五話 死ぬかと思った
私は今森にいる。
「どわあああ!!」
「アーッハッハッ!これはどうだ!」
「やめてください、殿下あああ!!」
そしてラドニーク様に虫を投げられている。
その無駄に最高に爽やかな笑顔が振りまかれているのを横目に、私は重い体を必死に動かしながら逃げていた。
そもそもどうして森にいるのかと言うと、事の発端はラドニーク様の「鷹狩りに行くぞ」という唐突な一言からだった。
鷹狩りをやったことが無かったため断ろうとしたけれど、殿下の純粋な瞳に引き寄せられて、気づいたら学園の近くに位置する森にいた。
別に森に来ることはいいのだが、私とラドニーク様が一緒にいれば弄りが当然のように起こるのが難点だ。
常ならばこの弄りを黙って受け入れるしかないのだが、この日は違った。
「おい、ラドニーク!フーリンが嫌がっているだろう。今すぐやめろ」
「チッ、いちいち煩い女め」
我が友、ローズがいるのだ。
殿下が何かをしでかす度に止めてくれるのでとっても有難い存在となっている。
ローズのお叱りに不貞腐れた殿下は最後と言わんばかりに私に残りの虫を投げつけた。
いやっ、だから虫を投げるのはやめてくださいませんかね!?
こうして鷹狩りに来たのは良いものの、殿下は狩猟に早々に飽きてしまったようで、護衛に鷹諸々を渡してからはこうして私に対して悪戯をしかけてくる。
ちなみに殿下の護衛は私たちから割と近い場所にいて、それでも邪魔をしないようにと木陰に身を隠していたりする。
殿下の機嫌に振り回されながらも、何だかんだで私は今日を楽しんでいたりした。
ぐるりと見渡せば自然が溢れていて、ああ、いいなあ、なんて頬を緩ませる。
お母様が亡くなって以来ずっと家に引きこもっていた私は、こうして外に出て誰かと遊ぶということが嬉しくて、少し気恥ずかしかった。
草の青臭い匂いを嗅ぎながら、葉の間から漏れ出る陽の光に目を細める。小さな小川に流れる水の音もとても心地よくて、人知れず心を癒されている。
「何笑ってるんだ?」
「いい天気だなあと」
「当然だろう!このボクが外に出ているんだぞ!」
鼻が伸びそうな殿下のしたり顔に、ローズは呆れた顔をしながらもそうだな、と私の言葉に賛同する。
「ここは平和な森なようだし、こうしてゆっくりと自然に癒されるのも良いな」
今度はローズの言葉に呼応するように、鳥たちがピチピチと喉を鳴らした。
「まあこんなところに魔獣も現れるはずがないしな!」
「不吉なことを言うな」
魔獣とは元はただの獣たちだったのが空気中に存在する魔素を取り込み、化け物と成り果てたものだ。普通の獣よりも力も格段に跳ね上がり、攻撃性が高くなる。
会ったが最後、抵抗するすべなく命を落とすと考えた方がいいほどの恐ろしい存在だ。
魔獣は魔素の濃い場所に存在するため、空気が澄んでいるこうした森にはいないと考えるのが妥当だが、殿下の言葉は正直言ってシャレにならない。
自分の発言はなんのその、殿下の興味はすぐに別のところに移ったようだ。
「お、アレは何だ?」
「洞窟のようだな」
「なんだとっ。これは早速探検しなければ!」
「王子がおいそれとそんな場所に行けるはずもないだろう。少しは考えろ」
「チッ、なら入り口だけでもいいだろ?」
それならまだ許容範囲内かと呟くローズはもう立派なラドニーク様の保護者だ。
そんな二人を見ている私は今日で二人の仲が縮まったことが密かに嬉しかったりする。
「行くぞ、フーリン!」
「あっ、ちょっと手が汚れちゃったみたいなのでそこの小川で洗ってから行きます!」
「ふん、なら先に行っているぞ。付いて来い、赤髪女!」
「はいはい、じゃあフーリン、あたしたちは先に行っているぞ」
「うん!」
手を洗いたかったのもあるけれど、正直体力を回復させたかったからという理由もある。太った体での運動は普通の体型の人が想像する以上にキツイのだ。
手を洗った後、そばにある木にもたれかかる。
三分休憩したら追い付こうとふーっと息を吐いた。
サラサラと流れている水を眺めていた私の耳に突如、メキッ、パキッ、という耳障りな音が届く。
何だろうと視線を動かしても現状特に異変は見受けられない。私たち以外にも人がいるのだろうかと思わせるような何かが歩く音だ。
無意識に拳を握り木の陰に身を隠すも、この大きい体では全く意味をなしていないことに気づいて軽く絶望する。
バキバキッ、バサァッと大木をなぎ倒していく音が大きくなって行く。
ドク、ドク、ドクと密かに、けれど確かに鼓動が強く脈打ち始める。
二人の元に行きたいのに足がその場から離れない。
明らかに危険が迫っていることは分かっているはずなのに。
大きなシルエットがすぐ近くに見え、私が一つ瞬きをしたと同時に現れたのは熊だった。
それがただの熊ならまだ良かった。
ギョロリとのぞく窪んだ目、ダラリとだらしなく垂れている長い舌、異様に発達した大きさの爪、なにより私の身長の三倍はありそうな程の巨大な体が私の恐怖心を遠慮なく掴み上げる。
そして所々腐っているように見受けられる体から発生している黒い霧が、熊の全身を覆うように漂っていることを理解した瞬間、全身の血の気が引いた。
──魔獣だ。
「っいやあああああああ!!!!」
「フーリン!?」
私の叫び声に駆けつけてきたローズとラドニーク様は、魔獣の姿を目に入れた瞬間顔が強張った。
「なななんで魔獣がいるんだよ!?いやだ、いやだいやだ!ボクは死にたくない……!!」
「おい!大声を上げるな、魔獣を刺激するんじゃない!護衛はどこだ!」
「ううう、邪魔だから遠くに行かせた……っ!」
「貴様……ッ」
ローズが青筋を立てたその時、魔獣がゆらりとこちらに向かって動き出した。
ヒッと喉が引き攣り、無意識に後ずさるも何かにぶつかってこけてしまう。その何かの正体であるラドニーク様は恐怖に慄いて地面に蹲ってしまった。
そうこうしているうちに魔獣はこちらに向かって走り出してきた。
万事休すと思ったその時、舌打ちをしたローズが懐に手を入れ、魔獣に向かって走り出した。
「ローズ!?」
赤いポニーテールが激しく揺れる様を私は唖然と見るしかなかった。
短剣を取り出したローズは地を蹴り腕を振り上げたかと思うと、それを魔獣の額に突き刺した。ブシャアッと勢いよく溢れ出る血がローズの顔さえ赤く染めていく。
そして一度短剣を引き抜いたローズは、魔獣の耳を掴んで体を捻り、そのまま魔獣の首を掻き切った。
大きい音を立てて倒れた魔獣の横にローズも降り立ち、感情のない瞳で魔獣を一瞥した。
あまりに隙のないローズの行動に絶句していた私は、背後で鳴った音にすぐに気づかなかった。
ローズの驚愕した顔でようやく振り向いた時はもう遅かったのだ。
「嘘、でしょ」
私たちの後ろには、先ほどと同じ熊の魔獣──それも一体だけじゃない──がいた。
ぶわりと鳥肌が立ち、ラドニーク様と共に逃げようとするけれど、殿下は恐怖で完全に失神してしまっていた。
ああ、と思った時には魔獣の一体が腕を振り上げていて、私は殿下を守るように咄嗟に覆いかぶさった。
「フーリン!!!!」
死ぬ、と思ったその時、ドンッと激しい爆撃音が聞こえた。
え、と顔を上げたその時には魔獣はその場に倒れ、ピクピクと痙攣していた。そしてじわじわと地面に血が流れ始め、その場を赤色で汚していく。暫くすれば完全に事切れたようで、毛一つ動かなくなった。
そして続けざまに他にもいた魔獣たちが倒れていく様子を呆然と眺めていると、
「何やってんだ」
呆れた声が私の頭上から降り注ぎ、視線をあげた先にあった木の枝には渋い顔をした男がいた。
「……レオ?」
震えた声でその名を呟くと、レオは何の躊躇もなくそこから飛び降りた。
どうしてここに、と問おうとする前に、付着した血を拭いながら歩いて来たローズが私の無事を確認するように抱き締めてきた。
「ローズ!」
「良かった、無事で。怖かっただろう?」
「ローズこそ大丈夫だったっ!?」
「ああ、怪我もないぞ」
「っ、良かったあ……っ」
ホッとしたら急に体の力が抜けて、膝立ちの体勢から尻餅をついた状態になった。
そのままラドニーク様を確認すれば、未だに意識はないようだがどこにも怪我は見受けられなくて安堵した。
するとようやくこちらにやって来た護衛の騎士たちは顔面蒼白で、殿下の命令であったとはいえ厳罰は免れないだろうということは想像がついた。
私から話を聞いた上で事の顛末を騎士に話し、城に連絡するように指示したローズはレオに顔を向けた。
「助かったぞ、レオ。フーリン……、とラドニークを助けてくれたことに感謝しよう」
「偶然だ」
「そうか、偶然か」
「……何だよ」
「何も言ってない」
「……」
どうやらこの二人の相性は良いようで、目で会話をすることができるみたいで少し羨ましい。
「しかし何故この森に魔獣が、しかもこんなにも大量に発生しているんだ」
「……魔物が目覚めるのかもしれねえ」
「魔物が?だとしたらレストアは混乱に陥るぞ」
魔物というものは魔獣のように元々存在しているものが変異したものではなく、無から発生する正体不明の存在で、それは何百年という時を経て生まれるとされている。
聖騎士が魔物を倒したという話も二百年以上前のことなのでその時のことを語れる者たちは全て世を去ってしまっている。今世に伝わっているのは『魔物を倒せるのは聖騎士』ということと『魔物が生まれると魔獣が増える』ということだけ。
学者たちが研究に当たっているが、長年その存在は謎に包まれていた。
「ああ、だから聖騎士に来てもらう必要があるだろうな」
「一番近くにいる聖騎士と言えばイルジュアのギルフォード皇子か」
ローズとレオの会話に私は開いた口が塞がらない。
マジで?