六十一話 弱い人 ※ナージュ視点
「貴方の名前はギルフォードだそうよ。……強くあれ、我が息子よ」
黒い髪の小さな生き物をこの手に抱いた時、あらゆる感情があたしを襲い、年甲斐もなく号泣したことを今でも鮮明に覚えている。
第二皇子の誕生に世間が湧く中、平凡な暮らしを、大切な姉を、実の息子を……、多くのものを失ったあたしは確かに絶望の淵に立っていた。
あたしには一人の姉と一人の妹がいた。
双子の姉であるアデラインは、稀に見る優しい人だった。また、嫌なことがあっても自分の中に溜め込んでしまうような人間でもあった。
それなのに自身の弱い内面を隠すように口調を尊大なものにするものだから、周囲の人間からは傲慢な人間だと誤解されがちだった。
一方、四歳下の妹のエミリーは我が強く、好き嫌いがはっきりしている人間だった。人に取りいるのが上手く、甘い顔立ちと声で多くの者を味方につけていった。
魔法の才能もあったため、将来は高給取りである魔導師になるだろうと言われていた。両親はそんな将来が期待できる末の娘には甘かったのか必要以上に甘やかし、その結果、妹の我儘具合は歳を重ねるにつれ増していった。
妹の言動の最もたる被害者は、他でもない、アデラインだ。
『アーデお姉さま。わたし、お姉さまがつけてる髪飾りが欲しいわ』
『アーデお姉さま、わたし、お姉さまのそのドレスが欲しい!』
『アーデお姉さま、わたし、お姉さまのご友人と仲良くなりたいの』
エミリーがあたしに強請ることがなかったのは、アデラインと違って口煩いということもあったし、そもそも学校の寮に住んでいたという理由でだろう。
両親は長女だからという理由でアデラインに対してとても厳しく、少しでもエミリーのおねだりを断ろうものならすぐに叱責の声が飛んだ。
根っからの性格もあってアデラインは両親に逆らうことはできず、情けない笑みを浮かべて大人しく歳の離れた妹の言葉に従うことが常であった。
休暇で実家に帰る度に姉の顔は暗くなり、妹の傍若無人さは増していくものだから、あたしは何度もアデラインを慰める役を買って出ていた。
しかしそんな姉にも皇帝の運命の伴侶に選ばれるという大きな転機が訪れ、皇帝のそばにいるようになってからは生まれ変わったように美しく、明るくなっていくアデラインに、あたしは喜んだ。
しかしそれを妨げるのが、このエミリーという悪女で。
「アーデお姉さま。わたし、陛下が欲しい」
にこにこと無邪気に笑う妹が悪魔に見えた瞬間だった。
「ね、ナージュお姉さまからもなにか言って差し上げて。アーデお姉さまに陛下は釣り合わないって」
断られると微塵も思っていない態度と、アデラインを貶す言葉が出てきたことで、さすがの私も堪忍袋の緒が切れそうになった、その時。
「──やらん」
「え?」
「其方だけにはあの人はやらん」
初めて、アデラインが妹のおねだりを断った。
「なんでっ!?アーデお姉さまはいつも断らないじゃない!陛下だってくれたっていいでしょう!?」
「彼は、我のものだ」
「信じられない!お母さまたちに言いつけるわ!」
「勝手にしろ。言っておくが我は皇妃。血縁者であろうと貴族が皇族に簡単に意見できると思うなよ」
目に涙を溜めた妹が部屋を去ると、アデラインはあたしの横に座ってもたれかかってきた。
「……しんどいものだな」
「なに言ってるの。あんなの無視しておけばいいのよ。それよりどう?ここでの暮らしは」
「ああ、とても良くしてくださっている。だが、なかなかナージュに会えないのが難点ではあるがな」
「それは確かにそうよね。今も貴重な時間だっていうのに、あれが勝手に付いてくるんだもの。本当に困ったわ」
今思い出しても苛立ちが腹の底から湧いてくる。
顔を顰めるあたしを見上げたアデラインは、あたしの眉間に寄った皺を伸ばすように指を当ててくる。
「笑っていろ、ナージュ、我が太陽。其方が笑うだけであたしは元気になる」
「もう、その我が太陽って言うのやめない?恥ずかしいんだけど」
「ナージュは昔から我にとっての太陽だからな。其方のそばにいる時だけは我は光を浴びることができる」
「それこそなにを言ってるの。アーデはもう自由なの。あの家から出れたのなら、あたしという人工の太陽がなくたって光を浴びれるわ」
そういうことにしておこうか、とアデラインが微笑むものだから、あたしは諦めて肩を竦めた。
それからアデラインは息子、エルズワースを産んだ。
待望の皇子に城を筆頭に民は喜んだが、エルズワースは身体がとても弱く、成人まで生きられないとまで宣告され、不安の声が上がるのに時間はかからなかった。
十年経ってもエルズワースの体が強くなることも、次の子が生まれることもなく、それどころかアデラインまで身体を壊し、皇城内に暗雲が立ち込め始めた。
「──は?」
体の弱いアデラインの代わりに皇帝の子を成せ。あたしは結婚していないから問題ないだろう。皇妃も了承済である、と。
大臣と名乗る脂にまみれた男からそう聞かされたあたしは、男を突き飛ばしてすぐにアデラインの元へ向かい、ベッドに座って本を読んでいる姉の名を呼んだ。
「アーデ!」
「……酷い顔をしているぞ、ナージュ」
ぱたりと本を閉じたアデラインは不思議なくらいに落ち着いた笑みを浮かべ、あたしの背を撫でた。
「なにがどうなってるの!?あたしが陛下の子を生むなんて絶対嫌よ!」
「ナージュにとってはそうだろうな。酷なことを言っていることも分かっている。だが、……この国のために子を産んでくれないだろうか」
「ッ、なんでっ、なんでそんなことが言えるの!?アーデだって嫌なんでしょ!?陛下だって嫌に決まってる!どうして抗議しないの!!」
憤る私の手を包んだアデラインの手が微かに震えていることに気付いた時、あたしは咄嗟に口を閉じた。
「確かにあの人は同意しないだろう。だがな、──もう、持ちそうにないんだ」
「……え?」
「あの子はどうしても我のことが許せなかったらしい」
その言葉が示唆するのは、妹、エミリーのことで。
じわじわとアデラインの言葉の意味を理解いくのに比例して、顔が青ざめていくのが分かった。
「なに、が」
「毎日悪夢を見るんだ。内容は覚えていないけれど、とても辛くて悲しい夢を。夢を見るようになって以来、気力や体力が削られていく一方でな、まいったよ」
「もしかして精神に干渉する魔法を」
「どうやらそうみたいだ。あの子にもまいったよ。せっかく魔導師になれたというのに、なにもこんなところでその才能を発揮せずともいいのにな……」
命の危機にあるというのに、その元凶である妹を『あの子』と慈しむように呼ぶアデラインの心理が理解できなかった。
そして実の姉を殺そうとする妹の頭も。
「陛下にはもう言ったのよね?」
「さすがに妹が犯人だとは伝えていないがな。……すぐに魔導師にも見てもらったが、この魔法を解くには一つの方法しかないらしい」
「一つでも方法があるなら良かったじゃない!なに諦めてるのよ!」
安堵から表情を明るくするあたしから目を逸らしたアデラインは自嘲の笑みを漏らした。
「魔法をかけた魔導師を殺すこと」
それが唯一我の助かる道だ、と。
息を止め、顔を強張らせたあたしを、アデラインはゆっくりと抱き締めてきた。
「ね、え、あたしが、あたしが殺してみせるよ?」
「いいんだ」
「じゃあ陛下に、陛下に言えばいいわ!あの方ならあたしよりももっと……!」
「ナージュ」
これ以上なにも言うなといわんばかりに、アデラインは腕に力を込める。しかしそれは振り解こうと思えばすぐに振りほどけてしまうほど、弱々しいものだった。
「彼にはなにも言わないではくれないか」
「い、や」
「其方には辛い思いをさせるだろう」
「いや、よ」
「だがどうか、どうか、この国のために、彼のために、どうか」
この自己中心的な姉の願いをあたしはどうしても無下にできなかった。
なぜなら、滅多にないアデラインからの甘えだったからだ。
「ナージュ、我が太陽。我を恨んでいい、でも、どうか、幸せになって、く、れ」
そんな残酷な言葉を残してアデラインはこの世を去った。
姉は優しすぎた。それと同時に弱い心の持ち主であった。
だからこの世界自体に耐えられなくなったのだろうか。
姉が生きるにはこの世界は汚すぎたのだろうか。
「馬鹿ね、アーデ……あたしが貴女を恨むわけないじゃない」
アデラインを墓に葬ったその日、あたしは陛下に妹のことを打ち明けると、陛下は泣き喚くでもなくただ静かに涙を流した。
「陛下は、なぜ生きていられるのですか」
運命の伴侶が死んだというのに、と皮肉を込めれば、陛下はとても悲しそうに顔を歪めた。
「生きてくれ、と。そう言われたから」
やはり姉は残酷な人だと思った。
その翌日、あたしは妹がこの世から消されたことを知った。