拓海だ。拓海しかいない。


「……お願いが、あるんですけど」


 わざわざ律に話しかけるくらいだ。そのお願いの内容を、律はなんとなくわかっていた。


「律さんのところって、すごく、高級なデリヘルなんですよね? 経験はあるんです。だから、仕事はこなせると思います」


 リオは真剣な表情で頭を下げた。


「お願いします。律さんのところで、働かせてください」


 リオの頭を見下ろす律の顔は、女性客に向けるそれではない。ホストやスタッフに向けるのと同じくらいに冷徹だ。


「ごめんけど、それは無理だね」


 顔をあげたリオの目に、困惑の色が浮かんでいる。


「じゃあ、どうすれば、働かせてくれますか? 見た目が悪いなら、どこなおせばいいですか?」


「それ以前の問題なんだよ」


 あくまでも冷たい目で、突き放す声だった。


「なんて聞いてるかは知らないけど、俺、Aquarius(アクエリアス)のお客さまを自分の店で働かせることはしないって決めてるから」


「え? でも」


「拓海から、なんて聞いてるかは知らないけど。俺、自分の客ですら自分の店で働かせたこと、ないよ?」


 リオに譲歩するようなことは何一つ言わなかった。これ以上お願いしても無駄だと悟ったのか、リオは眉尻を下げ、顔を伏せる。


 息をついた律が、卓席に向かおうと背を向けたときだった。


「なに人の女口説いてんすか」


 リオを迎えに来た拓海が、律をにらみつけていた。先ほどまでの会話は聞いていなかったらしい。聞いていれば気まずさが顔に出るはずだ。


 律は鼻を鳴らす。


「へえ、口説いてるように見えたんだ? だったら、離れないようにちゃんと握っておくべきじゃない?」


「はあ?」


 文句を続けようとした拓海に、リオが駆け寄る。


「もう、怒らないで。たまたま鉢合わせて世間話しただけなんだから~」


 拓海の腕に絡みつき、一緒に卓席へ戻っていく。そのふたりの後ろ姿を、律は先ほどと同じ冷ややかな目で見すえていた。


 


          †




「え?」


 リオの会計時、トレーには分厚い量の万札が置かれた。


 レジに持ってくスタッフを、拓海は丸くした目で見送る。その姿に、リオは喉を鳴らした。


「大丈夫だって。拓海のためならこれくらい」


「いやいや、掛けになるって言ってたじゃん」


「そうだけど……仲直り記念だから」


 無邪気に笑うリオは、拓海をまっすぐに見つめる。


「これからはちゃんと、拓海のこと支えるからね」


「リオ~……」


 拓海は感極まった表情で、涙を浮かべていた。


「じゃあ、なんかお礼させてよ。このあと空いてるなら一緒に」


「いいの? 他の女の子と約束してたんじゃない?」


「リオ以外どうだっていいよ。俺のためにこんなに尽くしてくれてんだから」


 リオは首を振る。


「私のことは大丈夫だよ。私がやりたくてやってるんだし。気を遣わないで」


「気を遣うとかじゃなくて。俺が、リオと行きたいんだって。終礼終わるまで待ってて」


 真剣な顔で見つめる拓海に、リオはぎこちなくうなずいた。





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