五十二話 ある決意
「え、皇太子殿下ってもともと静かな方だったんですか」
「そうらしいわ。わたくしと初めて会った瞬間に大声を上げるような人だったから、昔がそうだったなんて思いもしなかったの。でもギルフォード様に聞くと本当に大違いなんですって」
「想像がつかないですね……あっ、申し訳ございません、不敬を!」
「いいのよ。むしろもっと気楽にお話ししてくれると嬉しいわ」
自室に招いてくれたリフェイディール様は、体調を考慮してかベッドの住人となっていた。
そんなに体調が悪いのならまた出直すと言ったけれど、エルの過保護のせいだから気にするなと返され、私はその言葉に大人しく従った。
確かにこの部屋はエルズワース様のリフェイディール様に対する愛情が窺える部屋だった。
特に四方八方鍵が掛けられており、人が簡単に出入りできないようになっていることに気付いた時にはあまりの過保護ぶりにわずかに鳥肌が立った。
そんな重たすぎる愛を見ないふりしながら相槌を打つ。
リフェイディール様の口から展開されるエルズワース様の話はどれもクスリと笑えるものばかりで、思いの外楽しい時間を過ごしていた。
「エルの話もいいけれど、わたくしはそろそろギルフォード様のお話が聞きたいわ」
「ギルフォード様ですか……」
ギルフォード様を語れるエピソードなど無いにも等しいが、なんとか記憶を手繰り寄せ、あの日以来ギルフォード様の余裕がある時にだけ開催されている料理タイムについてリフェイディール様に話せば、それはそれは楽しそうに声を上げてくれた。
「ふふふ!あのギルフォード様でもできないことがあるのね!」
「でもやり方を教えればすぐに飲み込むのでやっぱり完璧な方だなと思います」
料理の時は恐縮ながら私が教える立場となって、ギルフォード様の言葉通り一緒に作業をしている。
短時間かつ胃に負担がかからないものを作っているので大した技量は発揮していないけれど、ギルフォード様がことあるごとに感心して褒めてくれるものだから照れてしまう。
料理の時間が終われば、そのまま一緒に部屋に向かうのだけれど、それがまたなんとも恥ずかしく、日々心臓を鍛えさせられているような気がした。
「フーリンちゃんが皇城に来てくれてわたくし、本当に嬉しいの」
「……」
「ギルフォード様はフーリンちゃんが来てから本当に変わったわ。心の底から幸せそうに笑う姿なんて、初めて見たときは目が飛び出ちゃうかと思ったの」
クスクスと笑いながら、リフェイディール様は懐かしむように視線を遠くに飛ばした。
「私は……特になにもしておりません」
「なにもしてなくても、貴女がギルフォード様のそばにいるということ自体に価値があるのよ」
果たしてそうだろうかと思ってしまうも、否定はせず大人しく頷くだけに留める。
「実はギルフォード様から皇族についてお聞きしました」
「……そう。フーリンちゃんはどう思った?」
「信じられなくなる、とかは無かったです。──ただ、やっぱり運命の伴侶でなくとも、ギルフォード様にとってふさわしい人は沢山いるんじゃないかとも思ってしまいました……」
リフェイディール様のなんでも受け入れてくれそうな空気に触発されたのか、ぽろりと本音が漏れてしまう。
訪れた沈黙に、さすがにまずかっただろうかと焦りが生まれる。
「フーリンちゃん、聞いてほしいことがあるの」
「……はい」
驚くほど優しい声音でリフェイディール様は語り出す。
「エルと出会ってしばらくした頃、わたくしも同じ話をされたわ。『別に運命の伴侶だからと言って僕が君を選ばなければならない理由はない』とね」
「……」
「でもその後に言うの、『エイダがいなければ僕は人間になれなかっただろう』って」
「人間?」
「そう、人間。おかしいわよね、なにを言ってるのかと私だって思ったわ」
でも周囲の人間は声を合わせて言うのだという。人形だった第一皇子に魂が宿ったと。
「フーリンちゃんが思うギルフォード様ってどんな人?」
「えーっと、仕事にストイックで、真面目で、優しくて、──よく笑う人、ですかね」
リフェイディール様は私の答えを聞いて満足したように頷く。
「フーリンちゃんはギルフォード様の笑う姿をよく見ているのね」
「え、でも他の方に対しても笑うのではないのですか?『氷の皇子』の異名もただの噂だと……」
「ふ、ふふ、ふふふっ!」
堪えきれなくなったのか、リフェイディール様は口を押さえて肩を震わせる。
なにか変なことでも言ったのだろうかと困惑していると、リフェイディール様は目に涙を溜めながら私を見つめた。
「やっぱり貴女はギルフォード様の運命の伴侶だわ」
「へ」
「これからもずっと、ギルフォード様のそばにいて差し上げてね」
その言葉に戸惑いながらもゆっくりと首を縦に振ると、彼女はそれはそれは嬉しそうに顔を綻ばせた。
リフェイディール様との時間の後なにをしようかと迷っていると、とある人物の姿が思い浮かび、そこにいくことに決めた。
「こんにちは、ディーさん」
帽子のつばを上げ私を視界に入れると、男性は顔の皺を増やした。
「やあフーさん」
「今日はなにをされてるんですか?」
「ミモザの木を剪定しているんだよ。ミモザは庭植えにすると大きくなるから手入れが大事なんだ」
「皇妃陛下がお好きなんでしたっけ」
「そうそう、だからなおさら大事にしないとね」
小ぶりの木の幹をぽんぽんと叩きながら、ディーさんは私を手招きをした。どうやら休憩するらしい。
木陰にある二つの木製の椅子に座り、二人してほーっと息をつく。
初めて会ったあの日から何度か会っているディーさんは、いつ会ってもよく分からない人だった。
それなのになぜ会いに行っているのかと言えば──居心地が良かったからに他ならない。
「いい風が吹いてるねえ」
「はい、気持ち良くて寝ちゃいそうになりますね」
「夜はしっかり寝てるのかい」
「寝てますよー」
「嘘はダメだよフーさん。隈ができてるの、私には分かるんだからね」
自分の目元を触ってみても皮膚が柔らかいことしか分からない。よくみないと気付かないくらいに薄っすらとしたものがあることは、少し前から気付いていた。
「フーさんを寝かせてくれないなにかがあるのかな?」
「そうなんです。最近面白い本に出会ってしまってつい夜更かししちゃってるんですよ」
「そう、そんなに面白い本があるならいつか私にも貸して欲しいものだね」
のらりくらりとお互いの真実に触れずに言葉を交わすのが、ディーさんとの会話の仕方だ。
警戒心がないわけではないけれど、会話のコツを掴んだ私にとって、そしてあることを勘付いた私にとって、それが薄れかけているのもまた事実だった。
「フーさんは、その『本』のどんなところに惹かれたの?」
「うーん……、安心する、ところですかね」
「癒しは重要だね。他にはある?」
「いっぱいありますよー。数えきれないくらいに。……でも、ディーさんには内緒です」
「おやおや、ぜひとも聞いてみたかったのだけれど、……秘めたる読者の本心は伝えるべきところに、ということかな」
「一生伝えられないかもしれないですけどね」
サワサワと風で揺れる葉を見上げながらそんな言葉を漏らせば、ディーさんは肩にかけていたタオルで汗を拭い、ゆっくりと口を開いた。
「私はね、好きなものには好きと、嫌なものには嫌だと素直に声を上げられることほど素晴らしいことはないと思ってるよ」
にっこりと笑ったディーさんはそのまま立ち上がり、作業へと戻った。
背を向け作業をするディーさんに向けて、椅子に座ったまま話しかける。
「ディーさんは後悔したんですか?」
「かもね」
「やり直したいと、思いますか」
ディーさんは私を一瞥し、再び私に背を向けた。
「私はね、たらればの話はしないんだ。現在を見なければ話はなにも始まらないと思ってる。まあ、その勇気が私にはないんだけどねえ」
「──じゃあ、頑張ってみませんか」
「え?」
「お互いに、勇気を出して頑張ってみませんか」
ぽかんと口を開けるディーさんだったが、徐々に目尻に皺を作ると、私のそばまで近寄り右手を差し出してきた。
「乗ろうじゃないか、フーさんの提案に」
強く握り返したその手は、見た目よりも硬かった。
*
その日の夜、帰ってきたギルフォード様は酷く疲れた顔をしてベッドに倒れ込んでしまった。
本を読んでいた私はそれを閉じ、「大丈夫ですか?」と顔色を伺う。
「ん……」
「大丈夫、ではないですよね……すみません」
体を横たえ顔をだけこちらに向けると、ギルフォード様は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すまないが、今日はこのまま寝る」
「はい、もちろんです。私のことは気にしないでください」
いつも私に付き合ってくれることが奇跡なのだ。
普通の人ならいつ倒れてもおかしくない時間を仕事に費やしているのだから。
「……父上とともにレストア新国王の即位式に参加することが正式に決まった。三日間俺は城を開けるが、城には兄上が残る」
ギルフォード様は掠れた声を出しながら私も横になるように腕を引っ張ってきた。そのまま私のお腹に手を這わせ定位置を見つけると、安堵したように体の力を抜いていく。
「新国王……メロディア様ですか」
「知り合いか?」
「ラドニーク様の関係で少し」
久しく会っていないけれどメロディア様は元気にしているだろうか。
「フーリンは交友関係が、広い、な……」
そんなことはないと否定しようとしたけれど、それより先にギルフォード様の目蓋が落ちたのを確認し、開いた口をそっと閉じる。
その寝顔を見つめながら、私はディーさんの約束を思い出し、ある決意を固めた。




