四十五話 悩みばかり ※ギルフォード視点
殿下も笑うんですね、なんて意外そうに目を丸くする自分の伴侶の言葉に耳を疑った。
冷酷無慈悲の皇子と恐れられる俺が、人間じゃないと言われ続けてきたこの俺が、──笑った?
幼かった日のこと、花紋が現れた日のこと、伴侶を探し続けた日々がフラッシュバックしたと同時に、言葉では表せない激しい感情がじわじわと胸の内から迫り上がってくる。
俺を唯一『人』にしてくれる人。
それが誰かなんてもう分かりきっていた。
視界に映る己の伴侶に向かって微笑み、彼女が抵抗する前に抱きしめる。
堰を切ったように溢れ出る愛しさは表情に出ていたようで、一瞬見えたフーリンの顔は信じられないものをみたような顔をした。
心外だとは思ったが、腕の中にいる小さくて柔らかい生き物の存在に一瞬にして意識を奪われる。
大抵の貴族女性は痩せすぎていて骨が目立ちすぐに死んでしまいそうな身体だなと思ったことがあるが、フーリンは決してそのようなことはなく、適度な柔らかさがありずっと触れていたくなるような気持ち良さがあった。
むしろ男が好みそうだな、と考えたところで一気にフーリンに群がる想像上の男どもに対する嫉妬心が燃え上がる。
さらにフーリンが不安そうな顔をして自分が運命の伴侶でいいのかなんて聞いてくるものだから俺の我慢は限界を迎えてしまった。
頰にキスしたことは反省も後悔もしてない。むしろ早く唇にもしたいと気持ちが急いたくらいで。
なのにこれから先唇だけはおあずけをくらうことになろうとは、この時微塵も思いはしなかったが。
*
「さて、手短に済ませましょうか」
向かいのソファに座るウルリヒの表情は険しい。
ウルリヒから差し出された書類に並べられた文字を読んでいくと、自分の眉間に皺が刻まれたのが分かった。
「デイヴィット・キャンベル、か」
「ヘルヅェの件もあって最近はだいぶ大人しくなったと思ったのですが、思ったより復活が早かったですね」
ヘルヅェ家がイルジュアに麻薬を密輸しようとした事件で、裏で手を引いていたのがこの男だと言われている。
残念ながら確実な証拠は見つからず無罪放免となったわけだが、流石に皇族に目を付けられたまま動きを見せるのは危険だと思ったのか、ここ最近は鳴りを潜めていた。
イルジュア帝国貴族の末席に身を置くデイヴィットは昔から野心が強く、自分が皇帝になろうと目論んでいるとさえ言われている男だ。
そしてこのデイヴィットは俺の目の前に座る男を敵視しているところがあり、その確執は関係者の間では有名な話であった。
ディヴィットがウルリヒを嫌う理由の一つに、平民なのに皇族のお抱えとなっていることがあることは安易に予想がつく。
ウルリヒはディヴィットを相手にすることがないので、それが余計にディヴィットの敵対心に火をつけており、毎回の如く中枢部を悩ませていた。
「いやはや、この男は昔から私に執着し過ぎて気持ちが悪い。留学中のフーリンの周囲も嗅ぎ回っていたので少しばかりお灸を据えてやりましたが、どうにも懲りない」
「で、今回はフーリンが城にいることに勘付かれたわけか。……頭が痛いな」
「まだなにも行動を起こしていない手前私が表に出るわけには行きませんから、フーリンのことをよろしくお願いいたします」
「分かった」
こめかみを押さえながら書類から目を離すと、ウルリヒはなんとも言い難い顔で俺を見ていた。
「なんだ」
「いえ、悩みというものはいつになっても無くならないものなのだなと」
ウルリヒがなにを言いたいのか薄々勘付いてはいたが、敢えて触れることでもないかと考え、足を組み直しソファの背に体を預ける。
「女神に祈ったらどうだ」
「あいにく私は女神に対する信仰心はございませんので」
「そう言えば其方はそうであったな。……ということは」
とある真実に気付いた俺は思わず前のめりな体勢で眉根を寄せると、ウルリヒは肯定の頷きを見せた。
「娘は女神の意思の現れである花紋が出てもすぐに貴方様に会いに行こうとはしなかった。その行動は普通この国の民なら有り得ないこと。……お察しの通り、そんな行動ができたのは他でもない、フーリンが女神の存在を信じていないからですよ。信じていないものの言葉に従う義理もない」
「フーリンが俺に会いに来なかったのはお前のせいか?」
楽しげに口角を上げるウルリヒに苛立ち、無意識のうちに口調が荒立つも、そんな俺の様子を気にすることなくウルリヒは大袈裟に首を横に振る。
「まさか!全てフーリンの意思ですよ。私は少し背中を押してあげただけです」
「それを其方のせいと言うんだ」
息を小さく吐きながら目を閉じる。
わずかに落ちた沈黙をウルリヒが破るようなことはしなかった。
「俺は、どうしたらいいだろうか」
「おや……殿下らしくない発言ですね」
揶揄った、というよりは普通に驚いたのか、ウルリヒはわずかに目を見開いている。
「彼女が俺を信用してないことは分かってる。俺との接し方に悩んでいることも」
「まあ、そうでしょうね」
「だからこそ俺はどうしたらいいか分からない。フーリンがそばにいることが嬉しくて衝動のままに行動してしまうが、それだと彼女は怖がったままだ」
伴侶の父親にするような話でないことは分かっていたが、正直に頼ってしまったほうがなにか解決の糸口が掴める気がしたのだ。
皇子の威厳を見せすらしなくなった俺の様子にウルリヒは肩を竦めると、仕方のなさそうに笑みを浮かべた。
「フーリンはよく自分を馬鹿だと卑下しますが、本当はとても聡い子です。ちゃんと人を見ている」
「……」
「だからこそあの子とは誠実に、丁寧に、真っ直ぐ向き合ってあげてください。運命の伴侶だから、なんて曖昧な誤魔化し方をせずに」
一人の父親としての表情を浮かべるウルリヒの言葉を噛みしめるようにして頷く。
「私はあの子と向き合えなかったから……、その分殿下の真摯な姿勢は心に響くと思いますよ」
「向き合えなかった……?どういうことだ?」
「いえ、こちらの話です」
それこそ曖昧に誤魔化したウルリヒに、それ以上踏み込むことはせず、片眉を上げるだけに留めた。
「フーリンを殿下のもとに行かせたのはあの子にいろんな世界を見てもらいたかったからに過ぎません。運命など私の前ではあってないようなものです。それをゆめゆめお忘れなきよう」
「肝に、命じる」
ウルリヒが本気でフーリンを隠してしまえば俺が探し出すのは不可能に近くなる。
目の前の男にはそれを叶えてしまえるだけの頭と実力があった。
だからこそ俺は一度だって間違えるわけにはいかないのだ。
「とまあ、娘と離れることとなった腹いせに少し意地悪をしてしまいましたが、私は別に殿下とフーリンを引き離したいなどとは思っておりません」
どこまで真意なのかを見極めようとしても、ウルリヒはいつもと変わらない涼しい顔をしているだけで。
「私はフーリンの味方ですから。その意思に従うまでですよ」
「原則は、だろう」
「ふふ、そうですね」
原則があれば例外があるのが普通だ。その例外がなにかをきちんと把握しておかなければ、最悪の事態に繋がる可能性があった。
「さて、そろそろ殿下もフーリンのもとに向かわれた方がよろしいかもしれませんね」
額面通りに言葉を受け取ればいいはずなのに、悪戯げなその笑みに嫌な予感がする。
無言で睥睨する俺に対し、ウルリヒは顔を逸らして外に目をやった。
「別になにも企んではおりませんよ。ちょうど今大魔導師のレオが来ているというだけの話なだけです」
「それを早く言え!!」
飛び上がるように立ち上がった俺を、ウルリヒはなぜか引き止める。
最後に一言だけ。その後に続いた言葉は、
「トゥニーチェの名前は大きい。くれぐれも貴方様のそばにいる腹黒の主にはお気を付けくださいませ」
皮肉が良く効いていた。
*
母上に対する想いを初めて人に吐露したその瞬間はがらにもなく緊張した。フーリンがどんな反応を見せるのか怖かったからだ。
しかしそんな俺の不安など杞憂に終わるどころか、フーリンは俺の心に寄り添ってくれさえした。
思わず口に出してしまった愛の言葉は、幸か不幸か彼女に届くことはなく、空気に溶けていく。
柔らかい手を握り締めたまま反対の手でシーツを握り締めた。
「はー……くそ」
らしくないのは分かってる。でも俺らしさなんてフーリンを前にするとどうでもよくなってしまう。
フーリンの特別になりたい。その一心で俺はこれからもらしくない言動ばかりするんだろう。彼女に心を開いてもらうために、信頼してもらうために。
そして心から信頼してもらえた暁には、ありたけの俺の愛を伝えよう。
フーリンの存在を感じたくて頬に口付けた後、勢いよくシーツに顔を埋める。
ああ、本当に。
「好きすぎて胸が苦しい……」




