2 旅立ち
「ピグちゃんただいま。明日、国を出ることになったから、急いで準備をするわよ」
――タタタタタ――と、手のひらサイズの、茶色いモフっとした毛の塊がミリティアムに駆け寄る。
ピョンとジャンプをしてミリティアムの足に掴まった後、ワシワシと彼女の身体を這い上がり、モゾモゾと服の中へ潜って行った。
お腹の辺りで落ち着いたかと思うと、ご機嫌な『ピーキュルルー』という鳴き声が聞こえてきた。
――四年前、城の書庫への近道でもある庭を歩いていた時――
一匹だけ取り残されてしまっていた、赤ちゃんの『オフサネズミ』を、ミリティアムが見つけて保護した。
普段はピーとかキュウとか、怒るとグーとかギューとか鳴くので、安直だが『ピグ』と名付けた。
本で調べ、代用出来ることが分かったモリヤギのミルクを、小さな口に何度も何度も運んで与えると、ピグは二日後にはチョロチョロと歩き出すようになった。
一週間も経つと、いつの間にか、独りでに草を食べていた。
草食だったので、自身が置かれた境遇でもピグを育てられることに、ミリティアムは喜んだ。
こうして『ピグ』は、ミリティアムにとって唯一心を許せる家族となった。
――それから四年――
ピグはすくすくと成長し、今では豊かな毛の尻尾を持つ、大きめサイズの立派な『オフサネズミ』である。
ミリティアムのことを母親だと思っているのか、ミリティアムが居れば直ぐにお腹の中に潜り込み、ずっとベッタリしている。
完全に大人になっているのに、大層な甘えネズミだ。
「キュイピピピ」
小さな寝言を言いながら、ピグが服の中に納まって寝たので、ミリティアムは早速荷造りを開始した。
成人すれば、政略結婚の駒となるか放逐されるかの覚悟はしていたから、予め考えていた通り手早く荷をまとめていった。
「私なんか、誰もお嫁にしたがらないって、分かっていたのに……。……それでも期待していたんだわ。」
ミリティアムの視界がぼやけていく。政略結婚とはいえ、嫁いだら父や妹から離れ、穏やかな生活が送れるかもしれないと、淡く期待していた自分自身を恥ずかしく感じていた。
ミリティアムは獣人でありながら、獣化はしていない。『無能で役に立たない』存在とみなされていた。
獣人族の優越は身体能力で決まる。狩りをする役に立つか立たないかが、この国では全てだ。
女も子供も、狩りをしない職を生業とする者も、漏れなくその価値観で優越を判断される。
大抵の獣人は、逞しい肢体を得て腕力や脚力が優れていたり、目や耳や鼻が獣化して視覚や聴覚や嗅覚が優れていたりする。
獣人族なら誰しも、何かしらの誇れる特徴を持っていた。
ミリティアムの母メリッサは、輝く黄金の髪に、豹の様にしなやかな姿態を有していた。明らかなヘーゼルの瞳には知性が溢れ、通った鼻筋とふっくらとした唇を持ち、華やかで気高く美しい女性だった。
父のダイガンは、容姿はそれなりだったが、獣人族の次期王という身分と、獅子の雄々しい特徴が現れたその能力の高さから、獣人族の女性人気を集めていた。
浮名を流していたダイガンがメリッサに一目ぼれし、メリッサと出会ってからは、他の女性には一切目を向けることなく、彼女を妻に向かえ溺愛した。
そんな両親の夫婦仲は円満だった。しかし、メリッサは、ミリティアムの妹レティシアが産まれてから産後の肥立ちが悪く、床に臥せるようになっていった。
ミリティアムのおぼろげにある記憶では、いつもメリッサはミリティアムを撫でながら『愛しているわよ』と言っていた。
儚げだが優しい母のことが、ミリティアムは大好きだった。
しかし、ミリティアムが六歳になる年、薬石効なくメリッサは亡くなった。
ダイガンは、ミリティアムの事を、産まれた瞬間に見放していた。
ただ、メリッサの手前、苛烈な行動に出ることはしなかった。
ミリティアムの状況に大きな変化が訪れたのは、母メリッサが亡くなってからだ。
父ダイガンは、番を失った悲しみを、まるでミリティアムに当たることで、紛らわしているようだった。
ミリティアムを居ない存在とし放置するだけならまだしも、少しでも気に食わないことがあれば、ミリティアムを殴る蹴るし、時には牢に閉じ込めたりもした。
成長した妹のレティシアは、姉の置かれた状況が分かるようになると、『能無しを少しでも使ってあげる』と馬鹿にしながら、ミリティアムを召し使いのように扱った。
獣化しているレティシアの方が身体的に強いため、何か失敗するとその度に鋭い爪で顔を引っ掻かれ、よく血を流した。傷跡が残らなかったことだけが救いだった。
一人前に狩りも出来ないミリティアムは、食事も残飯しか与えられなかった。
傷だらけで痩せぎすな身体は貧相で、表情も鬱々としているミリティアムより、母譲りの艶のある金色の髪に、美しくも少女らしい天真爛漫さを持つレティシアを、父も使用人も可愛がった。
父や妹、使用人の目を避けるように、コソコソと書庫に忍び込んでは黙々と本を読むことが、ミリティアムの唯一の楽しみだった。
成人し、家を出るまでの我慢。と、言い聞かせ耐え忍んできたが、彼女を待ち受けていたのは国からの追放、もとい死の宣告だった。
「大丈夫。準備はして来たもの。一人でやっていける。ピグちゃんも傍に居てくれる……」
赤くなった目元をごしごしとこすり、両頬をパチンと平手打ちして、ミリティアムは荷造りを再開した。
***
――翌日 日の出前――
用心のため男物の服に身を包み、背中まであった長く美しい栗色の髪を、バッサリ肩上まで切ったミリティアムは、お腹に唯一のお供であるオフサネズミのピグを入れ、16年間過ごした祖国グリムンドを出た。
(二度と、この国の地を踏むことはないのね……)
「さあ、ピグちゃん。これから二人だけの生活がはじまるのよ」
「キュイ」
お腹から聞こえてくる可愛らしい返事に、ミリティアムは頬を自然に緩めることができた。
茶色いモフモフした小さな体にフサっとした大きな尾から伝わる温もりは、とても心強いものだった――