五十三話 どうか
ギルフォード様がレストアへ行く前の日の夜。
「あの、殿下」
「ん?」
「聞いてほしい、話があります」
「……聞こう」
ギルフォード様が半身を起こそうとする気配があったので、回っていた腕に力を込めてこの体勢のままでいいと暗に訴える。
直接顔を見て話す自信がなかったのだ。
「私のことについて話したい、の、ですが、ちょっと待ってください」
手が小刻みに震えている。
手を握り込んでも震えが止まる気配は一切なく泣きそうになっていると、ふわりと大きな手が私のものを包み込んできた。
「大丈夫だ、フーリン」
その声を聞いた瞬間、不思議なことに手の震えは止まっていた。
出そうになった鼻水をすすり、覚悟を決める。
「私のお父様、すごく親馬鹿なんですよ」
この言葉から始まる、誰にも話したことのない私の話を、どうか聞いてほしい。
お父様と二人で生きてきた昔の話を。
「私がなにを言っても、どんな選択をしても、全て肯定して褒めてくれるんですよ。……でも私は時々、そう、時々、お父様の愛情が信じられなくなるんです」
どうして、と問いたげな空気が背後から伝わって来る。
「私がそう思うようになったのは、私のお母様が亡くなった後のことでした」
お母様が亡くなり泣き喚く私を見て、お父様はなにを思っていたのだろう。今思い返してみても、その真意は読み取ることができない。
それでもお父様の悲しんだ顔に目がいくようになってから気付いた、とある事件は、今でも私の記憶の底に眠り続けている。
「お父様、お母様の後を追って、死のうとしてたみたいなんです」
口元に笑みを浮かべてそう言えば、ギルフォード様は全身を強張らせて私の手を強く握り直した。
なかなか寝付けなかったあの日の夜。月明かりに照らされていたお父様の姿を今でも鮮明に覚えている。
自殺しようとしていた明確な証拠なんて何一つない。
それでも幼心に悟ってしまったのだ。
「あ、私捨てられそうになったんだな、って……、そう思いました。お父様にとってそんな意図がなかったのは分かっているんですけどね。お父様、お母様のことが大好きでしたから」
それでも幼い私が衝撃を受けるには充分な話で、それ以来我儘を言わなければ、ご飯を食べていれば、笑っていれば、お父様の悲しい顔を見なくて済むと、死ぬなんて馬鹿なことを二度と考えなくなると、思うようになった。
一日を終えると私はいつも胸を撫で下ろした。
今日は大丈夫だった。今日も大丈夫だった。ああ、今日も大丈夫だった……!と、お父様の存在と愛情を確認し、今日も捨てられなかったと安堵する。
仕事でお父様が家を空けるようになった時の不安は全て食で誤魔化した。
歳を重ねるにつれこうした不安は減っていったけれど、一度根付いた恐怖は今もなお薄れることはない。
「……怖いんです。たとえ誰かから愛されても、いつか捨てられるんじゃないかって、そう思ってしまう」
「フーリ、」
「でもそんなことを思う自分が嫌で……、だからこそ、わたしは生まれ変わりたかったんだと思います」
私は半身を起こし、目を見開くギルフォード様を見下ろす。
私がギルフォード様に会いにいかなかった理由の根本にはこうしたトラウマがあったのだと、最近になって気付いた。
ダイエットは最初のきっかけにすぎなかったのだ。
「自信を持って殿下に会えるよう、頑張りたかった」
「……」
「でも、やっぱり、……自信を付けるのって難しいですね」
へにゃりと力なく笑えば、いつの間にか起き上がっていたギルフォード様が私を抱き締める。
ぎゅうううと力を込められ、息苦しささえ感じた時、
「よく、頑張った」
なんの飾り気もないその一言は私の中にすとんと落ちてきて、前触れなく涙が頰を伝う。
「話してくれてありがとう」
ふるふると首を横に振って、顔を硬い胸板に押し付けた。
「すぐに会いに行かなかったこと、許してくれますか」
「許すもなにもない。フーリンが俺のために頑張ってくれたこと、それを聞けただけで俺は充分だ」
ギルフォード様は体を離し、私と向き合う。
「俺は、ずっとそばにいる」
だから、と私の目尻に指を這わせ、笑った。
「泣くな、フーリン」
その日、私たちは初めて抱き締め合いながら眠りについた。
「あの、殿下」
「ん?」
出立する当日のギルフォード様と会える最後の時間、そばにある腕の裾を軽く引っ張り顔を近付けてもらう。
「気を付けて帰ってきてくださいね」
「……伴侶冥利に尽きるな。ありがとう、フーリンも俺がいない間は特に気を付けてくれ。強制するわけではないが、あまり部屋から出ないでいてくれると助かる」
「分かりました」
そろそろ行かなければならないのか、ギルフォード様は私の頭をぽんぽんと撫でて、部屋の扉へと向かっていく。
まだ言えてないことがあった私は慌ててその後を追って、驚いた顔をするギルフォード様の腕を摑む。
「で、殿下が帰ってこられたら、その、伝えたいことがありますので、私にお時間をください……!」
そんなのいくらでも、とギルフォード様は破顔して私の頰に口付けた。
*
「最近のフーリン様とギルフォード殿下、仲が深まったように見えます」
「そ、そうかな」
まさか先ほどのやり取りを見られていたのだろうか。
羞恥を誤魔化すように作業に戻るけれど、なぜか先に進まない。
ギルフォード様がレストアに行ってしまい、なんとなく落ち着かない気分で作業をしていたけれど、とうとう集中力は切れてしまったようだ。
「んーっ」
勢いよく伸びをし、ついでに欠伸もしていた時のことだった。
「皇族の伴侶とあろう者がよくそのような間抜け面を晒せるものだな。眠いのならそこにベッドがあるであろう?」
どこかで聞き覚えのある声が聞こえて体が固まる。
壊れた魔道具のようにギギギと首を回しながら扉付近に視線をやると、
「へ、陛下」
皇妃様が扇子で口元を隠しながら立っていた。
まさか自室にこられると思っていなかった私は、気を抜いていたこともあってか頭がパニックになる。
「あ、えと」
「なんだ、我とは話したくないとでも?」
「滅相もございません!あ、散らかっていてすみませんっ。すぐに片付けますのでどうぞこちらへ」
皇妃様は長い紫の髪を靡かせながら、ソファに座った。
慌てて机の上にあった物を片付け、ラプサにお茶を出すよう指示をする。
ギルフォード様から皇妃様の内実を聞いたせいか、上手く視線を合わせることができない。
「これはなんだ」
机の端に綺麗に畳んでおいておいた布に興味を示したのか、皇妃様の視線がそこに移る。
「あ、これは、……皇妃陛下にお渡ししたくて私が刺繍したものです」
そう言って震える手で私が差し出したのは、ミモザの花が刺繍された白いハンカチ。
皇妃様はそれを一瞥し、私を見据えた。
背筋をゾッとさせる冷たい視線に私は固まる。
「なぜ、我が受け取る必要がある」
「え、と、いつも素敵な物を贈ってくださるので、なにか御礼ができればと思いまして。大した物でなくて本当に恐縮ですが……よろしければ受け取っていただけると嬉しいです」
私の手からハンカチを摘み上げた皇妃様は、ミモザの花の刺繍に目を止めると、鼻で笑った。
「あ、渡しておいてなんですが、気に入らなければ捨てていただいて構いませんので!」
「気に入らなければ、ねえ」
皇妃様はハンカチを持った手を下ろすと、私に顔を近付け、目を細めた。
「随分と勘違いをしてくれているようだと思ってな」
「勘違い、ですか」
たらりと背筋に冷や汗が流れる。
先ほどお茶を飲んだはがりのはずなのに、なぜか喉が乾いて仕方なかった。
「我の贈ったネックレスはどうだった?」
「とても嬉しかったです!あのような素敵な物を私なんかが受け取って良いのか不安にもなりましたが」
ははは、といつものように軽く笑えば、皇妃様は扇子を畳み、それを机にピシャリと打ち付けた。
驚いた私は肩を思いきり揺らし、顔を引きつらせる。
「腹が立つ」
ハッキリと告げられた言葉に私はなにも言い返すことができなかった。
「其方は、ギルフォードを幸せにできる自信はあるか?」
「……すみません」
「できないというのか」
「申し訳、ございません」
頭を下げて謝罪を繰り返す私を見てなにを思ったのか、皇妃様は徐に立ち上がった。
「フーリン・トゥニーチェ。──覚悟しておけ」
捨て台詞を残して皇妃様が部屋を出て行くと、ラプサが近寄ってきて私の背中をさすった。
「大丈夫ですかっ、フーリン様」
「だ、大丈夫、じゃないかも」
最後に見た皇妃様の目は確実に私を敵認定していた。
少なくとも近いうちなにかが起こることは間違いない。
せめてギルフォード様のいないこの三日間ではなにも起こってほしくないけれど、……嫌な予感というものは大抵当たるものである。
※次話、ギルフォード視点




